ぼん、と狐火が現れた。
 ひとつ、ふたつと増えれば、正臣は飛び跳ねるように後ろに下がり珀弧と間合をとる。
 
「狐火で俺を幻惑させるつもりか。甘いな」

 正臣は刀を頭上高く上げると、次いで勢いよくそれを振り落とした。風が舞い上がると同時に狐火が揺れ、消え失せる。

「さすがに、そう何度も同じ手は通じないか」
「化かすことしか能のないお前では、不老不死の俺を殺すことはできない」

 妖といえど、傷を負えば血が流れる。その治りは人間より早いが決して不死身ではない。

 再び刀がぶつかる音が静かな庭に響いた。珀弧が回り込めば、正臣はそれを力でねじ伏せる。狐火が舞うも、刀で起こされた風ですぐに消された。

 しかし、珀弧も決して負けてはいない。
 隙をつき正臣の腹を刀で斬る。その瞬間は正臣とて血を吐きふらつくのだが、一呼吸のちには傷口が塞がっていた。

「なるほど、今日は満月。人魚を食べたお前の妖力も最大限に高まるというわけか」
 
 珀弧が斬られた腕から流れる血をぺろりと舐める。
 激しいぶつかり合いと飛び散る血に、凍華の顔は青ざめぶるぶると身体が震えた。

(このままでは珀弧様が危ない。不死身相手に勝ち目なんてないわ)

 力が拮抗しているとはいえ、いずれ疲労が出てくる。妖とはいえ体力が無尽蔵にあるわけではない。

 凍華の喉がごくりとなる。

(あの軍人の目的は私に食べられること。私さえ覚悟を決めれば、珀弧様を助けることができる)

 たとえそれが人道に外れることであっても、珀弧が斬られるのをこれ以上見たくない。
 ましてや、命が危ないのであれば……

 結界の中には惑わし避けの花の香りが充満し、かろうじて凍華の食欲を押さえてはいるが、ここから一歩でもでれば満月の光により激しい飢えが襲ってくる。

(きっと、この結界を出たら私は正気でいられない)

 今までは、満月の光を避け雨戸を閉めた部屋の中で夜を明かしていた。それでも、惑わし避けの花の力を借りなければ衝動を抑えられなかったのだ。
 ここで、月明かりで照らされた庭にでればどうなるか……。

(きっと自分で自分を押さえられない)

 凍華はぎゅっと目を瞑り、大きく深呼吸した。
 思い出すのは妖の里で過ごした日々。
 珀弧と一緒に裏山を手を繋いで歩いたこと。
 凍華の知らない帝都を教えてくれ、物珍しそうにあちこち目を遣る凍華を優しく見守ってくれたこと。その髪には凍華が作った組紐がいつも結ばれていた。
 疎ましく思っていた青い目を美しいと言ってくれ、うねって絡む髪を鳥の羽のようだと撫でた珀弧。
 何度も抱きしめられ、優しく背中を撫でられた。

(珀弧様を助けたい。私はどうなってもいいから、珀弧様だけは……!!)

 胸に熱い物がこみ上げてきた。
 自分自身をないがしろにして生きてきた凍華が、初めて誰かを大切だと、かけがえがないと思う。
 涙で視界が滲んできた。自分が誰かを愛おしいと思える日がくるなんて思わなかった。

 凍華は立ち上がると、足を結界の外に踏み出す。
 少し出ただけなのに、つま先から痺れるような力が全身を突き抜けた。
 それでも踏みとどまることなく、もう一歩、息を止めるかのようにしてさらに一歩踏み出し、凍華は結界の外に出た。

 その瞬間、押さえていたはずの飢えがものすごい勢いで全身を駆け巡る。

「凍華! 結界の中に戻るんだ」
「私が……私がその男を食べれば、すべてを終わらせることができます」
「駄目だ。人を食いたくないとあれほど耐えていたではないか。毒の花を食らい、どれだけ苦しんでも、凍華はその一線を守りたいのだろう」
「私は……私はそれ以上に珀弧様を助けたいのです」

 涙が決壊したかのように瞳から溢れるた。
 銀の雫のようなそれは顎を伝い、凍華の胸元に染みを作る。

 止まった空気を切り裂いたのは、正臣の乾いた笑いだった。

「ははは!! そうだ。そうすれば珀弧は助かる。俺を食え、そしてお前達がかけた人魚の呪いを解くんだ」

 正臣が大きく両手を広げ、恍惚の表情を浮かべる。
 狂ったような笑いが庭に響く中、珀弧が刀を握る手に力を込めた。

 すぅ

 小さく息を吸ったその瞬間、珀弧は地を蹴った。と、同時に幾つもの狐火があたりに浮かぶ。

 ざっ、と風を斬る音とともに、珀弧は正臣の腹に深く刀を突きさした。
「ぐっ」といううめき声と共に血が吐き出され、腹が赤く染まっていく。
 それを珀弧は冷淡に、殺気に満ちた目で見た。

「ははは、隙をついたつもりか。しかし、これぐらいの傷、満月の力を得た俺ならすぐに治せ……なに?」

 正臣が自分の両手足を見る。
 狐火が足枷手枷のように絡みついていて、正臣の動きを封じていた。

「お前に隙ができるのをずっと待っていた」

 珀弧が刀を引き抜けば、血が飛び散り、しかしすぐに腹の傷が塞がっていく。
 刀をぶんと振り血を吹き飛ばした珀弧は、切っ先が正臣の頭を突きさすように目の高さで構えた。

「俺にお前を殺すことはできない。しかし、記憶を惑わすことはできる」
「な、なにをするつもりだ」
「お前から人魚の記憶を全て消し去る。お前はこれからも老いることなく生き続けるのだ。今まで感じた孤独と絶望をもう一度味わい直せばよい。その原因も解決方法も分からぬまま、苦しみ悩み、ひたすら彷徨うように孤独に生きるんだ」

 正臣の顔から血の気が失せていく。
 歳をとらないことで後ろ指をさされてきた。どこに行っても、どの時代でも奇異な目でみられ、避けられ、畏れられ、孤独に耐えてきた。
 その原因が人魚の肉を食べたからと知っていたから、まだ事実を受け入れることができた。
 人魚に魂を食われれば、長く辛い虚無な人生を終わらせられると希望を持てた。

 しかし、全ての記憶を奪われたら。
 原因も、解決方法も分らぬ中生き続けなければいけない。苦しみ続けなければいけない。

「や、やめろ! 頼む、やめてくれ」
「お前は凍華が助けを求めたときどうした? 捕まえた人魚も命乞いしたのではないか」

 正臣は必死に手足を動かそうとするも、その動きは硬く封じられている。

「安心しろ、化かす、惑わすは妖狐の十八番。お前の記憶を惑わかすなど他愛のないことだ」

 珀弧が地を蹴った。
 刀がまっすぐに正臣の額に向かい――そして貫いた。

「うぐっつわlっっ!!」

 断末魔とともに正臣が地面に倒れ込む。
 刀が突き刺さったままの姿で正臣はなおも珀弧を睨むも、激しい痛みから身体をよじるばかりで起き上がることができない。
 耐えられぬ痛みに、気を失うことすらできないようだ。

「憐れだな」

 珀弧は鞘を持つと、それを引き抜いた。
 血は流れ続けるも、その量がみるみる少なくなっていく。

「は、珀弧様」
「これ以上見るな。妖狩りが集結してきた。ロンとコウ、それに凛子だけではそろそろ限界だ。引き上げるぞ」
「ち、近づかないでください。今の私は……」

 両手を前に突き出す凍華を、珀弧は強引に抱きかかえた。

「月光が届かない場所へ行く。捕まっていろ」

 その言葉と同時に狐火が舞い、珀弧と凍華は姿を消した。




 数十名の妖狩りが、灰堂隊長の屋敷の庭に踏み込んだのは、珀弧達が姿を消してまもなくのこと。
 ばたばたという足音が庭を駆けていく。

「おい。妖狐の気配が消えたぞ!」
「さっきまでいた、若い妖ふたりの姿もないぞ」

 あちこちで怒声が飛び交う中、ひと際大きな声が響いた。

「こっちに灰堂隊長が倒れておられる!」

 声のする方に隊員達が集まれば、服を血で赤く染めた正臣が呆然とそこに座っていた。

「隊長、ご無事ですか?」
「隊長? 俺、のことを言っているのか?」
「ど、どうされたのですか。虚ろな表情をされておりますが……とにかく、ご指示を! 妖狐がさっきまでここにいたはずです」
「妖狐? そんなものがこの世にいるはずがなかろう。それより、お前達はいったい誰だ?
 それにこの馬鹿でかい屋敷……こんなもの俺の村にはなかったぞ」

 隊員たちが顔を見合わせ、息を飲む。
 少し呆けたその表情は、田舎から出たての年若い青年のようで、第五部隊隊長として恐れられた面影はどこにもない。
 いったいどういうことだ、と皆が考えていると、一人の隊員が震える手で正臣を指差した。

「お、おい。おかしくないか? どうして隊長は生きているんだ?」
「はっ、隊長の強さはお前も知っているだろう。妖ごときに負ける……」
「そうじゃない。その血だ! それだけの血を流してどうして平然としていられるんだ。隊長は人間なのだろう?」

 正臣に一斉に視線が向けられた。
 軍服の腹の部分には穴が開き大量の血で赤く染まっているのに、軍服から覗く肌には傷ひとつない。
 そこだけではない。腕も、足も、服はところどころ切り裂かれ赤い血がべったりと付着している。それなのに、身体にはかすり傷ひとつないのだ。

 誰かが呟いた。

「妖……?」

 その言葉は波紋のように広がり大きくなり、やがてそれぞれの隊員が日頃から抱えていた疑問を口にしだす。
 それが一つの結論にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。


 ――この日の出来事は、第五部隊の日誌に簡潔にしか書かれていない。

 第五部隊隊長の屋敷にて妖が暴れているとの報告あり。
 駆け付けたところ、すでに隊長は息を引き取っていた。
 屋敷の地下には妖に捕らえられたと思われる民間人が三名いたが、どの者も記憶が不明瞭のため自宅に帰すことにした。
 後日、改めて話を聞きに行ったところ、自宅、土地、工場全て高利貸しに差し押さえられ、三名の民間人は行方不明。
 娘らしき人物を廓で見たとの証言もあるが、真偽不明。
 捕らえた妖一匹(・・・・・・・)は、地下牢にて監禁。