――だれかが泣いている。

 暗闇の中、私は声がする方を振り返った。

『わぁーあ……』

 泣き声の主はそこにいた。目をごしごしと擦りながら泣いているのは、幼い頃の映だった。
 思わずそちらに歩み寄ろうとすると、それより先に映に駆け寄る姿があった。それは、同じく幼い私だった。

『どうしたの、はゆるちゃん』
『あのね、みんながぼくを真っ暗な倉庫に閉じ込めたの……』

 小さい頃、映は女の子らしい見た目と、強く意見を言わない引っ込み思案な性格とが相まって、同級生や年上の男子たちのいじめの標的になっていた。
 幼い私は、自分より数センチ小さい映の頭をよしよしと撫でる。

『わたしが来たからもう大丈夫だよ』

 すると真っ赤に泣き腫らした瞳で、映が私を見上げる。その眼差しは、迷子になった子どもが唯一頼れる存在を見つけた時に向けるそれだった。

『ほんとう……?』
『ほんとうだよ』
『ひよちゃんはぼくを置いてどこにも行かないでね』

 涙の狭間にそう言って、映が小指だけを立てて、その手を差し出してくる。それは指切りげんまんの合図だ。
 私は笑顔でその小指に自分の小指を絡める。

『うんっ、やくそく! はゆるちゃんのこと、ぜったいに置いて行ったりしないよ!』

 これは幼い頃の私の記憶だ。
 そうだ、私、映と約束したのだった。私だけはなにがあっても映を置いて行ったりしないって。
 だって人一倍寂しがり屋の君が――私のたったひとつの宝物が――泣いちゃうから。




 それは突然のことだった。
 意識のチャンネルが、突然現実に噛み合って、私ははっと目を開けた。
 視界に真っ先に飛び込んできたのは、白い天井だった。けれど厳密には真っ白ではない。白に広がるトラバーチン模様に、ここが自分の部屋ではないことを悟る。そして私が布団のようなものに横たわっていることも。
 鉄パイプが落ちてきて、それから――。まだ靄のかかった頭の中で必死に時系列を辿ろうとした時だった。

「日依……?」

 掠れた声が鼓膜を打った。
 はっとしてそちらを見れば、映が不安と心配に染まった表情でベッドサイドの椅子に座っているのを見つける。

「映……」
「さっき意識を失って、救急車で病院に運ばれたんだ」

 私の混乱を言葉がなくとも理解してくれた映に状況を説明され、少しずつばらばらだったピースがあるべき場所にハマっていく。
 ということは、ここは運び込まれた病院ということになる。
 病室の窓を、止むことない雨が叩いている。外はすっかり暗いから1、2時間は眠っていたのだろう。

 それより、最悪だ。よりによって映の前で意識を失うなんて。敏い映になにか勘づかれてしまっていたらどうしよう。
 なにかを突っ込まれる前にと、口が勝手に動いていた。へらりとした笑みをつけて。

「大袈裟だなあ。ちょっと貧血気味だったんだよね」

 けれど映の伏せられた表情は強張ったまま。言葉もリアクションも返してくれない。

 急に心がざわつき、不安になった。
 だから私は思わず、宙ぶらりんになっていた映の手に、自分の手を重ねていたのだ。
 けれど、その刹那、ぱしんと。乾いた音をたて、その手を振り払われていた。

「え……」

 思いがけない拒絶に、私は目を見張る。
 拒絶されたショックなんかよりも、映の傷ついた表情が私の心をきつく絞めつけた。

 ……そうだ、さっきから目が合わないのだ。いつだって、私の目線に合わせてくれる映の目が、私に向けられないのだ。

「映? なにか変なこと、考えてないよね? 消えちゃいそうだよ……」

 なんだろう。この漠然とした大きな不安は。
 わからない。けれど、なにかとても恐ろしい予感がするのだ。
 いったいなにが映にこんな表情をさせているのだろう。

 けれど、映はそれには答えなかった。代わりに、消え入りそうなボリュームの声を、それでも語気を強めて張り上げた。

「――なんで助けたんだよ。あんなことしたら危ないだろ……っ」
「え?」

 突然叱られ、私は目を瞬かせる。

「鉄パイプが落ちてきた時、少し遅れてたら日依が下敷きになってた。なんであんな無茶なこと……」

 なんで、なんて。そんなの、答えは最初からひとつしかない。
 私は映の思いを直向きに受け止め、自分の中の揺るがない信念を言葉に変える。

「だって映だから。映のことは命に代えたって守るよ」

 不思議だよね。自分のこの命が途切れるのが怖くて仕方ないのに、君のためなら喜んでこの命を捧げられるんだよ。

 と、私の言葉に、映が襲いくる切なさを堪えるように下唇を噛みしめた。

 目の前にいるはずの映の表情が、なぜか不鮮明でぼやけている。
 その心はひどく弱り切っているように感じた。次々と込み上げる感情の波に押し潰され、今にもぱりんと音をたてて壊れてしまいそうなほど脆く見える。

 振り払われた手を、再び伸ばす。けれどそれが届くより先に、映が立ち上がった。

「……ごめん。本当に。もうすぐおばさんが来るはずだから」

 そうして、やっぱり目を合わせないまま映は病室を出て行った。

「映……」

 私の声は、届いてほしい人に届くことなく、病室の白い壁に吸い込まれていった。
 こんなにも映の心が遠くなったのは、初めてのことだった。