「あ! 大変、もうこんな時間!」
眠さと闘いながら惰性でトーストを齧っていた私は、壁に掛けられた時計が出発の時間を指していることに気づいた。瞬間、氷水を頭の上からかけられたように意識が覚醒する。
目の前のテレビの中では、お天気お姉さんが毎朝恒例のじゃんけんをするところだ。これが毎朝の、家を出る時刻の合図。
「みなさん、今日もいきますよぉ。じゃんけん……」
「ぽんっ」
テレビに向かって咄嗟に出した手はパー。対してお天気お姉さんはグー。
「勝った……!」
このじゃんけんをしたからどうこう言うわけではないのだけれど、毎朝のルーティーンになってしまっているから、どんなに急いでいても体が反応してしまう。
ひとりで口の中で喜び、そして隣の椅子に置いていたブレザーとスクールバッグを乱雑に手に取ると、キッチンでお父さんの分のお弁当を作っているお母さんに向かって「行ってきます!」と大きな声をぶつける。
するとすぐさま慌てたような声が追いかけてきた。
「ちょっと! お弁当忘れてる!」
言われて初めて気づく。早起きして作っているお弁当がふたつ分、キッチンの前のカウンターに置き去りになっていた。いけない、忘れ物をするところだった。
「せっかく作ったのに、自分で忘れちゃだめでしょ。ほら、ふたり分ね」
「ありがと」
お母さんから、黄色と水色のランチトートを受け取り、今度こそ出発だ。
ローファーを足に引っ掛け、家を飛び出すと、家の前に立つ人影を見つけた。彼は私の足音を聞きつけ、くるっとこちらを振り向くと、頬を緩めて笑った。
彼が笑うたび、陽だまりを見つけたような温かい気持ちになる。
「おはよ、日依」
「映。おはよう!」
くっきりとした二重瞼の下の色素の薄いブラウンの瞳、すっと通った鼻筋、色気を纏う形のいい唇。神様の手によって精巧に作られた人形のように綺麗な顔立ち。
朝から顔面のフルパワーを浴びてしまい、カロリーの高さにほんの少したじろぐ。もう10年以上一緒にいるのに、日々新鮮にその顔面のよさに驚いてしまうのだ。
弓月映。
彼は私のたったひとりの幼なじみ。
と、不意に冷たい外気が鼻をくすぐり、くしゅんとくしゃみをしてしまう。すかさず映が自分の首に巻いていたマフラーを解き、私の首元に巻いてくれた。
「寒いか?」
首元に温もりと映のシトラスの香りを感じ、私はずびと鼻を啜りながら笑う。
「へへ、映さん、また過保護発動してるよ」
「日依が風邪引くより断然いい」
映が巻いてくれたグレーのこのマフラーは、中学3年生の時、私が誕生日プレゼントとして贈ったものだ。映はひどく気に入ってくれて、毎年冬が来るたびにこのマフラーを着けてくれている。
いや、まだ10月。本格的な冬の到来前だ。毎年、校内でも一番乗りで映はマフラーを巻く。
「ありがとう」
「どういたしまして。さ、行くぞ」
「うん」
映が歩き出し、私もそれについて歩きだした。さりげなく歩道側を歩いてくれるのは毎日のこと。
私はドジでいつも抜けているから、しっかり者の映がお世話係みたいなポジションだ。
小さい頃はこうではなかった。幼少期の映はそれはそれは天使のように可愛くて、けれどそれが原因でいつも男たちにいじめられて泣いていた。そんな泣き虫な映を助け、手を引き導くのはいつだって私だった。それなのにいつの間にか関係性は逆転してしまっていたのだ。
だけど、ふたりの間に流れる空気館や距離感は高校生になった今でも変わらない。
他愛ない会話をしながら、ふたりで並んで歩く。これが私の日常。何気なくありふれたようで、なにより尊く大切なもの。
関東の外れの田舎道は、住宅街や田や畑が並ぶばかりで煌びやかなものはなにもない。けれどここは私と映が生まれ育った街。私たちの小さな世界。この街で私たちは数えきれないほどの言葉を交わし、感情を重ね合った。
昨日見たテレビの話が一区切りついた時、映が思い出したように切り出した。
「そういえばこの間、美術の先生が日依のこと褒めてた」
「え?」
「美術センスがピカイチだ、次のコンクールも期待してるって。さすが日依だな、自慢の幼なじみだ」
映は自分のことのように嬉しそうに笑う。
自慢の幼なじみなんてあまりに輝かしい称号も、無邪気なその笑顔にも、ちくりと胸の中で罪悪感に似た痛みを覚えた。だって私はコンクールに出展する話を断るつもりだからだ。
世界が反転したあの日から、私は努力したり頑張ったりすることを辞めていた。頑張ろうと頑張らなかろうと、どうせ私の命が10年後途切れることに変わりないのだから。そうしてなんでも諦めることがクセになっていた。
余命宣告されたことを、必死になかったふりして生きている。生活に支障をきたす症状はないし、あの日以前となんら変わりなく高校にだって通えている。……はずなのに。それでもその事実はたしかに私の中に根差し息づいていて、どこまでいっても私を逃がしてはくれない。
曇り空は私がどんなに力を尽くしても晴天にならないように、私がどんなに願ってもこの病気が完治することはない。私は無力だ。
「日依?」
呼ばれてはっと顔を上げれば、映が私の顔を覗き込んでいた。
映の髪は色素が薄く、細く柔らかい。太陽の光に透けて金色に光るその髪が、視界で煌めく。
「どうした?」
「んーん、なんでもないっ」
いつもどおりの笑顔を貼り付け、心に差した影を振り払う。
余命のことは友人にも、そして一番そばにいる映にも伝えていない。きっと映は悲しんでしまうから。映の笑顔は私が守るのだ。
高校に近づくにつれて同じ方向に進む生徒の姿が増えてきた。すると、喧噪をかいくぐるように校舎の方から「はゆるー!」と映を呼ぶ男子の声が聞こえてくる。
「お、呼ばれてるよ」
「ああ、そうみたいだな」
「行ってらっしゃい」
私が背中を押すと、「今日も頑張ろうな」と私の頭の上にぽんと置いて、映は友人の方に向かって駆けていく。
私だけに向けられたその笑顔にきゅんと甘く切ない音が鳴ったのを、聞き逃すことができなかった。
するとその時。
「日依氏はっけーん!」
余韻をかき消すように、明るい声が背中にぶつかった。
「おはよう、夏葉」
振り返れば、トレードマークのツインテールを揺らして親友の夏葉が立っていた。元気印の彼女は今日も朝からパワフルだ。
「なぁに、幼なじみくんのこと見つめちゃって」
「そ、そんなんじゃないよ」
図星をつかれたような気になって、私はふいっと顔を逸らして誤魔化す。
すると夏葉は文句を言いたげに唇を突き出した。
「後ろから見てたけど、ふたりほんとお似合いなのに。なんで好きだって伝えないのさ~」
……そう、私の胸の中にあるのは幼なじみへの純粋な友情ではなく、もっと甘くて強くて時々どろどろした恋心。
好きだ、映のことが。なにより大切で大好きで愛おしい。
けれどこれは許されない想いなのだ。だって10年後、私は映の隣にいられない。私には映に幸せな未来をあげることができない。
だから近すぎず遠すぎず、ただの幼なじみのままでいいのだ。それがどんなに苦しい道だとしても。
「いいの、これで。このままで……」
夏葉に言ったはずなのに、口に出して初めて、それがまるで自分自身に言い聞かせるような響きであることに気づいた。