翌朝。
 夕方から雨が降るらしいという天気予報を見て、水色の折り畳み傘をスクールバックに入れて家を出る。

 質量のありそうな曇天の空の下、いつものように家の門の前で映が待っていた。

「おはよ」

 私を見るなり形のいいアーモンドアイが優しく細められる。私に心を開ききってくれているその笑顔を見るたび、鼓動は条件反射できゅんと疼いてしまう。

「おはよう、映」

 並んで歩きだせば、私に気づかせないほど自然な動きで映が車道側にまわる。
 いつものどおりの流れ、いつもどおりの光景。
 けれど、歩くたび映に接しそうになる左肩に自然と意識が集中してしまう。

「そーいや、夕べ同じクラスの奴からこの動画が送られてきたんだけど」

 最初に口火を切ったのは映だった。映がスマホの画面を見せてくる。それは、20秒ほどのネコの面白動画だった。

「面白かったから、日依に見せたくて」

 くすりと笑う映。いつもこうして面白いものや綺麗なものは共有してくれるのだ。

 昨日のことがあったせいで身構えていたのに、映はいたって普段通りで、少しだけ拍子抜けしてしまう。

「ふふ。じわるね、これは」
「だろ。人間みたいだよな」
「それだ」

 でも、だからこそ私の心も解れたのだけれど。

 私も映に見せたくて保存しておいた動画を見せる。そうして笑い合っていると、学校が近づいてきた。だんだんと同じ制服を着た生徒たちの姿が見受けられるようになってきた。

「今日の授業、理系科目ばっかりだよ。頭パンクしそう……。いいなあ、映は理系で」

 一日のスケジュールを思い、項垂れたその時。

「――なあ、日依」

 映が、私の手を掴んだ。
 覆い包んでしまうほど、大きな骨ばった手。いつも優しく私を導いてくれる手。
 立ち止まり、振り返れば、ほんの少し強張った真剣な瞳で私を見つめる映がいた。

 冬の風が私たちの間を通り過ぎていく。いつ雪が降ってもおかしくはないほど空気はしんと澄み切っている。
 煌びやかなショッピングセンターも、見上げるような高層ビルも、人が賑わう大きな駅もない。どこまでも田舎道が続く、閉ざされた小さな私たちの世界。
 そんないつもどおりの世界が、なぜかふと見慣れないものに見えた。

「今日の放課後、話したいことがある」
「……うん、わかった」

 映の眼差しに瞳を貫かれ、数秒の間ののち私は答えた。
 自分の心臓の音だけが、やけにクリアに耳に響く。

 ああ、ついにこの日が来たのだと思った。映の瞳を見れば、どんなことを言わんとしているかはわかる。きっと昨日の続きの話だ。キスは間違いだったと謝られるのだろうか、それとも――。
 どちらにせよ、もうこれまでの関係ではいられないのはたしかだった。
 やはり、最初に一線を越えたのは映だった。
 なにもしなければこのままでいられるのに、その安息の時間にひびを入れる、その勇気がどれだけ大きいものか私は身をもってわかっているつもりだった。だって私はこのまま卒業まで、見ないふりをしてやり過ごすつもりだったから。

 ねぇ、映。私は君を傷つけない未来を間違えずに選ぶことができるかな。
 私が守りたいものなんて、最初からひとつしかないんだよ――。