――けれど現実は、俺が想像しているより遥かに残酷だった。
高2の夏の終わり。期末テストの勉強を教えることになって、日依の家を訪れていた日曜日。
あの日は残暑でひどく蒸し暑かったのを覚えている。
俺はたまたま階下のリビングでおじさんとおばさんが会話しているのを聞いてしまった。
『やっぱり私信じられない……あの子が10年しか生きられないなんて……』
『本当だよ。なんで日依がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……』
その日俺は知ったのだ。大切な大切な幼なじみが余命宣告をされていたことを。
その日からしばらくは毎晩悪夢にうなされ、眠れなかった。現実として受け入れることができなかった。
けれど、ぽきんと折れかけた俺の心をもう一度奮い立たせたのは、他の誰でもない、日依本人だった。
日依が背負ったのは、多分安易に形容してはいけないほど耐え難く苦しい絶望だと思う。けれど、そんな恐怖をだれにも悟られないように背負い、果てのない真っ暗な深海の中にひとりで沈んでいく覚悟だったのだ。
そんな日依が、俺の前ではいつだって無邪気に振る舞い笑っていた。それなのに俺が怖気づいていてどうする。
何度涙を流す夜があったのだろう。君が涙を流した分、俺が君の笑顔の理由になれるだろうか。
俺は、いつか日依がすべてを話してくれるその日を、いつまでも隣で待っていよう。
そうして俺の進むべきを見つけた頃だった。再び世界が反転したのは。
それは日依の誕生日を終えた、10月末のこと。
ビルの上から落下する鉄パイプから、日依は身を投げ打って俺を助けてくれた。その事故では日依のおかげでふたりとも事なきを得たが、突然日依が俺の前で倒れてしまったのだ。
偶然近くにいた人が救急車を呼んでくれて、日依は近くの総合病院へと運ばれた。
そして緊急で処置が行われ、処置室から一般病棟に運ばれたが、日依はなかなか意識を取り戻さなかった。家族ではない俺には、担当医から詳しい病状は説明されていない。でも日依の余命を縮める病気が関係していることは明らかだった。
『日依、頼むから目を覚ましてくれ……』
白くて薄っぺらな日依の手を握り、額に強く押し当てる。
『日依、頑張れ。俺はここにいるよ、日依』
力ない声で、それでも日依が迷子にならないよう、帰ってくる道がわかるよう、必死に声を続ける。
──と、その時だった。突然、電源プラグを引き抜かれたように一瞬にして病室が真っ暗になったのは。
停電かと考えたけれど、違う。目の前にいたはずの日依がいない。病室にあったはずのベッドやテレビさえもない。
まるで俺ひとりが世界から切り離され、暗闇に包み込まれたようだった。
なにが起こったんだ……?
訳もわからないまま、暗闇の中、あたりに視線を巡らせた時。
『――弓月映』
どこかから俺の名を呼ぶ声がした。それは聞いたことのない女の人の声。けれどあまりに綺麗すぎて無機質で、この世のものではないような……。
続けて、目の前にぽっと小さな明かりが灯る。その明かりの正体は――一羽のフクロウ。日依が飼っているシロフクロウのフクだった。
首に日依特製のネームペンダントを懸けているから間違いない。
フクが神秘的な光を放ち、なぜかそこにいた。羽ばたいていないはずなのにその体は浮いている。
『お前、フクか……?』
『そうです。やっと私の声が聞こえましたね』
女の人の声が、フクから聞こえてくる。
まさかこれはフクの声なのか……?
俄かには信じられない話だった。けれど、暗闇に俺とフクしかいないというこの状況では、そうとしか説明できない。
なによりフクが纏う神秘的な光が、有無を言わさないほどの力を持っていた。
『今はシロフクロウの姿を借りていますが、私の正体は神の遣いです。私を助けてくれた日依に恩を返すため、ずっと日依のそばにいました』
『恩を返すため……?』
『そうです。それはつまり、貴方に真実を伝えること』
フクの声は、まるで心に直接語りかけられているように、心にすっと馴染んでいく。
フクの声を聞きながら、なぜかこのあまりに現実味のない状況を徐々に受け入れ始めていた。
『貴方は、日依の命があと10年しかないことを知っていますね?』
『ああ……』
『けれど日依は病気を患っているわけではありません』
『なに、言って』
フクの言葉がなにを示すのか、その意図がわからなかった。
そんな俺に、フクは小さな嘴を動かし、そして告げた。
『日依の寿命を縮めているのは、映――貴方です。貴方には、触れた人間から命を奪い食べるという、死神の血が混じっているのです』
『は……?』
落ち着き払った声で頭を殴ってくるその言葉の意味を、頭の中で咀嚼するのに数秒かかり、じわじわ理解して行くのに合わせて遅効性の毒のように唇が震えた。
日依の命を奪っていたのが、俺……?
『貴方は人間の命を食べ続けなければ生きていけません。貴方が今日までこうして生きてこられたのは、日依の命を食べてきたからなのです』
『うそ、だろ……』
体の内部へ氷の塊を流し込まれたみたいに全身と心が凍りつく。自責と悔恨の念に首を絞められ、窒息しそうだ。
あまりに残酷な事実に俺は、立ち上がる気力もないほど打ちのめされていた。
ずたずたに刃物で突かれ、心が鮮血を流しながら悲鳴をあげている。
『死神の血は貴方の父親から受け継いだものです。貴方の父親は自分が死神であることとその習性を知って、貴方たちの前から姿を消したのです』
『じゃあ親父は……』
『はい。誰の命も食べなかったせいで、3年前に衰弱死しました』
『そんな……』
『それは貴方のお父さんが遺したものです』
つぶらな茶色の瞳が俺の手に向けられていることに気づき、反射的に自分の右手を見る。するといつからそこにあったのか、手の中には、親父が常に身に着けていた天然石のブレスレットが握られていた。
親父は独りで死んだのだ、誰の命も奪うまいとして。俺とお袋は知らないうちに守られていた。
この最悪のタイミングでその事実を知ることになるなんて、どんな皮肉だろう。
ぎゅうっとブレスレットを握りしめる。手に宿る天然石のひやりとした感触。これは紛うことなく現実なのだ。
『俺は……日依に――人間に触れなければ死ぬのか……?』
極度の緊張のせいか喉が貼りつき、うまく言葉を発することができない。うわごとのように平仮名をなぞるように発すれば、フクは無情にも小さく頷いた。
『そうです。その手で人間に触れなければ、命を吸収することができず、じきに息絶えるでしょう』
フクのその声は真っ暗な闇の中にやけに響き渡り、頭の中でこだました。
小さな頃から今日まで、何度この手で君に触れてきただろう。君に触れるたび、無限の勇気をもらえる気がしていた。それなのに。
……俺がこの手で日依の命を奪っていたなんて。
君への愛が行きついた先にあったのは、すべてを覆い尽くすほどの絶望だった。