『あんたなんか産まなきゃよかった……!』

 生まれた瞬間から俺は、"間違った"存在だったのだ、きっと。


 記憶の中のお袋はいつも声をあげて子どものように泣いている。
 なんの前触れもなく親父が失踪し、お袋の心は壊れた。元々そんなに心が丈夫な人ではなかったし、お袋はとても親父のことを愛していたから、仕方のないことだったのかもしれない。そして悲しみと憎しみの矛先が俺になるのも、必然的な流れだったのだろう。
 あんたさえ産まれなければ、あの人はきっと私のことを置いて行ったりしなかった――いつの間にかそれがお袋の口癖になっていた。
 そして泣き疲れてもうあまり力の入らなくなった手で俺をぶった。その気になればその手を避けることも止めることもできたけど、俺はそれに反抗せず、黙って受け入れていた。だってお袋がこうなったのは、俺が無力で無意味でお袋を救えないせいだから。

 お袋に存在を否定され、親父には捨てられ、俺を愛してくれる人なんてどこにもいないのだと思い知らされた。
 でもそんな俺の隣に、太陽のような君はいつだっていてくれたのだ。だから俺の心は、どんなに蹴飛ばされてずたずたにされても、闇の底に落ちずにいられたのだと思う。

 記憶に強く残るのは、中学生の時のこと。
 体育館の掃除が終わり、渡り廊下を歩いていた俺は、ふとグラウンドの方から聞こえてきた会話に足を止めていた。それは俺の名前が風が運ばれてきたからだった。
 木の影に隠れてそちらを窺えば、女子が3人、掃除の途中なのか竹ぼうきを持ったまま雑談をしていた。制服の胸元のリボンの色から察するに3年生だろう。

『――1年の弓月くんの家、父親が失踪したんだって』
『えっ、そうなの? あのすごいかっこいい子だよね?』
『うわー、えぐい』
『なんか、他の女の人のところに行っちゃったらしいよ』
『浮気ぃ?』
『えー、じゃあ弓月くんもあんな綺麗な顔しておいて、実は浮気性だったりして』
『怖っ!』
『なんかショックなんだけど。こっそり推してたのに』
『人は見た目によらないからねぇ』

 くすくす、くすくす。
 隠そうともしない好奇心に満ちた声が、俺の心をささぐれだたせる。
 ため息をつきたくなった。なんてくだらない話だろう。
 親父が失踪してからこういう類の噂が何度もされてきたのは知っている。なんで人の不幸を、雑談の色づけに使えるのだろう。

 こんなくだらない会話に耳を貸しているほど、俺は暇じゃない。馬鹿らしくなって、その場からと立ち去ろうとした時だった。

『映のことなにも知らないくせに、そんなこと言わないで……!』 

 震えた声が、俺の鼓膜を揺らしたのは。
 はっとしてそちらを見れば、拳を握りしめ仁王立ちし、目を真っ赤にした日依がいた。

『えっ、なにこの子、泣いてんの?』
『怖い怖い……』

 先輩たちが日依に圧されて散っていく。
 そうしてだれもいなくなったグラウンドの端っこで日依はひとり、込み上げてくる悔しさを押し殺すように、鼻を啜り下唇を噛みしめながらぽろぽろと涙を流し続けた。

 なあ、日依。だれのために泣いてくれてるんだよ。
 俺のせいで心優しい君のことを何度泣かせてしまっただろう。
 でもあの時日依が声をあげてくれなければ、俺はきっと自分でさえ心の傷を見過ごしていた。日依が、だれにも知られずひとり闇に溺れそうになった俺の心を掬いだしてくれたのだ。

 ──お袋が俺を置いて出て行った時もそうだった。
 俺の家に遊びに来てくれた日依に、お袋が帰ってこなくなったことを伝えるのは、さすがに少し緊張して。フローリングに座った俺は一口お茶を啜り、ソファーに座っている日依を見上げる。そしてできるだけ余計な感情をはらまないように、なんてことないことのない他愛話みたいなトーンで告げた。

『そういえば、お袋出て行ったんだ。俺を見てると、親父を思い出して苦しかったらしい』
『え……?』

 日依の瞳に、ざわりとさざ波が立つ。動揺とショックと悲しみが、日依の瞳の色を支配する。
 俺はなにより怖いのだ、この澄んだ瞳の静寂が壊れてしまう瞬間が。
 だから俺は焦って、頭に浮かんだ言葉をまくし立てる。

『そんな顔するなって。大丈夫だから。生活費とかはちゃんと振り込んでくれるらしいし。それに家も自由に使えるからのびのびできるっていうか。だから……』

 するとその時、俺の手に重ねられた手が、俺を我に返らせた。
 目の前の日依に焦点が合うと、日依は泣いていた。ぽろぽろと、君の大きな瞳から優しい雨が降る。

『映……家族になろう。私が家族になる。だから映はひとりじゃないよ……』

 がつんと、なにかに殴られたようだった。
 その瞬間、唐突に思い知ってしまう。俺の心が寂しいと叫んでいたことに。もうだれも置いて行かないでと、独りにしないでと、必死に叫んでいた。
 だって、どんなに罵倒され殴られたって、あの人は俺のたったひとりの母親だったから。

『ありがとな、日依』

 膝で立ち、涙を流し続ける日依の頭を自分の胸元に抱き寄せる。胸元がじんわり日依の涙で熱く濡れていく。
 けれどそれは、込み上げてきた俺の涙を隠すためだったのかもしれない。

 日依がくれた言葉が、俺の心の中でまるで宝石のようにきらめきを放つ。
 黒は何色にも染まらない。けれど心にできた黒いシミを、君はいつだって真っ白に洗い流してくれるのだ。

 君がくれた無償の愛を、どれだけ返してもきっと足りないけれど、いつか少しでも返せるだろうか。

 この日から俺の中で、日依を守ることが人生の一番の道しるべになった。