次の終点は、海が見える駅だった。
「海だ~!」
壮大な海を前に、私は大きく伸びをした。凪いだ潮風が鼻孔を優しくくすぐる。
海にわざわざ足を運ぶ機会はなく、幼少期に家族で来た時のおぼろげな記憶しかなかった。
壮大で、水平線が果てしなく遠くて、言いようのない感傷に襲われる。
「冬の海なんて初めて来たかも」
砂浜にしゃがみ込んだ映が心なしかいつもより声色豊かなトーンで呟いたのが聞こえてきた。
「私も」
「ふたりじめだな」
11月頭の海に訪れる人はそう滅多にいるわけではないらしく、見渡す限りの海にも砂浜にも人影はない。車の音や雑音もなく、ただ等間隔で繰り返される波の音が鼓膜を優しく撫でるだけ。
たしかにふたりじめだ。この世界にふたりっきり。いっそこれが現実世界になってしまえばいいのに。
海に面した空が、もうすぐ夕暮れを迎えるためにオレンジ色をわずかに滲ませ始めた頃、私は砂浜に上がった。
年甲斐もなく水を掛け合ったりして遊んだせいで、私たちは濡れていた。
冬の海は、夏に見るよりも色が深くて海の底が遥か遠くに感じられる。
海の色は黒でも紺でもない。たくさんの色が交じり合っている複雑で綺麗な色だ。きっと絵の具では作れないだろうなと、そんなことを頭の片隅で思う。
「ねえ、映」
数メートル先で、くるぶしあたりまで浸かり水を蹴っている映の名を呼ぶ。それは世界で一番綺麗な響きだ。
「ん?」
髪の先から水滴を滴らせながら、映が私を見た。静かにぶつかる視線。
「私、映に話さなきゃいけないことがあるの」
決意を持って唇を開いたはずなのに、それはあまりに不安定に揺れていた。
――事故に遭ったあの日から、ずっと悩んでいた。
私は余命のことを映に打ち明けるべきなんじゃないかって。
『ひよちゃんはぼくを置いてどこにも行かないでね』
今も耳に残る、幼い映の必死に縋る声。
『日依を喪ったらって思ったら怖くなった……。日依がいない世界なんて、息もできない……』
あの日私の鼓膜を打った、あまりに切実な心の声。
余命のことを告げたら、優しい映を、心配や同情という見えないけれどなにより強固な鎖でさらに縛りつけてしまうかもしれない。
でも私になにかあったらとあんなに青ざめ恐怖に怯えていた映になにも言わずに死んでしまったら、その方が不義理で残酷だと思った。
そんなのまるで逃げるみたい。なにも知らずに両親に続いて私にまで置いて行かれた映は、途方もない悲しみをどこにぶつければいいと言うのだろう。
どうせ遅かれ早かれ、私が死んだことは映の耳に届くはずだ。死んだ後でだれかの口から伝わるくらいなら、直接自分の口から言いたいと思った。それはとてつもなく勇気のいることだけど。
今日まで余命のことを隠してきたのは、映の笑顔を守るためだと思っていた。
けれど本当は、映の悲しみを真正面から受け止める勇気がなかったからなのかもしれない。私のせいで映を絶望させるという現実から目を伏せ逃げていただけだった。
私は向き合いたい。映を悲しませてしまうという責任に。そして映の悲しみを半分でいいから背負いたい。
「どうした?」
映が優しい声で私の表情を窺う。
「あのね、言われたの、先生に、今年の夏にね」
緊張のせいで頭が動く前に言葉が先走り、語順がばらばらだ。
だけど、そんなこと気にしないでいいと言うように、映はいつもどおりの空気で微笑んで頷く。
ここに来てもなお、こんな話止めた方がいいんじゃないかという躊躇いが心の中に湧いたけれど、映が真剣に私の声を拾おうとしてくれている気配があって、そんな映に背中を押されるようにして、震える唇でぽつりと一言こぼした。
「……私、余命10年なんだ」
その瞬間、波の音も車の走行音も、まわりの一切の音が遮断された気がした。
ああ、言葉にしてしまった。
自分の声がまるで鋭利な刃物になったような気がした。
映の顔が見れないまま、もつれた舌で言葉を繰り出す。
「ずっと言えなくてごめん、私っ、」
「――知ってるよ」
思いがけず私を遮った声に、私は呆然として顔を上げた。
そこには、切なくも凪いだ微笑をたたえる映が立っていた。
「え……?」
「夏の終わり頃。日依の家に遊びに行ったとき、おじさんとおばさんが話してるのを偶然聞いたんだ」
胸が詰まって、そしてそれは喉に蓋をして、なにも言えなくなった。なにか声を挟みたいのに、思考は空回りを繰り返すばかりで言葉を手繰ることができない。
そんな情けない私の前で、映は長い睫毛を伏せて声を継いだ。ビー玉のように綺麗な瞳が睫毛で翳る。
「正直毎日眠れなかったよ。何度も喚き散らしてくそみたいな現実から逃げたいとも思った。でも一番怖くて仕方ないはずの日依が、俺の前で笑顔でいようとしてくれただろ? だから俺も笑っていようって決めたんだ」
「映……」
……知らなかった。
映はすべてを知っても、悲しい顔もカワイソウな顔もせず、いつだって陽だまりのようにそこにいてくれた。私は知らず知らずのうちに大きな優しさに包まれていたんだ。
映が眼差しを持ち上げ、私を見る。その瞳には深い慈愛とたしかな決意で宿っていた。
「今度は俺に守らせてよ、日依。日依を守ることが俺の道標だって言っただろ」
「……っ」
その眼差しの先に在れることを、たまらないほど幸福に思った。
涙の気配は愛おしさという熱に変わる。
ああ、今私の心を揺らすのは、切なさじゃない。幸せだ。
ずっと、死ぬことと同じくらい生きることも怖かった。それならばいっそと、生きることを何度も諦めたいと思った。
でも今、生きたいと思った、この人の隣で。
悩んで苦しんで、そうやって精いっぱい生きることを頑張りたい。もがくことは生きている者の特権だから。
死ぬ日のために生きるのではない、彼の瞳に一秒でも長く映っているために生きるのだ。
鼻から大きく息を吸い込む。新鮮な潮風が鼻孔を満たす。
優しい風が連れてくる明日が待ち遠しいと思った。
私は小さく息を吐き、そして声をそこに乗せる。
「あのね、この前小説を読んだの。『君に贈る物語』って本」
それは藤澤廻という素性不明の作者が書いた小説で、中高生を中心に人気になったらしく、クラスでもちょっとした流行になったのだ。
私も夏葉に薦められ、ミーハーな興味本位で読んだのだけれど、その物語は思いがけない結末を迎えた。
「その本では、ある登場人物が大好きな人のために命を落としてしまうの。でもね、大好きな人のために生きて、大好きな人のために自分の命を捧げて、私は幸せ者だなって思った。それくらい想える人に出会えたんだから。だけどその本のレビューを見たら、『バッドエンドで可哀想』『ハッピーエンドがよかった』ってコメントで溢れてた」
映が一音一音に耳を傾けてくれている気配がある。
寄せては返すさざ波の音が、優しく私に寄り添ってくれる。
「ハッピーエンドってなんだろうね。なにがハッピーエンドでなにがバッドエンドなんだろう。私の人生は傍から見たらバッドエンドで可哀想って思われるのかな」
例えばお葬式で、「こんなに若いのに可哀想」「病気なんて不幸だったわね」と、私は憐れまれてしまうのだろうか。
私の人生は、本当にバッドエンドの一言で片づけられてしまうようなものなのだろうか。今、こんなに幸せで満ちているのに。
「私、思うんだ。私の物語はだれがなんと言おうとハッピーエンドだって。タイムリミットに付き纏われる日々はつらいし、結婚したかったし温かい家庭だって作りたかった。よぼよぼのおばあちゃんになって家庭菜園とか楽しんだり……そんな夢を見ることもある。でもね、私の物語は誰にも書き換えさせたりしない」
言葉にすることで、それはすとんと改めて自分の心に落ち着き馴染んでいく。言葉が自分の意思に変わる。
「映に出会って、映の幼なじみになれて、私は私でよかったって思う。人より短い人生かもしれないけど、映が100年分の幸せをくれたから」
今日までこの世界を何度も恨んだ。けれど君のいる世界はやっぱり目に沁みるほど美しかった。
すると、それまで黙ってじっと私の声を受け止めてくれていた映が、静かに唇を開いた。
「……ああ、今すごく、抱きしめていたかったな」
吐息と共に吐き出された映の声が、涙を含んで濡れていた。
目の縁は赤くなっていて、下瞼に力を入れて最初の一滴がこぼれてしまわないよう堪えているのがわかる。
なだらかな顔の輪郭を伝うように、前髪から滴った水滴がつーっとこぼれる。色のない透明なそれは、まるで涙のように見えた。
きゅうっと目の奥が熱くなる。何度も涙の波が襲ってきてだめだ。
私こそ、映を抱きしめていたかった。私の熱を、存在を、君と分け合っていたかった。
そしてそれと同時に、すべてを打ち明けた今なら私のお願いを映に伝えられると思った。
私はじゃぶじゃぶと再び海水の中を踏み分け、そして映に自分のスマホを差し出す。
「映にお願いがあるの」
「ん?」
「私の遺影を撮ってくれないかな」
「え……?」
「映が見てる私が、本当の私だから」
私の生きた証を、映に刻んでほしいと思った。
すると映は、"遺影"という質量のある言葉に戸惑うでも否定するでもなく、柔く笑んで頷いた。
「わかった」
「ありがとう」
スマホを渡し、距離をとるため映に背を向けた時。
「日依」
優しい響きで、映が私の名を呼んだ。
長い髪を潮風に揺られながら振り返れば、スマホを目の前にかざして、映が画面越しに私を見つめていた。
「日依のことが愛おしくて仕方ないよ」
そして放たれた、私にはもったいないほどの最大級の愛に満ちた言葉。
私は思わず照れくささで破顔した。
――かしゃり。
シャッターを切る機械の音が響く。
目に映るすべてが眩いほどに輝いていた。
愛おしかった、この命が。この一瞬が。