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「日依」
下校途中、スマホ越しに映が私の名を呼んだ。けれどそれが呼び止めるためのものではないことはわかっていた。でも彼が呼ぶ私の名前は、耳に心地よくてとても好きだ。
海沿いの防波堤の上をバランスをとって歩きながら、私は「んー?」と声だけで反応する。防波堤の下の歩道を歩く映は、私にスマホを向けている。それはいつものことなので、特に気にも留めない。
「2024年10月8日、高校からの帰り道。俺は今、夕陽に照らされた君の横顔を見つめてる」
「横顔なんて見ててもつまらなくない?」
「日依の横顔好きなんだよね、俺。すごく綺麗。正面ももちろん好きだけど」
「もう、口がうまいんだから、映は」
口調では軽くあしらうそれで、けれどその実内心では感情が爆発していた。
好きって言われた。好きって、2回も。そんなに簡単に、好きだなんて口にしないでほしい。
昔からこうやって映は、無自覚のうちにどきっとするようなことをさらりと囁くからタチが悪い。10年以上経ってもそれにちっとも慣れない私は、何度感情をかき乱されたことか。
映はこうして日々、スマホのカメラで私のことを動画に撮っている。
映像研究部にも所属している映は、小さい頃からカメラが好きだった。そしていつか私を主役にしたショートムービーを撮るのが夢らしい。なんてこっぱずかしい夢なんだとは思うけど、いつか映が撮ったショートムービーを見るのは密かな楽しみでもあった。
「はい、どうぞ」
防波堤が途切れたところで、映が私に自然な流れで手を差し出してきた。こんなふうに私のことを女の子扱いしてくれるのは映だけ。
その手を取り、掴まるようにして防波堤から飛び降りる。映と同じ地面に降り立ったところで、繋いだ手は気まずくなる前にさっと振り払うように離す。思わず愚痴めいたものが口をついて出ていた。
「映ってさ、本当無自覚天然たらしだよね」
「ムジカク天然……?」
当の本人は頭の上にクエスチョンマークを飛ばしているけれど、映は高校でもモテモテだ。ルックスだけでも抜群なのに、成績優秀の優等生なのだから、非の打ち所がないというわけだ。
「それより映、言ってなかったっけ! 私に渡したいものがあるとか」
なんだか要らないことまで言ってしまいそうな予感を察し、私は強引に話を逸らした。
ついこの間、渡したいものがあるから楽しみにしててと含んだ口調で映に言われていた。そのことを持ち出すと、映ははっとなにかを思い出したように表情を明るくする。
「ああ、そうだった。この前撮った写真がすごく綺麗に撮れてたから見てほしかったんだ」
「へぇ、写真? どれどれ? 見たい!」
私が前のめりに興味を示したのを見ると、映は少し得意げにポケットから学生手帳を取り出し、そこに挟まっていた1枚の写真を差し出してきた。
いったいどんな景色がそこに写っているのか。そんな期待と共に手元の写真に視線を落とした私は、思わず開口一番ツッコんでいた。
「って、風景写真かと思ったら私かいっ」
「はは」
そこに写るのは私だった。青空を背に、くしゃくしゃに顔を崩して笑っている。
この写真が撮られた時のことは覚えている。それは高校からの帰りに寄り道をして公園を訪れた日のこと。いつもみたいに動画を撮っているのかと思ったらまさかの写真で、思わず吹き出してしまった瞬間の写真だった。
「どう? 可愛いだろ、日依」
「私ってこんな顔するんだ……」
映の言葉はスルーし、意識するより先にそう口の中でひとりごちていた。
「いいよな、その写真。俺のお気に入り」
「なんか恥ずかしい……」
何年も向かい合ったはずの鏡の前では出会えなかった彼女がそこにいる。大好きな人の前で、心から気を許しているからこんな顔ができるのだと俯瞰的に思う。
……私の遺影は、映に撮ってほしいな。
手の中の写真を見つめながら心に浮かんだのはそんな思いだった。
映といる穏やかなこの時にこんなことを思うのは場違いかもしれない。けれど、映の前の私こそありのままの私な気がするから。この表情はきっとというか絶対、映にしか撮れないものだ。
するとその時、びゅうっと唸り声をあげて強い風が吹いた。不意をつかれて指の先から写真が離れる。小さな突風は竜巻のように写真をいとも簡単に巻き上げる。
あっと思った時には遅かった。重力を失ったかのようにひらりと舞い上がった写真は、いたずらな風に攫われ空を飛んでいた。
「写真が……!」
「待って、日依!」
私は写真を追いかけ、走り出していた。階段を駆け下り、向かう先に広がるのは海だ。
頭上を見上げながら砂浜を駆け、そして濡れるのもいとわず海の中に飛び出す。
追いかけてくる波を掻き分ける音は耳に届かない。
まるでおもちゃを手放すように風が遊ぶことをやめ、写真がはらはらと落下してくる。私は必死に手を伸ばし、写真を掴もうとする。
そしてついに指の先で写真の端を掴んだ。
……と、その瞬間、波に足をとられ、自分の足が今海水に浸っていることを思いだした。
あっと思った時にはもう足がもつれ、体がぐいんと後方に傾いていた。やばい……!と咄嗟に宙に伸ばした手は空をかき、けれどその手を掴むものがあった。
「日依……!」
映の手だ。
「はゆ……」
けれど私が倒れていく重力に逆らえなかった。私は映の手を掴んだまま、映もろとも海の中に倒れ込んだ。
バッシャーンと派手な音をたてて水しぶきがあがる。
尻もちをついたまま、衝撃に耐えるためぎゅっと瞑った目をそっと開けると、眩しい金が視界に映った。
「日依、大丈夫か……っ?」
これまでにないほどの至近距離に、ガラス玉のような澄んだ双眸がある。
突然の展開に頭が追いつかず、私は半分呆然としたまま答える。
「大、丈夫……」
私は大丈夫だけど、それはこっちの台詞だ。私に馬乗りする体勢になった映まで、私があげた水しぶきを頭の上から被ってびしょびしょになってしまっている。
「よかった」
映は微笑みかけて、けれど不意にきゅっと目を瞑ったかと思うと、しゅんっと小さくくしゃみをした。その途端に張り詰めていた糸が解け――、吹き出したのは同時だった。
「ふふふふ」
「ふはっ」
年甲斐もなくふたりでびしょ濡れになっていると、なんだか童心を思い出すようで。海の中に座り込んだまま、私たちはしばらく笑い合っていた。