ざざー……ざざー……
 耳の奥で寄せては返す波の音が蘇る。

 私はあの複雑で神秘的な色を、絵の具で再現しようと苦心していた。
 パレットの上で何度も色を調合し、真っ白なキャンバスに乗せる。今もなお強く瞼の裏に残るあの日の光景が、実体のある色を得て目の前に姿を現していく。

 映と"逃避行"をした翌週、私はさっそく音無先生に許可をとり、放課後に美術室の一角を貸してもらうことになった。美術部の邪魔になってはいけないなと思っていたけれど、今部活は毎週水曜の週一でしか活動していないらしく、好きに使っていいと快く承諾してもらえた。

 今日は授業が午前中で終わる特別日課だったため、授業が終わるなり美術室にやってきた。

 筆を持つのは、あの夏以来約半年ぶり。映からもらった筆を汚してしまうのは少し躊躇われたけど、この筆を使うことこそが恩返しになる気がした。

 そうして映からもらった筆で最初に描き始めたのが、映と見た冬の海というわけだ。
 あの日の光景を忘れはしないけれど、少しでも記憶が鮮明なうちに頭の中からキャンバスに描き写していく。

 思い出を刻むため、そして今この時を大切に抱きしめるため、私は再び絵を描くことにした。
 私が見た大切な景色を絵に遺していくのだ。それはきっと私の生きた証になるから。

 一度絵に向き合うとなると、私は時間が経つのも忘れて没頭してしまう。
 壁に掛けられた時計が秒針を進める音と、自分のわずかな呼吸の音だけが静寂の中で息をしている。
 すると、その時だった。

「――日依」

 澄んだアルトが、静寂を切り裂いた。
 はっとして筆を持つ手を止め、声がした方を見れば思わず驚く。その声で、だれかはわかってはずなのに、すぐには信じられなくて。

「映、どうしてここに……?」

 そこには、腕組みをしてドアにもたれかかって立つ映がいた。
 映には、美術室を使っていることは伝えていない。てっきりもう帰ったかと思ったのに。

 すると映が眉尻を下げて苦笑する。

「自分でもよくわからない」

 そしてゆっくり私の方に歩み寄りながら、静謐な光を瞳に灯す。

「でもなんとなく、ここで日依が絵を描いてる気がした」
「映……」

 私のことなら映はきっとなんでもわかってしまう。映はもしかしたらエスパーなのかもしれない。

「っていうか、いつからそこにいたの?」
「んー、10分前くらい前かな。ずっと日依のこと見てた」
「はっ、恥ずかしいよ……! 声かけてくれたらよかったのに」
「だってすごく集中してたし。それに日依のことならいくらでも飽きずに見てられる」
「うう……」

 そんな平然としたトーンで甘いことを言わないでほしい。深い意味はないとわかっているのに、なにも言い返せなくなってしまう。

 それから映は視線を移し、私の前にあるキャンバスを認めた。

「絵、描いてたんだな」
「うん、まだ昨日からなんだけどね」
「なに描いてるんだ?」
「この前の"逃避行"の時の海。すごく綺麗だったから」
「へぇ」
「でも難しくて。黒と青と紺と水色と、それから夕陽の当たったオレンジと……」

 語りだすと、小さくくすりと映が笑った気配があった。映のことを置いて、頭が再び絵に没頭しかけていたことに気づき、私は慌てる。

「出た。日依の集中モード」
「ご、ごめん……」
「やっぱり、絵を描いてる時の日依はきらきらしてるよ」

 そう言って映は自分のことのように嬉しそうにふわりと笑う。

「そうかな」
「ああ」
「でもね、また描いてみたいと思えたのは映のおかげだよ。自分の命のタイムリミットを知ってなにもかも諦めてたけど、映が背中を押してくれたからまた頑張ってみようって思えたの」
「そっか」

 映は小さく息を吐き出すように呟き、それから。
 
「頑張ったな、日依。自分の弱さに打ち勝ったんだな」

 映が手袋をした手で、私の頭を撫でる。毛糸の少しちくちくとした感触が髪を乱す。

 じんわりとした映の声が心に、まるでコーヒーの中に落ちた角砂糖のように溶けていく。
 椅子に座り、映を見上げたまま。それはなにかの力に引っ張られ、心の奥から喉を通り、声を纏って飛び出ていた。

「好き……」
「え?」
「私、映のことがずっと好きだった」

 ずっと硝子の蓋を閉めて閉じ込めておいたはずなのに、突然音もなく蓋が開いてこぼれてしまった。
 その途端泉のように湧き上がる気持ちに、歯止めが効かなくなった。
 ああ、なぜかじんと目の奥が熱くなる。泣くようなタイミングじゃないのに、熱いものが込み上げてきて涙腺が刺激される。

 ぼやけた視界の中、映が目を見張る。

「日依が、俺を……?」
「な、なんで驚くの?」
「だって、俺のことはただの幼なじみとしか思ってないって思ってたから」

 前言撤回だ。やっぱり、映はエスパーなんかじゃない。だって私を形作るこんなに大きな気持ちに気づいていなかったなんて。

「ふふ、映って鈍感だったんだ」

 目を細め笑った瞬間圧迫されて、こらえていた涙が一粒こぼれた。
 これはなんの涙だろう。映への愛おしさかな、まだまだ生きていたい悔しさかな、気持ちを伝えられた解放感かな。
 君への想いだけ置いて行ってしまってごめんね。

「ごめんね、告白なんてして。でも伝えたかった」

 そう言って顔を上げれば、思わず息を呑む。そこにはあまりに優しい眼差しを降らせる君がいたから。

「ごめんねじゃない。俺が今どれだけ幸せか知らないだろ」
「映……」
「俺を幸せにするのも、息苦しくさせるのも、馬鹿にさせるのも、全部日依だけだ」

 映の言葉が、春風のように鼓膜を揺らす。

「俺はもうずっと日依のことしか見えてなかった。日依が俺のすべてだった」

 その時だった。ふと、映の顔色がひどく悪くなっていることに気づいたのは。映の顔は、いつの間にか血の気を失ったように真っ青になっていた。

 ――映……?

 映は溶けてしまいそうなほど儚い笑みを浮かべ、

「だから俺は、その言葉だけでもう悔いなく死ねるんだ」

 そしてふらりと。その体が揺れたかと思うと、私の目の前で、まるで糸が切れたように膝から崩れ落ちた。