「……俺を食え」
「…………えっ?」
凍華の目が大きく見開かれた。
(聞き間違い? 今、自分を食べろと言ったの?)
意味が分からない。しかし、正臣の瞳は惑わされたかのように胡乱なものへとなっていく。
「あなたを食べろというの?」
「この肉体は、どれだけ傷つけても蘇ってしまう。お前達人魚は魂を食うんだろう。俺はもう、こんな世から消えたいんだ。何年、何百年と生き続けてもただただ空しいだけ。どこにも居場所はなく彷徨うことしかできない。親しくなったものはどんどん老い、死んでいく。ただ死ぬのなら良いが、最後には俺のことを化け物と罵しり恐れるのだ」
「……自ら望んで人魚を食べたのでしょう?」
「齢二十の若造に、こんなことまで想像できるはずがなかろう」
凍華の眉根が深く寄せられる。
嫌悪感を露わにするも、正臣はもうそんなことに気づかないほど陶酔していた。
「俺は人間だ。お前達みたいな化け物じゃない」
あまりにも自分勝手な言葉に、凍華の全身が暴れるように反応した。
気づいた時には上に乗っていた正臣を突き飛ばし、変わるように馬乗りになると、喉仏の下に細い指を食い込ませた。
「あなたが殺した人魚は苦しんだはずよ」
声が変わる。甘く惑わす声が他人のもののように聞こえた。
周りの景色が紗をかけたように霞むのに、目の前にいる正臣だけが妙にその輪郭をくっきりとさせる。
「千年前の話など、覚えていないしどうでもよい」
「命乞いをしなかった? 彼女にも好きなものがあったはず。大切なものがあったはず。その命を身勝手に奪ったのはあなたでしょう」
「化け物の気持ちをどうして俺が慮らなければいけない。そんな道理はない」
「……あなたこそ、化け物よ」
首を押さえていた手に力がはいる。
激しい喉の渇きと飢餓に、本能的に凍華は口を開けた。
赤い唇が冴え冴えとした月明かりの下、照れっと艶めかしく輝く。
(いやだ、食べたくない。たとえこんな男でも、命を食うなんてしたくない!!)
そう思うのに、体はまるで本能に抗えないかのごとく正臣に近付いていく。
心の内では飢餓と必死に戦いなんとか理性を保とうとしているのに、喉を押さえる手にはますます力が入る。
どうすれば良いか、誰にも教わっていないのに本能で理解していた。
その赤い唇が、正臣の唇を塞ぐようにさらに距離を縮める。
(いや! 絶対にいやぁぁl!!)
凍華の動きがぴたりと止まり、正臣の顔にぽたりぽたりと赤い血痕がしたたり落ちた。
自分の唇を血が出るまで噛みしめ、涎を垂らし、必死に耐える凍華がそこにいる。
月の明かりは容赦なく彼女を照らし、その黒い髪が次第に淡い水色へと変わっていく。
「食え。俺の魂を食って、俺の苦しみを終わりにしてくれ」
「勝手な……ことを言わないで。あなたの思い通りにな……んか、動かないわ……!!」
必死に耐えながら、正臣の顔を睨みつける。
視線が絡まり、一瞬時が止まったかのようだった。
しかし、先に動いたのは正臣。自分を押さえていた手を払いのけると上半身を起こし凍華の顎を掴んだ。
「お前達、化け物に意思も感情も選択肢もない。黙って俺の言う通りにすればいいんだ!!」
咆哮とともに、その唇を凍華に無理やり押し付けようと抱き寄せた。
その時だ。
「凍華!!」
背後から肩を掴まれ、正臣から引き離された凍華は、逞しい腕に包まれた。
懐かしくさえ思える匂いとぬくもりに心の底から安堵がこみ上げてくる。
見上げればそこには銀色の髪を靡かせた珀弧の姿があった。
「珀弧様!」
「良かった。間に合った」
「申し訳ありません。少し出歩くつもりだったのですが、雨香に見つかって……」
「雨香、あの時の女か。なるほど、あの女を利用して凍華を俺から引き離したというわけか」
珀弧は一度強く凍華を抱きしめると立ち上がり、凍華を背に庇った。
「妖を憎むお前が、どうして凍華にそこまで執着するんだ」
「所詮、化け物には分らんことさ」
珀弧は懐から十尺あまりの木の棒を取り出すとそれを握りしめた。
途端、棒の先に鋭い刃が現れ、月明かりの下鈍く光る。
「……その軍人は、私に自分を食べさせようとしたのです。人魚の肉を食べて不老不死となった身体を疎ましく思い、その命を終わらせるために私を探していたのです」
「自身を食わせるだと? なるほど、何百年もたってようやく不老不死の本当の意味を知ったというわけか」
珀弧の目が蔑むように正臣を見る。
この二人が初めて刀を交じ合わせたのは三百年前。
斬ってもすぐに治癒する身体に加え何十年も変わらぬ姿に、珀弧は正臣が何をしたかすぐに悟った。
妖と妖狩りとして幾年にも渡り出会い、斬り合い、初めこそ圧倒的に珀弧が優勢だったが、長い時を経て力量は拮抗したものとなった。
二人の殺気立った空気に息を潜める凍華であったが、その喉の渇きと飢えがおさまったわけではない。
こうしている間も、何度も二人に襲い掛かりたい衝動に駆られていた。
と、突然上から銀色の花びらが降ってきた。
雪のようなそれは、次から次へと舞いおり、凍華の足元に落ちていく。
それと同時に甘く濃厚な香りがあたり一面に立ち込める。
「凍華、花持ってきた」
「沢山、集めた」
ポンポンと、闇夜に狐火が浮かぶと、すぐにそれはロンとコウに姿を変えた。
その両手には惑わし避けの花が沢山抱えられている。
「結界をはる」
「その中に花と凍華を閉じ込める」
「えっ?」
なに、と聞き返す間もなく、凍華を囲むように透明の壁が出来上がる。
閉じ込められた花の香りが濃度を高め、それにつれ喉の渇きがおさまっていく。
月明かりを受けているのでまったく飢餓感がなくなったわけではないが、充分に制御できる程度には落ち着いてきた。
「ありがとう、ロン、コウ」
「俺達、もう行く」
「えっ?」
「ここを探すのに珀弧様、沢山の使役狐を使ったから、妖狩りがうようよしている」
珀弧が作り出した使役狐の数は、以前凍華を探した時よりもずっと多かった。
凍華が店を出て間もなく河童堂に戻ってきた珀弧は、凍華がひとり店を出たと聞いてすぐに後を追った。
大通りを隈なく探すも姿は見えず、嫌な予感にかられロンとコウ、それから凛子を呼びだし、さらには使役狐を帝都に放った。
「でも、ここを探し当てたのは使役狐じゃない」
「それじゃ、誰が私を見つけてくれたの」
「河童堂の店主が、知り合いの妖に声をかけてくれた」
「皆、凍華の組紐に感謝していたから、手を貸してくれた」
声をかけた妖が、気を失った凍華が馬車に乗せられるのを偶然見ていた。
その時は凍華だとは知らなかったが、河童堂の店主がいう容姿と服装が同じだったからと知らせにきてくれたのだ。
そのあとは馬車を見かけた妖を探し、正臣の屋敷にたどり着いた。
「それじゃ、俺達、行く」
「うん、ちゃんと妖狩りから逃げてね」
凍華が心配そうに眉を下げれば、ロンとコウは顔を見合わせ首を傾げた。
「違うよ、妖狩りをここに近付けないために行くの」
「珀弧様の邪魔はさせない」
えっ、と思う凍華の前で、二人はくるりと回ると、年若い青年に姿を変えた。
珀弧と同じ銀色の髪に琥珀色の瞳。身体こそ珀弧より一回り小さいが、黒袴に帯刀するその姿は勇ましい。
唖然とする凍華に、二人はいつものようににこりと笑うと、右手と左手を振り去って行った。
それを目の端で見届けた珀弧は、改めて正臣を見据える。
「さて、そろそろ決着を付けねばならぬな」
抑揚のない珀弧の声は、恐ろしいほどの怒りをはらんでいた。
正臣が刀を構えたまま距離を詰めると、珀弧はそれを受けるかのように切先を正臣に向ける。
暫くそのまま睨み合う中、先に動いたのは正臣だった。
真っ直ぐに振り落とされた刀を、珀弧は半歩下がり避けるとすぐ真横に移動し、正臣の右腰から左肩目掛け刀を振り上げる。
形状こそ日本刀だが、その周りを銀色の靄のようなものが囲んでおり、刀を振れば尾鰭のように刀の後ろに靡いた。
動きが早すぎて、凍華には銀色の煙が舞うようにしか見えないのに、正臣は手首を返すとすぐに珀弧の刀を刀身で受け止めた。まるでその刀筋をあらかじめ読んでいたかのように無駄のない動きだ。
じりっ、とお互いの足に力が入り鍔迫り合いのように力が拮抗する。
どちらも引くことはなく、射るような視線が宙でぶつかる。