プラネタリウムを出て電車に乗ると、最寄の駅に帰ってきた。

 田舎町には、デートスポットになるような目立った施設なんてなにもない。なにをするのだろうと思っていると、映が私を連れてきたのは、通っている高校だった。

「え、学校?」
「そ」
「でも今日、学校空いてないよ?」

 戸惑いながらひとけのない校舎を指さすと、映が得意げに笑う。

「もちろん忍び込むんだよ」
「ええっ」

 思いがけず大胆な提案に私は驚く。中学生の頃、模範生徒として表彰された優等生の映がそんなことを言い出すなんて思ってもみなかったから。

「行こう」

 けれど映からそう手を差し出されれば、私の躊躇いも不安も一瞬で拭き飛んでしまうのだ。

 生徒はもちろん教師もいない校舎。
 映に手を貸してもらいながら校門の柵を飛び越え、敷地内に忍び込む。

「映って優等生だけど意外と不良だよね」

 まわりに人影はないからその必要はないのに思わず声を潜めてしまう。
 すると映は私を導くように数歩先を歩きながら返してきた。

「本当は優等生を演じてるだけだからな。いい子にすればお袋が帰ってくるって小さい頃は信じてた。馬鹿らしいよな。そのクセが抜けないんだと思う」
「映……」

 知らなかった。映が努力を重ねて優等生を演じていたことを。学力体力共に学年1位になって、同級生には慕われ、先生たちからは厚い信頼を得て。映はひとりで背伸びをして頑張っていたんだ。
 咄嗟に言葉が見つからず背中を見つめていると、その背中がくるりとこちらを振り向いた。私を向けられたその顔には、気の緩んだ苦笑が浮かんでいた。

「でも日依の前ではつい素が出る。どんな俺でも日依なら受け入れてくれるって信じてるから」

 言葉に詰まる。

 けれど、映はわたしを暗い気持ちにさせたくて打ち明けてくれた訳ではない。
 映の声は、主観ではなく俯瞰で、自分の心に一定の距離感を持って見つめていた。だからか吹っ切れているような響きで聞こえてきた。
 なにより、なんてことのないトーンでおばさんの話を持ち出してくれたことが嬉しかった。
 あの日──映の家で語り合った日の出来事が、映の心に変化をもたらしていることは明らかだった。

「そんなの当たり前でしょ」

 ひとつだけ、死ぬまでの心残りが消えた気がした。



 一階の端にある化学室の窓のひとつの鍵が壊れていることは、一部の生徒の間では有名な話だった。錆のせいか年季のせいか建てつけが悪いせいかひどく重いけど、窓はちゃんと開いてくれた。

 そこから建物の中に入ると、映は脇目もふらず迷いのない足取りで階段を上っていく。

 はたして高校でなにをするつもりなのだろう。

 薄暗くなった廊下を歩き、映が足を止めたのは、映の所属する映像研究部の部室の前だった。

「ここ?」
「ん」
「でも鍵閉まってるよ?」

 土日はどの教室も施錠されているはずだ。
 すると、映はポケットを探って鍵を取り出した。

「先生には話つけてある」

 まさか予め先生に借りていたとは。
 先生に鍵を借りられるというのは、映が日常生活で得た信頼があるからだろう。私が借りたいですって言っても、まず託してはもらえないはすだ。

 すべて想定通りの流れらしい。
 その鍵でなんなく開錠すると、映はこちらを振り返った。

「さ、入って」
「うん」

 映に言われるまま、教室の中に足を踏み込む。
 この部室は校舎の端っこにあり、今は使われていない元理科室だ。それを改造して部室として使っているのだと、前に映から聞いたことがある。
 元理科室である名残で遮光用の暗幕カーテンがつけてあり、それが閉まっているせいで室内は真っ暗だ。

 映がなにをするつもりなのか、ここに至ってもなおわからないまま。

「映……?」

 映はどこだろう。
 急に心細くなってその名前を呼んだ時。

『──日依』

 どこかから映の声が聞こえて、それと同時に光が視界の端っこに映った。
 映の声と光を辿るように振り返れば、真っ暗な黒板に映写機から映像が映し出されている。
 それは、映が撮ったいつかの映像。私が真っ白なキャンバスに向かい、絵を描いている映像。

『なに描いてるの』

 ビデオを撮っている映の声が、カメラに近いからか耳元で響く。

『これはね、次のコンテスト用の絵だよ』

 ここはたしか、中学の美術室。夕焼けに照らされ、顔やエプロンを油絵具で汚しながらも、私は一心不乱な眼差しでキャンバスに筆を走らせている。

『題材はなに?』
『えー、わかっててそれ聞くの?』
『うん、聞かせて』
『題材は、映さんです』
『ふは、そうだね』

 そうだった。私はいっつも映のことばかり描いていた。
 たまに風景画も描くけれど、すぐに飽きて、結局映のことばかりスケッチしていた。

『毎日絵ばっかり描いて疲れない?』
『疲れないよ。だって夢があるからね』
『夢?』
『いつか個展を開くの。私の絵で空間を埋め尽くして、たくさんの人に絵を見てもらうの』

 そこでようやく手を止めて、私がカメラのレンズを見た。にへへと笑う私は、髪もほつれて、顔も絵の具だらけなのに、なぜか自分ではないかのように眩しかった。
 ……私ってこんなふうに絵に向き合ってたんだ。
 いつだって絵を描くことに夢中だったから、だれかの目を通して見る自分は新鮮だ。

 すると映像の端から手が伸びて、私の頭の上にぽんと手が置かれた。

『叶うよ、その夢。俺が保証する』

 そしてそんな私の隣には、いつだって君がいてくれたね。

 映像が切り替わり、美術室のドアの隙間から教室の中を覗き込むような画角に変わる。
 美術室の中では、私が椅子に座って真剣な表情でキャンバスに筆を走らせていた。
 多分部活は休みの日だったのだろう、放課後の美術室には私以外の人影はない。

『今日も日依は絵を描いてます』

 私に気づかれないようにか潜めた声。撮影主である映の声がカメラに向かって語りかける。

『頑張れ、日依』

 いつだって見守ってくれていたんだ。そんなこと、知らなかったな。

 再び映像が切り替わる。今度は教室だ。映の教室に、私が飛び込んできたところらしかった。

『どうしよう! この前の絵が最優秀賞獲っちゃった!』
『え!?』

 上気した顔で映に報告する私。
 映も映で慌ててカメラを回したのか、映像がぶれている。

『すごいな、日依!』
『へへ』
『頑張ってたもんな』
『ありがとう。なんか、夢がちょっと近づいた気がする』
『だな。これからも俺に見たことない景色を見せて』
『うん! 約束よ!』

 映像の中の私は、得意げに笑って見せている。

「約束……」

 あ……。すっかり忘れていた。そんな大切な約束をしていたこと。
 すっかりそれまでの情熱を失い絵を描かなくなった私を、映はどんな思いで見ていたのだろう。でも決して私を急かすようなことは言わなかった。

 映像がそこで終了し、「電気点けるよ」と映の声が暗闇のどこかから聞こえたかと思うと、ぱちんと音がして一気に視界が弾けた。
 教室の電気が点き、目が眩む中、映写機の後ろにいた映がこちらに歩み寄ってくる。

「日依に見せたかった。絵を描いてる日依自身のこと。知らなかっただろ、あんなに眩しいんだよ、日依は」
「映……」
「日依、誕生日おめでとう。プレゼントはこれしか思いつかなかった」
 
 そう言って映が長方形の箱を差し出してくる。
 その箱を受け取り、わずかに緊張のこもる指先で開けると、そこに入っていたのは筆だった。
 それは私が愛用していたもの。病気を知って、折って捨ててしまった筆と同じ種類のもの。
 筆の柄の部分には、「Hiyori.K」と名前まで刻印されている。

「これ……」
「俺、日依の絵の一番のファンなんだ」

 顔を上げると、映が笑みを浮かべていた。決して私を置き去りにしたりしない、のろまな私にそっと寄り添ってくれる優しい笑み。

「だから、また気が向いたらでいいから、日依の絵を見せてほしい」

 どうせ死ぬのに、なにかに熱中するなんて馬鹿らしいと思っていた。だから全部捨てた。筆も、絵の具も、これまで描いた絵も、絵への情熱も。

 でも今"描きたい"と、率直に思った。この筆で、また私の見る世界を、まっさらなキャンバスに映し出したい。そうしてできることなら、映に一番近くで見ていてほしい。
 どうしようもなく臆病なぐずだから、映にそっと背中を押されてようやく気づくことができた。私はまだ、すべてを諦めたくないのかもって。絵を描いていたいのかもって。

 そうして、私は私が生きた証を残したい。絵を描くことが私の存在証明になる気がした。
 絵を描いていれば、私は余命宣告をされたあの日より前の自分に戻れるのかもしれない。

「ありがとう、映……。私、また描きたい……」

 震える声と共に、ぽつりと涙が一粒こぼれた。
 すると映はそんな私の後頭部に手をまわすと、力強く自分の胸へと引き寄せた。見た目よりも広い胸に抱かれ、私の涙を隠してくれる。
 そして。

「生まれてきてくれてありがとう」

 私の頭に頬を寄せ、ぽんぽんとあやすように優しく背を叩きながら、愛に満ちた言葉を紡いだ。

 その瞬間、胸が震えたのがわかった。
 生まれてきてくれてありがとう、なんて、そんな優しくて温かい言葉をもらえるなんて思わなかった。けど、私はもしかしたらこの言葉が一番ほしかったのかもしれない。
 それはまるで私をこの世に繋ぎ止めてくれる、揺るぎない一縷の光だった。

 余命宣告を受けてから、私はずっと暗闇に放り出されて迷子だった。
 なんのために生まれてきたんだろうって、どうせ20数年で死ぬのに生まれてきた意味なんてあったのだろうかって、何度も考えた。
 でも生まれてきた意味はあったのかな。ありがとうって、そう言ってもらえる命だったんだね。

 映の腕の中は温かい。いつまでもこうしていたいと思った。