生徒や教師たちはグラウンドに出払っているため、校舎内はひとけがなくとても静かだった。
 静寂に包まれると、ため息が自然とこぼれた。少し前まではあんな運動、なんともなかったのに、この程度で体が悲鳴をあげるなんて病気の進行を実感せずにはいられない。
 少し横になりたくてベッドのある1階の保健室に入ると、保険医も救護班としてグラウンドに出ているようで無人の空間になっていた。
 私はジャージのまま手前のベッドに体を投げ出した。重力と共に、疲労がベッドに吸い込まれるように落ちていく。

「はあ……」

 深いため息がこぼれ、私は額に腕を乗せた。ため息はしんとした空気の中に落ちていく。
 自分の体のこととは別に、もうひとつの暗雲が心に立ち込めていることに、私は気づいていた。
 さっき、井上さんに声をかけられた映を、私はちっとも快く送り出せなかった。本当なら笑顔で映の背中を押すつもりだったのに。
 映に恋人ができることが本望だと思っていた。それが井上さんみたいな可愛くていい子だったら映とお似合いだし、そんな彼女ができるなんて願ったり叶ったりだ。
 それなのに、あろうことか私は映を引き留めそうになった。行ってほしくないと、心が叫んでいた。

 遠くない未来で映に彼女ができた時、私は映の横に立つ彼女のことを心から祝福できるのだろうか。私には手に入れる資格さえ与えられなかった映との未来を得たその子のことを、恨まずにいられるのだろうか。……私には、無理かもしれない。

 こんなの映の幸せじゃない。私は映の幸せだけを望んでいたはずなのに、なんでこんなどろどろした感情が止まらないのだろう。
 独占欲、嫉妬、恋心――全部全部、私にはもう要らないものなのに。
 私は無意識に映のことを自分のものだと思っていたのかもしれない。映はだれのものでもないのに、やっぱり神宮寺くんの言うとおり依存していたのだ。

 グラウンドの方からフォークダンスの音楽が聞こえてきた。ついに始まったらしい。
 きっと井上さんはもう映のことをフォークダンスに誘ったのだろう。傍から見てお似合いだと思わずにはいられなかった映と井上さんの並ぶ姿が瞼の奥に甦り、残像をかき消すようにぎゅっと目を瞑った時。
 突然、ガラガラッと保健室のドアが開く音が聞こえてきた。
 カーテンも引かず無防備にベッドの上に体を倒したままだった私は、慌てて上体を起こす。と、そこに立つ人を見上げて唖然とした。

「映……?」

 なぜか映がそこにいた。ふんわり微笑んで。

「よかった。日依、見つけた」
「な、なにしてるの、こんなところで、だって、井上さんは」

 もがくように口を動かす。けれどぶつ切りの単語が口から出るばかりで、動揺のせいで文章にならない。
 すると映は困ったように苦笑した。

「井上さん、ね。フォークダンスに誘われた」

 ぽかんとする私に、映は笑みを作ったまま揺るぎない意思の潜む瞳で言い切った。

「でも日依と踊るって決めてたから」

 どうして映は……私の決意もなにもかも根こそぎひっくり返してしまうのだろう。
 唇を薄く開き視線は映に縫いつけられたままなにも言えずにいると、映が心配そうな表情を浮かべる。

「体は大丈夫なのか? 体調悪い?」
「ち、違うの、疲れたからサボってただけ」

 映の澄んだ瞳を見たまま嘘を言うことは憚れて、わずかに視線を逸らして立ち上がる。幸いなことに頭痛は収まっていた。
 すると立ち上がった私の手を、映がとった。

「日依、踊ろう」
「え?」
「ほら、音楽聞こえるし」

 顔を上げれば、至近距離で映と瞳がかち合う。映は私の眼差しを捕らえたままにこりと微笑んだ。

「な?」
「……うん」

 映の笑顔に私はとことん弱い。
 体育の授業でクラスの男子相手に練習したから、ダンスの振りは頭に入っている。断る理由を咄嗟に見つけられなくて、私は小さく頷いた。
 そして映にリードされる形で、私たちは微かに漏れ聞こえる音楽に合わせて踊り始めた。
 けれどクラスメイトを相手に踊っていた時とはすべてが違う。触れた手の温度も、動くたびに鼻を掠めるシトラスの香りも、時々耳をくすぐる甘い吐息も、すべてが私の鼓動を乱す。
 小学生までは同じくらいの背だったのに、いやもっと前は私の方が大きかったのに、いつの間にこんなに背が伸びたのだろう。いつしか見上げなければいけないくらい、私を置いてすっかり大きくなってしまった。
 私の影をすっぽり覆ってしまうほど広い肩は、映が男子であることを実感せずにはいられない。

「……早く幼なじみ離れしないとって言ったのに」

 小さな声で呟いた口撃を、映は柔らかい笑顔で包み込んでしまう。

「それなら、ずっとずっと日依だけでいい」

 ……だめなんだよ、それじゃ。私はずっと隣にいられないんだから。君の横には未来がある女の子がいなきゃいけないの。
 私の事情に映を巻き込むことはできない。頭では痛いほどわかっている。けれど心のどこかで、縋るように映に手を伸ばす自分がいた。
 ……やっぱり私にはまだこの手を振り解くことができない。

 ああ、いっそ今すぐ殺せる恋だったらよかった。けれど映への想いは、自分が思っていたよりもっと深く大きく膨らんでしまっていた。

 ただ隣にいられれば、他にはなんにも望まないのに。彼女になりたいなんて贅沢なことは願わないから。
 映の澄んだ瞳の中に映りながら私は、一瞬でも長くこの時が続くよう祈った。