映の家にはしんと静寂が充満し、床から冷え切っていた。
 久しぶりに来たけれど、やはり生活感がまったくない。必要最低限の家具がぽつんぽつんと置いてあるだけ。だから余計に広々として感じられる。
 勝手はわかっているので、てきぱきと映をリビングのソファーに座らせ、部屋の隅に置いてあったストーブを映の前まで移動して電源を点ける。
 ストーブが動き出したのを確認したところでようやくリビングの電気を点けようと壁のスイッチに駆け寄った私は、その寸前で映の声に足を止めていた。

「……電気は点けなくていい」

 振り返れば、夜の訪れを予感させる暗がりの中、ソファーに座った映が小さく顔を伏せていた。
 私はなにも言わずにその要求を呑み、映の隣に静かに腰を下ろした。

「なにがあったの?」

 窓から漏れるわずかな明るさの中、映の横顔をじっと見つめる。
 映はもう誤魔化そうとはしなかった。私に導かれるまま静かに唇を動かす。

「……高校からの帰り道、お袋を見かけたんだ」
「おばさんを……?」

 それは思いがけない告白だった。映の口からおばさんの話題が出たのはいつぶりだろう。思い出すことができないほど、暗黙のルールでずっと封印されてきた話題だ。
 けれど映の様子からして、おばさんの目撃が喜ばしい出来事にならなかったことは火を見るよりも明らかだった。

「お袋、小さな子ども抱いて男と一緒に歩いてた。すっごく幸せそうだった」
「映……」
「あんなお袋見たことなかった。ああ、あんなふうに笑うんだって初めて知ったんだ」

 なんてことない話のように、あえて重力の孕まない軽いトーンで語る映。けれどその口調とは裏腹にのしかかってくる現実はあまりに重く、きゅうっと喉の奥が絞めつけられて言葉が出ない。今すぐになにか気の利いた言葉をかけてやりたいのに、なにも出てこない。もどかしくて息苦しい。

 映は多分、おじさんがいなくなって少しずつ壊れていくおばさんを一番近くで見ていて、なにもできない自分の無力さを何度も呪ったのだろう。愛情深く責任感の強い映のことだ。映はなにも悪くないのに、だれを恨むより自分を責めただろうことは想像に難くない。

「俺にはお袋にあんな顔させられなかった。なんのために俺は生まれてきたんだろうな。俺はやっぱり要らない子だったんだなって改めて思い知ったよ」
「っ違う、違うよ。要らないわけないじゃない……っ」

 ようやくもがくように声を絞り出す。
 映の口から、彼自身を否定する言葉が出たことがショックだった。いつだって私に寄り添い、私を励まして、時には胸をときめかせてくれる映の透き通った声が、そんな不協和音を奏でるのを聞きたくなかった。

「映、そんなこと言わないで。私には映が必要なの」

 映が私を見た。ビー玉のように澄んだ瞳に私が映る。
 ねぇ、映。映が隣にいてくれるから、私は今こうしてここに在るんだよ。

 映にこんな思いをさせるすべてが憎らしくて悔しくて悲しくて、気づけば熱い涙が頬を伝っていた。
 人一倍愛情深い映が、どうして受け取るべき愛に裏切られるのだろう。

 映は私の言葉を噛みしめるように下唇を噛み、それからじんわりと微笑を浮かべた。

「ありがとな、日依。日依は優しいな」

 映が慈しむような手つきで私の頬を流れる涙を拭う。私は涙を拭われながら、鼻を啜って映に問う。

「映はなんで泣かないの」

 映が一番つらいくせに。だれかを大声で責めずにはいられないくらいの理不尽に苛まれ、私には想像もできないくらい悲しいはずなのに。
 おじさんが亡くなった日だって、おばさんが家を出て行ったあの日だって、映はじっと目の奥に力を込めて泣かなかった。私の方がずっと泣いていて、映になだめてもらう始末だった。

 すると映は親指の腹で私の頬を撫でて笑った。

「だって俺の分まで日依が泣いてくれるだろ」

 暗がりの中で咲いた映の笑顔に鼻の奥がじんと痛んで、それはさらなる涙腺の崩壊を招いた。
 ……ずるいよ、映。そんなこと言われたら、なにも言えなくなってしまう。

 私は映の手を握った。そして手の甲をさすりながら涙の狭間によれよれに濡れた声で呟く。

「……痛いの痛いの、映の心から飛んでけ」
「え……?」
「小さい頃、怪我したり体調崩した時、こうして映が魔法みたいに治してくれたでしょ」

 私には魔法が使えない。だからせめて、映の身に降り注ぐつらさ以上の愛をあげたい。

「懐かしい」

 映は長い睫毛を伏せ、遠い日に思いを馳せるようにじんわり呟いた。

「映におまじないしてもらうと、どんな特効薬よりも効いたの。だからね、昔は映のこと魔法つかいだと思ってたんだ」

 私の言葉に映はふっと小さく表情を緩め、そして数秒の空白ののち静かなトーンで言葉を継ぐ。

「世界中の全員が敵になったって、日依だけは味方でいてくれるんだろうな」
「もちろん。当たり前だよ。最後のひとりになったって、私だけは映の味方だよ」

 その答えになんの躊躇いも迷いもなかった。
 すると映はなにかが吹っ切れたように晴れやかな声で笑った。

「ならそれだけでいいや、充分だ」

 それが心から溢れた笑みであることはすぐにわかった。綺麗なそれは私にまで伝播し、強張っていた心と頬を解す。
 やっぱり映には笑顔がよく似合う。愛おしいこの笑顔を、なにに代えても守りたい。
 私は映を見つめ、その心にまっすぐ届くようにと、紡ぐ一音一音に思いを込めた。映の手を握る手にぎゅうっと力を込めて。

「映の家族はここにいるよ。私は映の片割れなんだからね」

 その刹那、それまで凪いでいた映の瞳の水面が、初めて音もなく揺らいだ。そこに映る私の輪郭がじわっとぼやける。
 
 ――大好きだよ。これまでも、これからもずっと。誰よりも。
 声にできない想いを、繋ぐ手に込めた。