窓から見る限り現し世と変わらないように見えた庭は、出てみても特段変わったところはない。
 ただ、これほど豪華で立派な庭を見たことがない凍華は、圧倒されつつ周りを見渡した。

 珀弧は表門へと続く道ではなく、裏庭へと向かう少し細い道を進む。その後ろをついていくと、まもなく裏木戸と、さらに向こうにある小さな山が見えた。
 裏木戸を開ければうねうねとした道が山の方へと伸びており、暫く歩くうちにそれが傾斜へと変わっていった。
 斜面が急な箇所は土を踏み固めた階段になっていて、ところどころに木の手摺りもついている。

 見上げれば常葉樹が枝を張り、その絡まる枝の間から青い空が見えた。
 珀弧の歩く速度はゆっくりで、凍華が時折咲く野の花に足を止めれば、花の名を教えてくれた。そうやって歩いていると、道に石が交じり足場が悪くなってくる。

 裾を汚さないようにと気を使って歩いていた凍華の前に手が差し出された。どういう意味かと、その手をじっと見返していると。

「掴まれ、ということだ。ここからさらに歩きにくくなる」

 呆れ口調で言われ、とんでもないと首を振れば、さらにため息を吐かれ強引に手を握られた。

「この辺りでは山菜が良くとれる。春になれば凛子が来ているはずだ」
「秋には木の実やきのこも採れそうですね」
「ああ、だが一番とれるのは薬草だ」

 花もそうだが、生い茂る草も木も凍華の知っているものと少し違う。
 茎の太さだとか、葉の色とか微妙な差なのだが、その違いがやはりここが幽り世なのだと凍華に思わせた。

(私はどこで暮らせばよいのだろう)

 自分の手を引いてくれる大きな手を見ながら考える。
 人間でも妖でもない中途半端な存在の自分は、どこにいてもしっくりこないのではないかと不安が胸にこみ上げてくる。

 それと同時に感じるのは繋がれる手の暖かさ。

(こうして手を引いてもらい歩くのは、子供の時以来ね)

 朧げな記憶の端に父親の大きな手が浮かぶけれど、暖かさも強さも思い出せない。

 長年、凍華を助ける者は誰もいなかった。
 夏の暑さに倒れても、過労でふらふらになっても、お腹を空かせても、手をあかぎれだらけにしても、凍華を気にかける人はいなかった。それどころか罵倒され、休むことを許されなかった。
 人として扱われてこなかった十年は、凍華の心を閉ざし痛みと悲しみに愚鈍にさせた。
 だけれど、幽り世に来てからは、気遣われ心配され、こうやって手も引いてもらえる。

(皮肉なものね。真っ当な人間でなく、妖の血が交じると知って初めて人として扱われるなんて)

 珀弧が何も話さず黙々と歩くものだから、そんな余計なことばかりが頭に浮かんでくる。これではいけないと凍華は頭を振り、前を歩く背中に着いていくことだけに意識を集中させた。そうしないと、視界が涙で歪みそうだったから。

 頂上に近付くにつれ傾斜は益々急になり、木の根が地面に張り出しさらに歩きにくくなった。珀弧が時折振り返り大丈夫かと聞いてくれるたびに、心が温かくなる。
 頭上に繁る木々の葉が空をすっかり隠してしまい、道は少し薄暗い。
 湿った土に着物が汚れないよう気をつけながら歩いていくと、突然、木々が開け明るくなった。

「……うわっ。綺麗」
 山の頂はなだらかな原っぱになっていて、眼下には妖の里が広がっていた。
 思わず珀弧の手を離し、小走りで際まで走り眺める。
 大小様々な屋敷が並び、その間に小さな畑や畦道が見えた。流れる川を目で辿れば、ずっと向こうには建物が密集した場所があり、二階、三階建ての屋敷もある。

「もっと自然が多いところかと思っていました。なんと言いますか、こう……」
「人の里と変わらないか?」

 その感想が失礼なことなのか分からず曖昧に頷けば、珀弧は袂に手を入れ組んだまま口の端だけ上げふっ、と小さな声を出した。

「見た目はそうかも知れないな。この妖の里は、ざっくりといえば妖の類いによって住む場所がある程度決まっている。この山の麓には地を駆ける妖、あの建物が密集しているところには空を飛ぶ妖、川上には水にまつわる妖が住んでいる」
「珀弧様は地の妖を纏めていらっしゃるのですか」
「そうだ。昔は狼が治めていたが、彼らは血が途絶えた。空は烏、水は竜が治めている」
「では人魚はあの川上にいるのですね」

 凍華が右手で川上を指差すと、珀弧は少し戸惑うそぶりをみせたあと首を振った。

「狼と一緒で、人魚もその血を途絶えたと聞いていた。水の妖を纏めるものはもうおらず、妖同士が細々と肩を寄せ合い過ごしているらしい」
「血が途絶えた……」

 その言葉の重みが凍華の肩にずしりとのしかかる。
 半妖というだけでも稀有な存在なのに、片方の血である人魚はもういないのだ。

「寂しいか?」
「……はい。根なし草のようになった気分です」
「俺も最後の妖狐だ。俺が死ねば地の妖を纏めるものもいなくなるだろう」

 凍華は、目を見開き珀弧を見上げる。
 じっと見つめるその先にあるのは、珀弧が守る妖が住む土地だ。

(凛子さんが私を花嫁と勘違いしたのは、珀弧様に妖狐の血を繋いで欲しいと思っていたからなのね)

 腑に落ちるとともに、少し寂しくなった。
 それなら、自分でなくても誰でも良かったのではないだろうかと、ひねくれた考えが浮かび、凍華は頭を振る。

(助けていただきお世話になっているのに、私はいつのまに図々しいことを考えるようになったのだろう)