真っ暗な部屋の中で、凍華は珀弧に抱きしめられていた。
人魚の本能に耐えるよう逆らうようその肩は小刻みに震え、両の手は硬く握るあまり爪が手のひらに食い込んでいる。
「月の光を浴びすぎました。……お願いです、この部屋から出て行ってください」
その声はいつもの凍華の声と違い甘く揺らいでいる。目の青も普段よりずっと濃く、髪の色も水色のままだ。
「断る。傍にいれば、もし凍華が暴走したとしても押さえることができる。凍華が誰も食いたくないと思っているのは重々承知しているし、その意思を支えたいのだ」
さらに腕の力が強まった。
珀弧の若草に似た匂いとぬくもりに、凍華のぼんやりとした視界が次第にはっきりとしてくる。
「珀弧様は……どうして私が怖くないのですか?」
声がいつもの凍華のものに戻っていた。
そのことに珀弧が僅かに安堵の表情を見せる。
「私は、いつ、珀弧様を惑わしてもおかしくありません」
「この前もいったが、食べることができるのと、実際に食うのとでは話が全く違う。俺は、凍華や凛子をいつでも斬ることができるし、ロンとコウを一息で消し去ることができる。でも、そんなことをするつもりはない。凍華は俺が怖いか?」
「まさか! だって、珀弧様がそんなことされはずありません」
凍華は顔を上げ珀弧を見上げた。
抱きすくめられているので、その整った顔は息がかかるほどの距離にある。
珀弧は海の底のような目を向けられ、一瞬その琥珀色の目を大きくするも、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「俺は随分と信用されているのだな。それなら俺も凍華を信用している」
「私なんかを信用してはいけません」
珀弧と違い、飢えを完全に制御できるわけではない。
廓で人を食おうとしたように、いつ本能のまま暴走するのか分からないのだ。
そう訴えるのに、珀弧は決して凍華を離そうとはしなかった。
ただ、二人はひたすら夜が明けるのを待った。
どれぐらいそうしていただろうか。
鳥のさえずりが聞こえ、障子の向こうから凛子の声が聞こえた。
「夜が明けました」
「分かった」
珀弧は答えると立ち上がり、雨戸を開ける。
初夏の朝日が心地よく、冷えた部屋の空気を温めていく。
珀弧はくるりと振り返ると、凍華に向かって微笑みかけた。
「ほら、もう夜は明けた。何も心配いらない」
「……珀弧様、私、ここを出ていきます」
凍華は姿勢を正すと、三つ指を付き畳に額が着くまで頭を下げた。
珀弧はその姿を暫く見つめたのち凍華の前に膝を付くと、肩に手を当て頭を上げさせる。
上体を起こすものの、俯き顔を上げようとしない凍華の頬に手を当て強引に自分の方を向かせれば、その顔は涙で濡れていた。
「どうして泣いている?」
「私にここにいる資格はございません」
「ここを離れるのが寂しくて泣いているのであれば、居れば良い」
凍華は袖で涙を拭うと頭を振った。ずっ、と小さく洟を啜る音がする。
「珀弧様を傷つけたくございません。私は自分の本能がどれほど恐ろしいものか身をもって知りました」
月の光を浴びた時に感じた激しい飢えと喉の渇き。
ずっと惑わし避けの花の力で抑えていたが、月光を浴びた時に感じた本能は凍華の想像よりはるかに激しくその身体を駆け巡った。
今、思い返しても、あの獰猛な飢えを良く抑えられたものだと思う。
「今回は偶然、うまくいきましたが、いつもこうだとは限りません」
「それでも、今ここでこうしているのは事実だ」
「次回はどうなるか分かりません。ですから、私はここを出たほうが……」
止まったはずの涙がまたあふれ出す。
珀弧はそれを指先で拭うと愛おしそうに凍華を見つめた。
「傍に居て欲しい。たとえ人魚であっても、俺を食らう可能性があるとしても、俺は凍華を手放したくない。愛しているんだ」
凍華の青い目が大きく見開かれた。
それは、自らの命を懸けるほどの深い愛の言葉。
珀弧は凍華の頬に手を当てると、そっと顔を近づけ、そして魂を吸い取るというその唇に自分の唇を重ねた。
びくりと凍華の肩が揺れ、珀弧がゆっくりと離れていく。
「は、珀弧様。私は、満月でなくても魂を吸い取ることができるのですよ」
「知っている」
「でしたら……っ」
再び唇が重なった。
まるで凍華に自分のぬくもりを分け与えるかのように長く交わされた口づけは、名残惜しそうにやがて離れていく。
「言っただろう。凍華が人魚であっても傍にいたいのだ。その頬に触れ髪を撫で、抱きしめ、口付けをしたい」
「わ、私……」
「今なら、凍華の父親の気持ちが良く分かる。命がけで俺はお前に惚れているんだ。だから、出ていくな」
珀弧の言葉に亡き父の姿が蘇った。
泉の前で花を植えながら父は凍華に語った。
どれだけ凍華の母を愛していたか。
たとえそれが道ならぬ、命を掛けた恋であっても止めることなどできなかったと、誇らしげに話し、そして少し寂しそうに笑った。
「俺より水華のほうが戸惑っていたが、彼女も俺を深く愛してくれた。だから、凍華。いつかお前を受け止めてくれる人が現れ、その人と一緒にいたいと思ったなら躊躇うな」
父は、目の前の泉に母が眠っていること、ここでだけ惑わし避けの花が咲くのは母が最期の力を振り絞って泉に妖力を流したからだと、凍華に教えた。
(どうして今まで忘れていたのだろう)
父と母の深い愛のもと、凍華は今、存在しているのだ。
命を掛けるほど恋焦がれる気持ちと、自分の本能を恐れながらそれを受け入れ愛したからこそ凍華は生まれた。
そして、そんな二人は、惑わし避けの花を育てることで凍華を守ってきたのだ。
いつか自分たちの娘を愛する人が現れ、娘が自分の運命を受け入れることを願って。
「私、珀弧様が好きです」
凍華の言葉に珀弧は目を見開いたのち、嬉しそうに口角を上げた。
今度は凍華が珀弧の頬に手を当てる。
「好きだから、一緒にいてはいけないと思っていました。でも、本当は離れたくないのです。ずっとお傍にいて、その声を聞いていたい。ぬくもりを感じていたい。私にそんなこと思う資格はないのに、でも……愛しているんです」
ぎゅっと力強い腕で抱きしめられ、凍華はそこで言葉を途切れさせた。
「一緒に生きよう。その運命も含め凍華を受け止める」
「はい」
二人は視線を合わせると、どちらからともなく目を閉じた。
三度目の口づけは、長く、深く。
朝日がいつまでも重なる淡い影を畳に落とした。