僕たちは海際の方まで歩いて、波が当たるか当たらないかの位置で座り込む。理沙の太腿に砂がついているのが目に飛び込んできて、咄嗟に視線を逸らした。
「この間の花火大会、ありがとうね」
理沙が左手で砂をすくって、さらさらとまた落としながらそう言った。思い出を噛み締めるような口ぶりで、彼女が花火大会の日の記憶を大切にしているのだとすぐに分かった。
「いや、あれは偶然だったし。むしろ僕は、僕なんかと二人きりでごめんって思ってたから」
「なんでそんなこと言うの。二人になったのは、偶然なんかじゃなかったわ」
「え?」
理沙の切れ長の瞳が、ゆっくりとこちらへと向けられる。僕はその目に吸い込まれそうになる。なんだろう。夏海の澄んだまなざしとも違う。いろんな人生経験を積んで、何かを思案しているような目だ。
人生経験。
そうだ。理沙は僕と同じ種類の人間なんだ。
だとすれば、理沙も現世で自殺をしたということになる。
普段は姉御肌で、成績もスタイルも良くて、男を誘う妖艶さも兼ね備えている彼女が、一体なぜ自殺なんか——。
「偶然じゃない。私がそうなるようにしたの。……迷惑だった?」
「……いや、迷惑なんかじゃないよ」
僕も右手で砂浜の砂を握り潰す。胸が、この砂のようにざらついた何かで撫でられているような心地がした。
「それなら良かった。私さ、昔ろくでもない男と結婚してたんだよねえ」
突然彼女の口から紡ぎ出された『結婚』というワードに、僕は握り潰していた砂をすべて掌から落っことした。彼女の言う「昔」というのが、現実世界のことだと悟る。
「結婚……してたの?」
「ええ。私たち、“同類”でしょう。だから、話しても大丈夫かなと思って」
そうだ。案内人によると、同じ種類の人間には自分の正体を打ち明けても罰は受けないと言っていた。理沙は僕が同じ種類の人間だと最初から意識していたのだ。
「それはそうだけど。誰かとこういう話をするの、初めてだからさ」
「そっか。でも私も初めてよ。こんなこと、龍介や夏海には言えないもん」
「そう、だな」
龍介と夏海は別の種類の人間。だから二人には生前の話などできるわけがない。
でも、目の前にいる理沙は、僕に自分のことを打ち明ける資格がある。反対に、僕も理沙に何を話したって、問題ないと保証されている。
「なに、私が結婚してたこと、そんなにびっくりした?」
「そりゃそうさ。だって僕たちは高校生なんだし」
「まあ、そうね。てか春樹も高校生だったんだ。現実からやってくる人って、みんな本当に高校生なのかなって疑問だったから安心した」
理沙がほっと胸を撫で下ろす。僕も同意見だった。
「結婚っていうのは……高校生でしたってことだよね?」
「うん、そうだよ。バカだよねえ。今思えば、どうしてあの時結婚しちゃったんだって、思うよ」
理沙の口ぶりからすると、現実世界で結婚をしたことが、彼女の自殺につながってしまったのではないかとすぐに分かった。
「いや、馬鹿だなんて思わないよ。人間誰しも、その時はこうするのがいちばん正解だって思うことがある。僕にも似たような経験が、あるから」
僕は本心を口にしていた。ディーナスという世界において、誰にも自分の素性を明かせずに圧倒的な孤独感に苛まれていた僕にとって、理沙が現実世界で、同じような過ちを犯してしまったと知って、ほっとしたのだ。
「そっか、ありがとう。私ね、嬉しかったんだ。春樹が自分と同じ種類の人間だって分かって。春樹になら、私の抱えていたものをすべて話すことができるんだって思うと、心が軽くなった。もちろん、全部話すかどうかは分からないけどさ、そういう存在がいるだけで、心強いなと思って」
理沙の言葉に、僕も深く頷く。
この世界にやって来て、僕は誰にも自分のことを知ってもらえないのだと思っていた。現実世界と同じように、誰かと心を通わせることなんて、無理なのだと。どうして死んだ後に、わざわざ青春のやり直しのようなことをさせられているのか疑問だった。でも、今なら少し分かる気がする。
僕たちはこの世界で、本当に心を通わせられる人間関係を築くためにここに来たのではないだろうか。現実では自殺をしてしまったという人間が、最後に許された、まっとうな人としての青春時代を送れるようにするチャンス。案内人が——神様がくれたのは、きっとそういうことだ。
「いつかさ、春樹のことも教えてよ。私だったらきっと、笑わずに最後まで聞いてあげられるから」
いつもの姉御肌に戻った理沙が、まっすぐに僕を見つめてそう言った。
「ああ、分かった」
理沙に自分のことを開示するかどうか。今ははっきりとは分からない。でもこの世界に来た以上、理沙になら打ち明けてもいいかもしれない。過去の傷跡も、二人でなら笑い飛ばせる気がした。
理沙と一緒にパラソルの元に戻ると、龍介はいなくて、また海へと泳ぎに行っていた。夏海はどこかぼうっと遠く水平線を眺めている様子だ。
「夏海、お待たせ。もうちょっと泳ぐ?」
理沙がそう誘ったが、
「ううん、私は休憩してる」
と乾いた口調で答えていた。
「そう。じゃあ春樹、一緒に泳ぎに行こうよ」
理沙に誘われて、僕は断ることができなかった。
今日の夏海の様子がずっと気になってはいる。でも、夏海は僕にも、ほかの二人にも、あまり踏み込んでほしくないと思っているように感じられた。
パラソルに夏海を残したまま、僕は夏海と一緒に海へと舞い戻る。
途中で休憩しながら、太陽が傾くまで一緒に遊んだ。理沙は本当に楽しそうに笑っていて、僕も彼女といる最中は、夏海のことを一瞬忘れていたほどだ。
夕日で真っ赤に染まる空の色が反射して、海もまた、金色の光に揺れていた。夕暮れ時の海がこんなにも美しいなんて、現実世界の僕は知らなかった。
「綺麗ねえ……」
気がつけば隣で理沙も海面に反射する光を眺め、ため息を漏らしていた。
「そうだね」
ここは、あの日の海とは違う。
現実世界で、僕の命をゆっくりと沈めていった海とは別の、別次元の極めて美しい海だ。
理沙が、僕の頬に自分の顔を寄せてくる気配がした。彼女の甘い吐息が、僕の耳にかかる。僕は驚いてとっさに顔を背けようとする。
「り、理沙……?」
「今日は、まだダメ?」
甘えるような声を出す彼女から視線を逸らし、夕日とは反対方向に顔を向ける。理沙があっと声を上げるのと、僕が遠くに夏海の姿を見つけたのは同時だった。
「あれ、夏海?」
砂浜で休憩していたはずの彼女が、なぜか僕たちから遠く離れた海の中で佇んでいる。龍介が近くにいるのかと思ったが、彼女の周りには人がいない。僕たちには背を向けて、水平線の方を眺めているかのように見える。
夏海は腰のあたりまで水に浸っていて、少しずつ前へと進み出した。
既視感のあるその光景に、僕ははっと息をのむ。
「春樹どうしたの?」
焦ったそうに聞いてくる理沙の声が、ずっと近くにあるのに掠れて聞こえる。それぐらい、僕は遠くにいる夏海の姿に釘付けになっていた。
夏海は、何をしているのだろう。
いや、何をしようとしているのだろう?
そのうち、夏海のお腹から胸の辺りまで水が迫って来ていることに気がついた。
「夏海!」
名前を叫んでも彼女は振り返らない。
夏海は、もしかして……!
焦った僕は、海の中を、夏海の方へと進み出した。
「え、春樹、どこに行くの?」
夏海の姿に気づいていないのか、理沙が僕に聞いた。
「悪いけど砂浜に上がってて! すぐ戻るから」
僕が行くのを止めようとする理沙だったが、僕があまりに必死な様子なので、彼女は気おされるようにして後退りした。そんな理沙を置いて、僕は夏海の元へと一心不乱に進む。
「夏海、夏海!」
呼びかけても、やっぱり夏海には聞こえていないのか、彼女は歩みを止めない。とてもゆっくりとした動きなのに、確実に水位は上がっていく。
水の抵抗を感じながら、なかなか彼女の元に辿り着かないことに、僕は焦りを覚えていた。僕の想像がすべて間違っているのならそれでいい。単にちょっと深いところまで行ってみたいとか、そういう理由だったら。しかしそれでも危険なのは間違いなかった。
次第に僕の方も水位が上がり、両腕で海水をかき分けるようにして歩き始める。
海ってこんなに冷たかったか……?
さっきまで、まるで冷たいと思っていなかった水の感触に、鳥肌が立っている。
「夏海っ!」
胸まで水に浸かり、精一杯の力で彼女の名前を叫ぶ。
するとようやく夏海がこちらを振り返った。その瞳が僕を見つめて、何度も瞬きを繰り返す。驚きや、悲しみや、怒りが、滲み出ているような人間の目だ。なぜだか僕にはそんなふうに映った。
夏海は僕の姿を認めると、焦ったようにまた前方に振り返って前に進もうとした。
「夏海、ちょっと待って!」
全身の毛が総毛立つかのような恐ろしさを覚えた僕は、一心不乱に彼女の元へと急いだ。
もうだいぶ深いところまで来ていて、早く彼女を捕まえなければ、最悪足を取られて溺れてしまうかもしれない。そうなる前に、早く進むんだ!
頭の中で警鐘を鳴らしながら、ようやく彼女の元へと辿り着く。夏海の右腕を掴むと、
「離してっ」
と彼女は叫んだ。
「落ち着いてくれ。何かあったの? 砂浜に戻ろう。龍介と理沙が待ってるから」
何があったのか分からないが、とにかく夏海を安全なところへと引き上げたかった。現実世界で、夜の海に身を沈めていった僕が言うのもなんだけれど、ここにいると、夏海が自分と同じ目に遭うのではないかと思って、怖いのだ。
夏海は僕の言葉に身体を揺らし、ゆっくりとこちらへ振り返った。よかった。一緒に戻る気になってくれたんだ。ほっと胸を撫で下ろす。深く呼吸をすると、いつの間にか速くなっていた鼓動が、少しだけ落ち着いたような気がした。
しかし、振り返った夏海の表情を見て、僕は再び身体を硬直させる。
彼女の顔はこわばり、深い憎しみを湛えているようだった。
「夏海……どうかした?」
夏海は何かを思い詰めていて、今にも繋がれた腕を振り解いて沈んでいきそうだ。
「あの二人がいる場所へは、戻りたくない……」
「え?」
震える声で呟くようにそう言う彼女の顔は、引き攣っていた。
あの二人、とは間違いなく龍介と理沙のことだ。でもどうしてだ? どうして、二人の元に戻りたくないなんて言うんだ。
「夏海、どうしたんだ。今日、ずっと変だったから、気になってたんだ。何かあったの? もし僕でよければ話を聞かせてくれないかな」
夏海の身体が、一瞬ドクンと震える。僕の目を見つめ、嬉しそうに微笑んだかと思うと、逆に恐ろしい怪物でも見るかのように、その目が見開かれていく。彼女の中で変化する感情が複雑で、彼女自身、自分の気持ちについていけていないように見えた。
「べつに、何もないよ? ちょっとね、遠くに行ってみたかっただけなの。あの二人のいない場所に。ずっとずっと遠くに」
嘘だ、とすぐに分かった。
遠くに行ってみたかっただけだなんて、そんなのはすぐに違うと分かる。でも、龍介と理沙から離れたいというのだけは、本心かもしれなかった。
「夏海、もしかして僕のせい?」
思い当たる節があるとすれば、僕自身だった。
今日、僕は理沙に誘われるがままに海を楽しんでいたから、夏海と関わる時間が少なかった。四人で仲良く過ごしたいと思っている夏海にとっては、面白くなかったのかもしれない。
僕の言葉に、夏海が目を瞬かせる。そして、ゆっくりと頷いた。
「そう、春樹くんのせいだよ……」
彼女の身体も、声も、瞳も、すべて震えているように見える。僕は、彼女のことを抱きしめたい衝動に駆られた。でも、心とは裏腹に、掴んでいた夏海の右腕を離してしまう。
触れられない。触れていられない。
だって、きみは壊れそうだから——。
「春樹くんはさ、理沙ちゃんと同じ種類の人間なんだよね。だったら、理沙ちゃんの気持ちが、よく分かるんだよね。理沙ちゃんは、春樹くんのこと、どう思ってると思う?」
試すような口ぶりでそう聞いてくる彼女は、いつもの天真爛漫な夏海とは程遠く、鋭い視線を僕に向けていた。
理沙が僕に対して抱いている感情——考えなくても、ある程度は察している。でも、それを夏海の前で口にすることはできなかった。
「理沙は……友達だよ。きっと彼女もそう思ってる。夏海のことも、大切な友達だって。だからほら、早く二人の元に帰ろうよ」
嫌われたっていい。僕はなんとかして、早く彼女を岸へと上げたかった。
太陽の位置が低くなるにつれ、水位が上がっていく。これから満ち潮になるのだ。僕の背筋に寒気が走った。
「……嫌だ」
蚊の鳴くような声でつぶやいた彼女の瞳に、怒りが迸るのが分かり、僕は水の中で一歩後ずさる。
「春樹くんには分からないよっ。私がどんな気持ちでいるのかなんて。だって私と春樹くんは、違う種類の人間なんだものっ。絶対分かり合えないんだもの……。でも、理沙ちゃんと春樹くんは分かり合える。そんなのずるいよ。私だって、同じ種類の人間になりたかった……」
夏海の目からポタポタこぼれ落ちる涙が、水面に溶けて海と一体化する。太陽がどんどん沈んでいって、遠くの空は濃紺色に変わっていた。
悲嘆に暮れる夏海の表情が、僕の胸に暗く突き刺さる。
どうしてなんだ。
僕たちは確かに、違う種類の人間だ。でも、そんなことは関係ないって、四人の輪が繋がっていることが嬉しいんだって、夏海はずっと笑ってそう言っていたじゃないか。
僕は別に、理沙と二人だけの特別な関係になりたいわけではない。
本当に特別になりたいのは、夏海、きみなのに……!
喉元までせり上がってくるこの想いを、今すぐ口にしたい衝動に駆られる。でも、だめだ。僕にはまだ、夏海に気持ちを伝えられるほどの勇気がなかった。
「春樹くん……」
夏海が、懇願するようなまなざしを僕に向ける。
きっと答えが欲しいのだ。
僕たちは本当に分かり合えないのか。
彼女の胸を、少しずつ蝕んでいく毒が、もう二度と抜けることはないのか。
夏海がぎゅっと目を瞑る。
だめなんだよ……僕は、現実世界でも、どうしようもなくダメな人間だったんだ。
目の前で泣いている女の子一人、慰められないような、格好悪い男なんだ——。
「……分かり合えない。確かに僕も、そう思うよ」
違う。
分かり合いたい。
本心ではきみのこと、分かり合いたいと思っている。
たとえこの世界で、別の種類の人間と呼ばれても。
それなのに、自分の口から漏れ出た言葉は、心とは全然違っていて。夏海の心を一気に砕くのに十分すぎる威力を持っていた。
「そう、だよね……」
彼女の瞳から光が消える。
太陽が、水平線の向こうへと見えなくなる。
夏海の顔が、濃紺色の影の中で暗く沈んでいく。
その姿を見ても、僕は自分の中で迸る、本当の自分を知ってほしいという欲が、消えなかった。
「ああ。きっと僕の気持ちだって、夏海には分からないよ」
鋭利なナイフで突き刺されたかのように、傷ついた表情をする彼女。現実世界で、僕が周りの人間に抱いていた感情を、夏海にぶつけるなんて、我ながらひどいやつだ。
僕の気持ちは、他の誰にも分からない。
現実でもずっとそう思っていた。
僕がどれだけ上手く歌を歌っても。
有名になり、多くの人から賞賛されても。
たった一つのあの事件のせいで、僕の心はバラバラに砕け散ってしまったのだから——。
「僕は、僕は……現実世界で、自ら命を絶ったんだ」
波の音も、遠くで鳴いている鳥の声も、海から引き上げて帰ろうと声をかけ合う人の声も、すべてかき消されたかのように、静まり返っていた。
夏海の目が、一気に見開かれ、身体が震え出す。
「どう、して……」
驚愕したままなんとか絞り出したように呟く彼女。僕の告白したことが、この世界のルールを侵していることに気がついたのだろう。
自分の正体を、別の種類の人間に打ち明けてはならない——。
僕は今この瞬間、ディーナスにおける世界のルールを破った。
そうしてまで、夏海には自分の全てを知ってもらいたかった。
「僕は、現実世界で人生に絶望した。将来も、未来も、全部見えなくなった。真っ暗だったんだ。それまでは、人前で歌を歌って、SNSでちょっとばかり有名になって、僕は歌で生きていくんだって信じてたのに」
いつかカラオケで、歌手になるのが夢だと僕が言ったことを思い出したのか、夏海はえっと声を上げた。
この世界で歌手になれるよと言ってくれた夏海の笑顔が、もう遠い過去のように思える。
「ごめん、カラオケの時は、夢だなんて言って。僕の夢はもうとっくに、砕け散ってしまったよ」
日が落ちた海は、僕と夏海の身体から熱を奪い、一気に冷やしていく。
けれどそんなこともお構いなしに、僕はこれまでの人生を、夏海に向かって訥々と話し出した。
*
歌手になりたいと思ったのは、小児がんで入退院を繰り返し、病院でテレビを見ていた時だ。
病院では何も楽しいことがなかった。でも、テレビでやっている歌番組が、僕の心を癒していった。僕は次第に、あのテレビの中の歌手のように、誰かの心を癒す歌を歌いたいと思うようになった。
幸い病気は完治し、僕は病院を退院した。
両親は僕が小児がんを患ったことがきっかけで、僕のことを過剰に心配するようになったのかもしれない。
きちんとした大学で勉強をして、堅実な職に就いてほしい——そんな両親からの期待が、僕をがんじがらめにしていた。
高校生の僕は、両親の期待から外れるようにして勉強をやめ、アーティストになるための活動に邁進していった。成績はもちろんガタ落ち。県内ではそれなりに進学率の高い高校に進んだものの、高校生になってから夢ばかり追っていた僕は、すっかり順位が下がっていた。このままでは留年してしまうかもしれないよ、と担任の先生に言われても、僕の心には一切響かない。
僕は、この三年間で絶対に歌手として有名になってみせる。
将来への道は、自分で切り拓くんだ。
そう信じて、歌を歌い続けた。
『SEASON』という名のサークルでバンド活動をしていたのだが、なかなか結果の見えない現実に、焦りを覚えていた。
路上ライブや単独ライブをすれば、聴衆の中に事務所の人間がいてスカウトされる——そんな浅はかな夢は、活動を開始して一年ほどでもう諦めていた。
スカウトなんて、夢のまた夢だ。あんなのは、ドラマの世界でしか起こらないことで、多くの人間は専門学校へ行き、レコード会社の新人発掘オーディションなんかを受けてデビューを果たす。それが歌手になるための王道だ。
僕と、サークル『SEASON』の仲間も、もちろんオーディションを受けた。何十回と受けたけれど、いつも途中で選考から振るい落とされた。歌は上手い自信がある。でも、歌が上手いだけの人間なんて、この世にごまんと存在していた。
「オーディションは、諦めよう」
活動を開始して一年、仲間の一人が腕組みをしながらそう漏らした。彼はドラマーだ。バンドメンバーは僕以外、全員大学生だった。SNSで出会い、『SEASON』を結成したのだ。
彼は結果が出ないという現実に、悲嘆に暮れていた——わけではなく、その目は獲物を狙う猛獣のように力強い色をしていた。
「じゃあ、どうするの? またライブをするだけの生活をして、スカウトされるのを待つのか?」
ギターリストの男が、ドラマーに問いかける。ボーカルの僕は、二人の会話にじっと耳を傾けていた。
「いや、そうじゃない。スカウトなんて待ってても、絶対に来ないってみんなも分かってるだろ。それよりも、俺が考えているのは、これだ」
ドラマーがスマホをポケットから取り出して、僕らのほうに画面を向けた。
「なんだこれ、ただのYouTubeじゃねえか。もしかして……」
今度はベースの彼が僕たちの顔を見回して、ドラマーに視線を留めた。彼は口の端を持ち上げて、ニヤリと笑う。
「そうだ。YouTubeとTikTok——俺たちが使うのは、この二つだ」
全員が、あっと声を上げて驚く。
もともと僕たちはSNSを使っていたが、ライブの宣伝で運用しているだけだ。動画を中心としたSNSはまだやったことがなかった。
「そんな簡単に、うまくいくのかよ?」
メンバーの中で、一番慎重なギターリストが、ドラマーの提案を疑っている。僕だってそうだ。オーディションにさえ受からないのに、SNSで人気になるなんて、考えられない。
「もちろん、簡単じゃないさ。でもSNSならば戦略が立てられる。オーディションは結局、審査をしているレコード会社やプロダクションが売り出したい楽曲とマッチしているかが問題になってくるだろう。これは、就職活動と一緒だ。どんなに優秀でも、優秀さより『面白い人間』を会社が求めているならば、そいつは落ちてしまうかもしれない。どれだけ歌が上手くても、歌の良し悪しよりもビュジュアルを重視されていたらどうだ? そうなったら俺たちが何度オーディションを受けても受からないだろ」
「確かにそうだな……」
実際のところは、オーディションを開催している会社に聞いてみないと分からない。けれど、ドラマーの彼の話には妙な説得力があった。
「反対にSNSならば、話は変わってくる。視聴者が求めるものは、コメントやSNSのつぶやきですぐにキャッチすることができる。俺たちは、聴衆の求めるものを、絶対に手放さない。下手なプライドは捨てろ。ファンを増やすためならなんだってする。曲調だって、編成だって、変える覚悟をしろ。ファンを増やしたら自主制作CDを販売する。売り上げ実績を積み上げれば、レコード会社だって振り向いてくれるはずだ」
彼の語る内容は、ライブやオーディションで結果の振るわない僕たちメンバーからすれば、夢のような話だった。でも、決して届かない夢じゃない。
「本当に、そんなことでデビューできるのか?」
ギターリストが猜疑心に満ちた目でドラマーを見つめた。
「確証はない。でも、今よりは絶対に、デビューに近づける」
彼の力強い言葉に、その場にいたメンバーが一斉にゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。もちろん僕も例外ではない。僕は、僕たちは、ドラマーの言う通り、オーディションを受けまくるのを辞めることにした。自分たちの歌を世間に広めるため、SNSを最大限活用した戦略に切り替えることになった。
しかしいくら僕たちにとって、SNSでの活動が新しい試みだったとはいえ、YouTubeもTikTokもブルーオーシャンではなかった。自分たちと同じように考えて、デビュー前にファンを増やそうとするアーティストはたくさんいた。
そんな激戦区で僕たちが生き残るために、ファンの意見をとことん反映させることにこだわった。
視聴者が求めていたのは、“上手い歌”だけじゃないことが分かった。
最初はフォロワー数も二桁ほどだったバンドが、成長していく様子を見たいという欲求があることに気がついた僕たちは、歌の制作風景から練習風景まで、余すことなく見せた。さらに、メンバーのパーソナリティも公開し、歌とは関係なく、それぞれの個性を見せるような動画もアップした。
曲に関して、僕たちはロックな曲調のものを演奏することがほとんどだったが、意外にもバラードを聞きたいという要求が多かった。
ドラマーの言う通り、曲調と雰囲気をガラッと変えてみたり、編成を変えてみたりもした。今の若者はタイムパフォーマンスを意識するというので、AメロもBメロもサビのような盛り上がりを見せる、まったく新しい曲をつくった。視聴者の要求に一つずつ答えていくうちに、ファンは少しずつ増えていった。とても骨の折れる作業で、自分たちの求めていた音楽とはまったく違うものが出来上がっていくことに不安や寂しさも覚えたが、ファンが増えていくことは純粋に嬉しかったし、僕の中で欠けていた心の空洞が、満たされていく心地がした。
「春樹、お前、一人で歌ってみるのはどうだ?」
ドラマーが僕にそう告げたのは、新曲をつくり、そのお披露目動画をアップした日の夜だった。伸びていく再生数と、増えるフォロワーの数に、目を奪われた。今までこれほどまでに世間に注目されたことがなかったので、メンバー全員で歓喜した。音楽ユニット『SEAOSO N』のYouTubeの登録者数は三十万人を超えていた。
「一人で?」
本当はその日、全員でご飯にいくつもりだったのだが、他の二人は用事が入り、家に帰っていった。そのため、僕とドラマーの二人きりで食事をしていたところだ。
「ああ。最近、コメントでよく見かけるんだよ。『ボーカルの春樹さんの声を、もっと聞きたい』『一人で歌って欲しい』って。俺たちもさ、はっきり言ってここまで人気が出たのは春樹の歌が上手いからだと思ってる。だから、思い切ってお前は独立してみるものアリかなって。もちろん、俺たちとの活動も続けてくれたら嬉しい。お互い相乗効果で有名になれるぞ。どうだ?」
ドラマーの目は、いちグループメンバーとしてではなく、完全にプロデューサーとしてのそれだった。僕は、自然にゴクリと生唾を飲み込む。
僕が一人で歌うなんて、そんなの到底無理だ。
そう言おうと思ったのに、頭では別の答えが、泉の底から水が湧き上がるように迫り上がってくる。
やりたい。
一人で、歌いたい。
決してバンドで歌うのが嫌なわけではない。でも、自分の可能性を広げられるチャンスがあるのなら、手を伸ばして掴んでみたかった。たとえそれでダメでも、僕には帰る場所がある。仲間がいる。だから、何も怖いものなんかない——。
何より、僕を勉強で縛り付けようとする両親を、ぎゃふんと言わせてみたかった。
「決まりだな」
僕が何も答えないのを見て、ドラマーはそれを肯定の意だと受け取ったらしい。実際図星だったのだから、彼に言うことは何もなかった。
「よし。じゃあ明日から、お前はシングルデビューしろ。曲も、できるだけお前が作れ。難しければもちろん俺たちも協力する。でも、その分グループでも頑張ってもらうからな」
「分かった。ありがとう」
かくして僕は、その翌日から高校生シンガーソングライター『Haruki』として活動を開始した。
曲作りに関してはバンド時代からやっていたので苦ではなかった。むしろ、今まで『SEASON』には合わないと思って諦めていたバラード曲も作曲し、のびのびと歌うことができた。
『Haruki』個人のYouTubeとTikTokアカウントを登録すると、一ヶ月でフォロワーの数は爆発的に増えた。もともと『SEASON』をフォローしてくれていた人が大半を占めたが、中には新規のファンも多かった。バンドには興味がなくても、シングルの歌手を好む人もいるからだ。
毎日が楽しくて、夢のようだった。
YouTubeのチャンネル登録者数と、TikTokのフォロワーの数が百万人を超えた。
テレビ局から声がかかり、地上波デビューを果たした。
それからは、あれよあれよと出演番組が増え、多忙を極めた。僕は、次第に『SEASON』での活動に参加できなくなったが、メンバーは誰一人として僕を責めなかった。「春樹のおかげで俺たちも食べていけるようになったんだ」と言われると、胸をつまるような思いがした。
もちろん、学校へはほとんど行けなくなっていた。
僕は留年が確定し、両親からは大激怒を食らった。
それでも夢を追うことを諦めなかった。
僕は、これから歌手として、立派に生きていくんだ。
ファンに愛されて、求められて、自分の信じる芸術を、日本中に届けたい。
あまりにも単純な夢だけれど、今の僕には叶えられる。
本気でそう信じていた。
*
「でも、僕の夢は長くは続かなかったんだ」
揺れる海面を眺めながら、僕は夏海に向かってそう吐いた。
彼女が息を呑む音が聞こえたような気がする。
「その後、どうなったの……?」
だだっ広い海の中に、僕たちは置き去りにされた。
*
まるで、広い海を悠々自適に泳いでいるかのように、居心地の良い日々だった。
目が回るほど忙しく過ぎ去っていく時間も、テレビ出演後にエゴサーチをして、「Harukiの歌が最高だった」という褒め文句を探す時間も、僕が求めていた人生そのものだったと思う。忙しすぎて、体調を崩すこともままあったが、自分の選んだ歌手という道で生き残ることができるのなら、ちょっとやそっとの体調不良は気にならなかった。
そうして僕は、Harukiとしてファンの求める歌を歌い続けてきた。あらゆる番組の出演を勝ち取り、足繁く東京へ通った。
けれど、そんな心地の良い日々は長くは続かなかった。
2回目の高校三年生の一学期、期末テストが終わった頃のこと。
僕は主要五科目のうち、三科目で赤点を取った。今まで歌手活動に傾注していたせいで、勉強をおろそかにしていた自覚はあった。でも、赤点を取ったのは初めてだ。
さすがに今回は手を抜きすぎたと思う。
母さんに見つかったら、きっと大目玉をくらうだろう。
内心焦りつつ、帰ってきた答案用紙を小さく畳んで、鞄の中にそっとしまおうとした、その時だ。
「うわ、真田のやつ、三科目赤点取ってやんの!」
僕の手から答案用紙がすり抜け、頭上からは大声で叫ぶクラスメイトの声が降ってきた。
「みなさ〜ん、こちらが“天才高校生歌手・Haruki”くんでえーす!」
ケラケラという笑い声と共に、スマホのカメラを向けてきたのは、僕から答案用紙を奪った張本人ではない。また別の男子生徒が、僕に分かるように動画を回していた。
「あれえ、天才高校生歌手が赤点取ってる! しかも三科目も! びっくりしませんか? これじゃ、ただ歌を歌って好きなことだけしてる、怠惰な男ですよw」
名前も覚えていない年下のクラスメイトが、悪意に満ちた声色でスマホに言葉のナイフを吹きかけるのを聞いて、背筋がぞっと震え上がった。
なんとなく、彼がただの動画ではなく、LIVE動画を撮影しているのだと分かり、さらに寒気が増す。
「みんなコメントありがとう! そうだよねえ。Harukiのこと見損なったよね? もう彼のために無駄金を費やすのはやめようぜw じゃないと、学校で落ちこぼれくんになっちゃうからさ」
撮影者の言葉に、周囲にいた何人かのクラスメイトが、ケタケタと腹を抱えて笑った。
耳まで真っ赤になった僕は、ただ俯くことしかできない。
顔を上げたら、真正面からクラスメイトたちの悪意を受けてしまう。それがひどく怖かった。
LIVE動画撮影が終わり、放心状態で固まっていた僕に、誰かがバケツの水をぶっかけた。
「うわあ」
という女子たちの哀れみの声が、僕の心をより一層冷たくする。
勉強をせず、度々学校を休んで歌手活動をしている僕のことを、よく思っていないクラスメイトがいることは分かっていた。
でも、僕はそういう人たちのことを、自分とは関係のない人たちなのだと思って、無視していたのだ。そのツケが今、回ってきたみたいで視界がぐにゃりと歪んだ。
それが涙だと気づいた時にはもう、例のLIVE動画が全世界に拡散されてしまっていた。
それからの僕の凋落ぶりはすさまじかった。
学校で、クラスメイトからハブられるようになったのは言うまでもない。
僕に対し不満を持っていた生徒たちが、あの事件を皮切りに、遠慮をしなくなったと言えば分かりやすいかもしれない。
机に落書きをされるのは序の口で、教科書が水浸しになり使えなくなったもの、まだ耐えられた。一番堪えたのは、クラスの中で、誰一人として僕の味方をしてくれる人がいなかったこと。先生さえも、このいじめには気づかないふりをしていた。
今まで、友人関係を築くことや、勉強をすることを怠った罰が当たったんだ。
そう思えば納得できるはずなのに、自分の身に降りかかる不幸は、想像以上につらいものだった。
LIVE動画はあらゆるSNSで拡散され、僕のファンを筆頭にさまざまなコメントが寄せられた。もちろん、僕を擁護し、動画撮影をしたクラスメイトを非難する声も上がったが、学生の本分を放棄して歌手活動だけに専念する僕のスタンスを、受け入れられないというファンの不満が爆発していた。
僕はネット社会で一気に吊し上げられた。SNSには誹謗中傷の言葉が蔓延し、僕はスマホを直視できなくなった。テレビ局の人間が自宅まで押し寄せて、僕から事情を聞き出そうと迫りくる日々。
両親は僕の心配をするよりも、「ほら、言わんこっちゃない」と勉強をしなかった僕を蔑むような目で見つめた。実際はそうじゃなかったのかもしれないけれど、僕の歌手活動をよく思っていなかった両親のことだ。突然平穏な日々が壊されたことで、僕を罵りたくもなっただろう。
僕は、その一つ一つの出来事に、心を壊していった。
SNSは怖くて開きたくないと思うのに、慰めの言葉を探して、無意識に見てしまっていた。その度にまた目に飛び込んでくるはっきりとした悪意に、僕は足元から引き摺り込まれそうな感覚に陥った。
ひたすら自分の部屋に引きこもり、世間がこの話に飽きるのを待った。
けれど、予想に反して僕への誹謗中傷は長引き、僕は体重が十キログラムも減り、頬はこけ、身体は針金のように細くなった。もちろん僕は、活動を休止した。
『SEASON』のドラマーから連絡が来たのは、例の動画が拡散されて一週間が経った頃だ。すぐに連絡をしなかったのは、しばらく僕をそっとしておきたいという気遣いだったらしい。
「俺たちの活動も、辞めなくちゃいけなくなった」
彼は、僕を責めるでもなく、動画の善悪を述べるのでもなく、たった一言それだけつぶやいた。
真っ暗な穴に、ついに足を滑らせて落ちてしまったかのような感覚に襲われた。
『SEASON』が活動休止を余儀なくされたのは、僕のせいだ。
Harukiが活動休止しなければならないのは諦めがつくが、『SEASON』は違う。『SEASON』には僕の仲間が、共に夢を追ってくれた仲間がいる。
そんな大切な人たちが、僕の浅はかな行動で、夢を絶たれた。
涙は、僕の意思とは無関係に、気がつけば全身を濡らす勢いで滑り落ちていた。
僕の命と引き換えに、『SEASON』を解放してください。
それだけが、僕の願いです。
遺書を机の上に置いて、僕は震える足を引きずるようにして家を出た。
月明かりだけが夜道を美しく照らす、夏の夜のことだった。
命を終える場所に選んだ海にたどり着いた僕は、ゆっくりと海に足を浸していく。
どうか、この先『SEASON』のみんなが、笑顔で音楽を奏で続けられますように。
月の光の下で、僕は今も願い続けている。
春樹くんの声が、広い海の上で、風の音にかき消された。
夕日が水平線へと沈んで、辺りはいよいよ暗くなっていた。砂浜の方から、理沙ちゃんと龍介が私たちを呼ぶ声が聞こえる。
私は、震えの止まらない身体を無理やり動かして、彼の手を握った。
はやく……はやく。
ここから、彼を遠ざけなきゃ。
だってここは、彼が命を失った夏の夜の海だもの……。
現世でのことを思い出して絶望の色を浮かべている彼を、早く海から岸へと連れ出さなきゃいけないと本能が告げた。
春樹くんが、自ら命を絶っていたことは、少なからず私に衝撃を与えた。正直、信じたくない。だけど今はそれよりも、彼をこの場から遠ざける必要があった。
私が手を引いて砂浜の方へと歩き出すと、春樹くんは黙ってしたがってくれた。私たちの間に流れる空気に、ぴりぴりとした緊張感が駆け抜ける。それでも私は、繋がれた手からわずかながら温もりを感じられることに、深く安堵した。
「もう、二人とも遠くでずっと何をしてたの!?」
途中何度も波に足を攫われそうになりながら砂浜までたどり着くと、龍介と理沙ちゃんが私たちにバスタオルをかけてくれた。温かい。夏の海でも、長い時間水に浸かっていれば、気づかないうちに身体は冷えていたのだ。私は、春樹くんと理沙ちゃんが二人きりになってモヤモヤしていた気持ちなどどこかへ吹き飛んで、今は春樹くんを陸に上げることができたことに感謝していた。
「春樹も、なかなか戻ってこないから心配したのよ。何かあったんじゃないかって。でも普通に二人で話し込んでるみたいだったからそっとしておいたの。もう話は終わった?」
理沙ちゃんが春樹くんの顔を覗き込む。
話は終わったよ。
春樹くんの、過去の話。
たぶん、私だけしか聞いていない。彼の壮絶な現実世界での話を——。
「春樹……?」
理沙ちゃんの声色が、一気に重くなったのに、私も龍介もすぐに気づいた。
「どうした?」
ただならぬ気配を察したのか、龍介がいつになく真面目な表情で問う。
私は、何が起こったのか分からなくて、咄嗟に春樹くんの様子を窺った。
「……ぁ…っ」
春樹くんの目が、何かに驚愕して大きく見開かれている。彼の口から漏れ出たのは、声にならない掠れた吐息だけだった。喉元に手を持っていって、自分の喉仏を何度も触っている。
「……っ……はぁっ」
苦しそうな吐息が、また彼の口からこぼれ落ちた。私たちは、三人で視線を合わせて何がどうなっているのかと必死に考えた。
「もしかして春樹、声が出ないのか?」
やがて龍介が導き出した答えに、春樹くんがガクガクと大きく首を縦に振った。
「え、なんで?」
普段は冷静な理沙ちゃんの、困惑する声が耳にこだました。
春樹くんの声が、出ない。
どういうこと? と私たちは全員で顔を見合わせた。
「ねえ、どうして? 何があったの?」
理沙ちゃんが春樹くんの両腕を掴んで、必死に揺さぶる。でも春樹くんも自分の身に起こった事の重大さに、唖然として何も答えることができないでいる。いや、実際声が出ないのだ。何かを伝えたいと思っても、彼の口から漏れるのは、やっぱり喉の奥で唾が擦れるような、聞くに耐えない“音”だけだ。
「夏海っ……! 何があったの!?」
今度は唯一数分前まで二人きりで春樹くんと話していた私の方に、理沙ちゃんの視線が向かってきた。目の淵に涙が溜まっている。好きな人の声が突然出なくなったのだ。事情を知っていそうな私に詰め寄りたくなる気持ちはよく分かる。
「あ……えっと……」
私は、春樹くんの声が出ないのが、さっき彼が私に自分の正体を話したせいだというのは薄々気づいていた。でも、そんなことを龍介と理沙ちゃんにも伝えてもいいのか。咄嗟に春樹くんの方を見る。彼は、苦しそうな表情で、私の目を見つめている。まるで、すべての意思を、私に委ねるとでも言うかのように。
そんなの、どうしたらいいか分からないよ……。
私は理沙ちゃんに何も言い返すことができない。
理沙ちゃんの目が、だんだんと怒りの熱を帯びていくのが見てとれた。煮え切らない私の態度から何かを察したのか、「まさか」と彼女は一呼吸置いてこう訊いた。
「自分の正体を、夏海に話したの?」
理沙ちゃんが春樹くんを切実なまなざしで見つめる。その目に射竦められてしまったかのように、彼はゆっくりと頷いた。
「なんで……? だから、“大切なもの”を失ったのね。春樹の大切なものは、声、だったんでしょ」
絶望の滲む声色で、理沙ちゃんは一つ一つの言葉を紡いだ。
「まじで……?」
龍介が瞠目したまま春樹くんを見つめている。
「……うん。春樹くん、さっき私に、現実世界で歌手を目指して頑張ってたって言ってた……。カラオケに行った時、あんなに上手だったのは、春樹くんがもう立派な歌手だったからだよ。でも、いろいろあって、人生に絶望して、それで——」
私はその先の事実を、この場では口にすることができなかった。
口にしなくても理沙ちゃんには絶対に伝わっている。
春樹くんは理沙ちゃんに、自分の過去を話したんだろうか。
春樹くんと理沙ちゃんは同類の人間だから、もしかしたら話したのかもしれない。
その事実が、私の胸をより一層、穿つように痛くする。
海の中で、春樹くんが現実世界で自ら命を絶ってしまったと聞いた。だったら理沙ちゃんも同じだ。理沙ちゃんも春樹くんと同じように、現実世界で何かに絶望して、自分の命を失くしてしまったんだ——……。
どうしてそんなことをしたのか、なんて問うことはできない。
春樹くんの、あの壮絶な過去を聞いてから、私の心はずっとざわついていた。彼が自ら命を絶ったのは、現実の彼にとってそれしか選択肢がなかったからだ。いや、それしか選択肢がないように彼の目には見えていたから。
でも、それでも私は……悔しかった。
私は絶対に、たとえ何が起きても命を投げ捨てることができない人間だ。
彼にも、現実世界でそう思ってほしかった。たとえ一寸先が闇でも、その向こうには夏の晴れた空が広がってるって、信じてほしかった。
「春樹くん……」
乾いた喉から出た自分の掠れた声に、反射的にぎゅっと目を閉じた。
もうこの先ずっと、春樹くんの声を聞くことはできないんだろうか。
声が、聞きたいよ。
春樹くんの優しい声は、私だけじゃなくて、理沙ちゃんも龍介もきっと大好きだから。
失われてしまった彼の大切な一部を想うと、群青色の空に顔を覗かせていたまん丸の月すらも、今はくすんで見えた。
あの後、消沈した春樹くんを家まで送ったのは龍介だった。
「こういう時は男同士の方が気楽だからさ」
そう言いながら力無く笑う龍介に、私も理沙ちゃんも縋るような思いで龍介に春樹くんを託した。
帰り道、理沙ちゃんがそっと私の耳元で、
「さっきはごめん……ちょっと、取り乱しちゃって」
と呟いた。私は黙って首を横に振る。
理沙ちゃんが悪いわけではない。私が春樹くんに真実を話させたのだ。私の、身勝手な嫉妬心が春樹くんをあんなふうにさせてしまった。責められるとすれば、私の方だった。
胸に重しを抱えたまま帰宅し、一目散に自室へと向かう。NPCの両親は「おかえりー」と呑気な声をかけてくれたけど、私は返事をすることができなかった。
「案内人……! 案内人、どこ!?」
部屋に入るなり、私は久しぶりに案内人を呼び起こした。
『ふわぁぁ、お久しぶりですねえ……』
案内人は、長い眠りにでもついていたのか、ひどく眠たそうな声で答えた。
彼と話すのは本当に久しぶりだ。私がこの世界にやってきて、最初にルールを聞かされて数回話してから呼んでいなかったので、約二年ぶりだった。
「お久しぶりです。単刀直入に言います。春樹くんの声を、戻してください」
『春樹……? ああ、あの新入りの少年のことか』
もし案内人に姿形があるのだとしたら、彼は今こめかみをポリポリと掻いているような気がする。私の気持ちとは裏腹に、のんびりとした彼の口調は、私をいくらか苛立たせた。
「そう。春樹くんがルールを破りました。私に自分の正体を話したの。それで罰が与えられて……声を失ってしまったの」
『なるほど。春樹にとって、大切なものが声だったということだね』
「うん。彼は歌手を目指してたから。私のせいで……私のせいで、春樹くんは話すことも歌うこともできなくなっちゃった。ねえ、元に
戻す方法はないの!? 確か最初にルールを説明してくれた時、罰を解除する方法もあるって言ったよね?」
そう。案内人からこの世界でのルールを聞かされた時、罰について、彼は解除する方法もあるにはあると言っていた。その時は、何のことかからっきし分からず、深く追及することもなかった。
でも今は、その唯一の罰の解除方法を知りたいのだ。
自分のせいで、彼が大切なものを失ってしまったというのなら、どうしても彼を元に戻してあげたかった。
何より私自身、もう一度春樹くんに、「夏海」と名前を呼んでほしかった。
案内人は何かを考える素ぶりでたっぷりと黙り込んだあと、いつになく真剣な声で「そんな方法は存在しない」と言った。絶望感に胸が打ちひしがれる。目の前が真っ暗になり、その場に卒倒しそうだった。
『——と言いたいところだが、一つだけ、あるにはある』
案内人は私を揶揄っているのか、そう付け加えた。意識が飛びそうになっていた寸前のことで、私はすんでのところで持ち堪える。
「それはなに!? 早く教えてっ」
一刻も早く春樹くんを元に戻したい一心で、私は部屋の中で叫んだ。もし案内人が目の前にいたら、彼の胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
『まあ、落ち着きなさい。夏海、きみだって分かっているだろう? この世界が、どうしてできたのか。私たち案内人が誰なのか』
質問とは全然違う答えが返ってきて、私は拍子抜けした。
案内人の言葉に、私は呻くようにして頭を抑えた。
どうしてだろう。頭が、痛い。
私の中で、何か大切なことを忘れているような気がしてならないのだ。そのことを思い出そうとして、頭がズキズキと大きく脈を打っている。
「分からない……あなたは、誰……? 春樹くんの声はどうやったら治るの? ねえ、おしえて。おしえてよ……」
子供が泣いているみたいなか弱い声が、自分の口から漏れ出ていた。
誰でもいい。案内人にできないのなら、神様。神様がいるのなら、私の声を聞いてほしい。
春樹くんを、助けて。
『……まあ、我々の正体は置いておいて。春樹の罰を解く方法、教えてやってもいい』
私の悲痛な叫びを聞いたからか、案内人はこれまで以上に真剣な声色でそう告げた。
私ははっと我に返り、
「なに?」
とすぐさま問う。
焦る気持ちが、身体中の毛穴から汗になって吹き出していくのが分かった。
『そう焦るな。一度しか言わないから、心して聞いておけ。春樹の罰を解く唯一の方法。それはな、“春樹の大切なものを、もう一つ失うこと”だ』
「大切なものを、もう一つ失う……?」
案内人の口から紡ぎ出されたたった一つの答えを、私は反芻した。
『そうだ。春樹が命と同じくらい大切だと思っているものを、失う。失うという定義は、それが何であるかによって変わってくるがな。とにかく春樹がもう二度と手に入らない状態にするんだ。それが条件だぞ。ゴミ箱に捨てて、気が変わってゴミ箱から再び取り出せるような状態は、“失う”とは言わない。燃やすなり海に投げ捨てるなりして、完全に、春樹の目の前から消去するんだ。そうすれば春樹の声は戻る』
「なんて……」
なんて、残酷なんだろう。
失った大切なものを取り戻すには、新たな代償が必要——確かに理に適ってはいる。でも、人間の心は、理屈ではできていない。みんな、感情を持っている。
「ひどい……条件だね」
カーテンの閉め切られた六畳ぽっちの自分の部屋で、私のか細い声が、不自然なほど響いて聞こえた。家の中ではいつもそうだ。学校に行けばみんなと賑やかな日常を過ごせるのに、家に帰ってくるといつも孤独。確かに、お母さんとお父さんはいるけれど、彼らには血が通っていない。まあ、私だって、ここが現実世界でない限り、実際は血の通っていない人間なのかもしれないけれど。
この世界のルールに、私たちは散々振り回されてきた。
与えられた場所で、与えられたルールをただ享受して、無意味だと分かりつつ、テスト勉強を頑張って、学校では成績を気にして。私たちにできるのは、与えられた青春時代を謳歌することだけだ。
だからこそ、笑顔で頑張ってきたのに。
人一倍、笑っていれば友達も明るい気持ちでいてくれる。孤独な私の仲間になってくれる。そう思って、精一杯生きてきたつもりだ。
でも私は今、再びこのディーナスという世界のルールの縄で、身体中をがんじがらめに縛れている。結局この世界で、本当に自由で幸せに生きることなんて、できないのかな。
『そう思うのなら、最初からルールを破らなければよかったことだ。我々は、みな平等に、最初にこの世界のルールを説明している。その上でルールを破ったのなら、それは春樹の責任だ。止めなかったきみにも、いくらか責任があるのかもしれないけど。全部春樹が決めたことだ。どうするかも、彼が決めればいい』
突き放すような案内人の言葉に、私は目尻にじわじわと熱い涙が溜まっていくのを感じた。
案内人は、何一つ間違ったことは言っていない。最初にルールを伝えられているのだから、悪いのは完全に私たちだ。
私だって、最初は、ルールなんて破るわけないと思っていた。重たい罰があるのに、どうしてあえてルール違反を冒す必要があるのかって。
でも、違うんだ。
人間は、とても愚かだ。
頭では正しいと思っていても、心が間違った行動をとってしまう。
春樹くんも私も、互いの心を知ろうとするあまり、この世界でも道を踏み外してしまったんだ。今更後戻りはできない。だから案内人の言うとおり、どうするかは春樹くんが決めるしかない。大切なものを二度失うかもしれないのは、彼なんだから……。
「……っ」
こめかみにズキズキとした痛みが広がっていく。
春樹くんのことを考えて、私の心がずっと泣いているのだ。
『じゃあ私はこれで。健闘を祈っているよ』
案内人は私が苦しんでいるのを見越してか、あえて私を一人でそっとしておこうと思ったのか、必要な情報だけくれて去って行った。
その日の夜、私は高熱を出して寝込んだ。
夢の中で、私はずっと誰かの声が頭の中で響いていた。男の人の声だ。それが春樹くんの声だと気づいた時、彼の声をもう一度聞くことができた喜びと切なさで、涙が止まらなかった。
春樹くん。
私は必死に彼の名前を呼んだ。彼は、私に背を向けて一メートルほど先に立っている。
春樹くん。
私の声は、彼には届いていないようだ。その証拠に、彼は一度だって後ろを振り返らなかった。
『案内人……案内人』
春樹くんが、「案内人」と呼ぶ声がして、私ははっとした。
そうだ、呼ばれている。
私、呼ばれてる。
どうしてか分からない。春樹くんは「夏海」ではなく「案内人」と呼んでいるだけなのに、自分が呼ばれているという感覚に陥っていた。不思議だった。私は「春樹くん」と、彼の呼びかけに答えるようにして呟いた。
春樹くんが、ゆっくりとこちらへ振り返る。
『夏海?』
春樹くんが私に気づいて、私の名前を呼んだ。嬉しかった。愛しい人の声が、もう一度私を呼んでくれたことが、この上なく嬉しくて胸が詰まった。
「私、私だよ。夏海だよ。春樹くん、ごめん——」
今日のことを、私は春樹くんに謝ろうとした。でも、春樹くんは「気のせいだったのか」とでも言うように、再び前を向いて歩き出した。
待って。
待って!
そう叫んでも、喉から声が出ない。
彼を襲っている孤独が、私を闇の底へと一気に引き摺り込んでいくようだった。