映との思い出は数えきれないほどある。
 その中で映を意識しだした瞬間はいつだったかと問われれば、的確な答えを提示することはできない。だって明確に恋に落ちた瞬間があったわけではなく、小さな芽がどんどん育っていくように少しずつ大切に大きくなった想いだから。
 けれど強いてひとつ印象深い思い出をあげるとすれば、それはきっと小学1年生のあの日のことだろう。

 あの日、私は熱を出し、初めて小学校を休んだ。
 ベッドに臥せていた私の元に、映は学校で配られたプリント類を持ってきてくれた。小さな体に対してウイルスはかなりの強敵で、昨夜からずっとうなされていた私は、映の顔を見た途端泣き出してしまった。

『ひよちゃん、大丈夫?』
『うう、はゆるくん……。わぁああ』

 まるで瞳の奥が麻痺してしまったように涙はとめどなく溢れて、それを拭ってくれたのもまた映だった。

『大丈夫だよ、ひよちゃん。どこか痛い?』
『ひっく……頭が痛い……』

 すると映は私の額に小さな手を置きおまじないをくれた。

『痛いの痛いの、ひよちゃんの頭から飛んでけ』

 私に向けられた笑顔は目にしみるほど眩しくて。まるでどんな特効薬よりも私を助けてくれる魔法だ。本当に痛みが和らぎ消えていくようで、気づけば涙も止まっていた。
 もしかしたらはゆるくんは魔法つかいなのかもしれない。ぼーっとした頭でそんなことを考えていると、映が手を繋いでくれた。映が隣にいてくれる安心感に包まれ、張り詰めていた糸が切れるようにふっと意識が遠くなった。

 それからどのくらい眠っていたのだろう。窓を叩く雨音に、私は目を覚ました。
 目をこすりながらベッドサイドに視線を向けて、はたと固まる。そこにいると思っていた、手を繋いでいたはずの映が、そこにいないのだ。私はベッドから跳ね起きた。

『はゆるくん……っ?』

 映がいないことにひどく動揺し、それから大きな不安に襲われる。映がいなくなってしまうという悪夢を、昨夜うなされている時にみたせいだろう。夢の中で映は私に手を振りながら真っ暗なトンネルの中に消えて行ってしまったのだ。私はそれを必死に追いかけようとするのに、底のない沼に足をとられ前に進むことができない。
 あの時の絶望と恐怖がありありと思い出され、私はベッドを飛び出た。本当に映が消えてしまうかもしれないという漠然とした不安に駆られ、その衝動が身体を突き動かす。回復してきてはいたものの身体にほんの少し残る怠さは、意識の外になったせいで霧散していた。急いで雨がっぱを羽織ると、キッチンで夕食の準備をしているお母さんの目を盗んで家の外へ駆け出した。

 真っ先に向かったのは映の家だ。けれど、歩いて10分ほどの距離にあるその家は空っぽで窓の中は真っ暗だった。
 となると、次に思い浮かんだのは秘密基地だった。近くの公園の裏にある鬱蒼とした森の中に、今では使われていない小さな小屋がある。私と映は狭く古びた小屋の中を飾りつけたりして、そこをふたりだけの秘密基地にしていた。
 足が秘密基地の方に向く。
 とめどなく体を打つ雨粒。込み上げてくる涙の熱。どこまでも追いかけてくる不安。
 雨の中を走りながら私は必死に神様に祈った。お願いだからはゆるくんのことを連れて行かないで。いい子にするから、なんでもあげるから――。

 映の家のすぐ近くにある公園には人影がなかった。雨音だけが妖怪の鳴き声のようにうるさい。
 秘密基地にもいなかったらどうしよう……。本当にはゆるくんが消えちゃったらどうしよう……。泣きそうになりながら公園の中を進んだその時。ブランコの裏側から一筋の声が聞こえてきた。

『ひよちゃん……!?』

 はっとしてそちらを見れば、びしょびしょに濡れた映が駆け寄ってくるところだった。
 抱えきれないほどの安堵から、わっと泣き出す私。

『はゆ、はゆるくん……っ』
『どうしてここに……! 体は大丈夫なの?』

 自分の方こそびしょ濡れなのに、映は背中を撫でながら私を心配してくれる。

『う、ん。はゆるくんがいなくなっちゃったから心配で……。はゆるくんこそ、なにしてたの……?』

 嗚咽の狭間にそう問えば、映はにっこり笑って手に握っていたものを私に差し出した。

『ほらっ』
『え……?』

 それは一輪のクローバーだった。ほんの少し歪で大きさはばらばらだけど4枚の葉がついている。

『前にお母さんが言ってたんだ。四つ葉のクローバーはどんなお願いごとでも叶えてくれるって。だからひよちゃんの病気が早く治るように探したんだ』
『え?』
『早くひよちゃんの笑顔が見たかったから』

 そう言って映は屈託なく笑う。
 多分、雨の中何時間も探してくれていたのだろう。いつだって映の行動は私のためなのだ。痛いほどの優しさがきゅーっと胸を柔く絞めつけて、私はまた泣いてしまった。

 それから私は風邪をぶり返し、身体を冷やした映も風邪を引いたのは、言うまでもない。

 小さい頃から映は陽だまりのような人だった。多分その深く容赦ない優しさと包容力に、私はいつしか恋に落ちていたのだと思う。
 映はいつだって私の世界の中心で、私のすべてだった。