「い、嫌! 外には出たくありません」
「お前の要望を聞くつもりはない」

 正臣が一歩踏み出す。
 洋風の庭を月明かりが照らしていた。初夏の花がはっきりと見て取れるほど明るい月明かりに凍華は激しく首を振る。

「お願い! 離してください」

 しかし、正臣はどんどん進み、庭の中央まできてやっと凍華の手を離した。
 大木が植えられているのは庭の端で、そこに銀色の月を遮るものは何一つない。

 激しい喉の渇きが凍華を襲ってくる。
 胃の中が空っぽになったようで、今までに感じたことのない飢餓がこみ上げてきて、凍華はその場にしゃがみ込んだ。
 それらは、廓で月明かりを浴びたときよりもはるかに大きく激しい。

(人魚の力が本格的に目覚めてきたんだ)

 あの時よりも体に力がみなぎるのがはっきりと分かる。
 慌てて必死に胸元から匂い袋を取り出し、その中身を地面にぶちまけると、乾燥してもなお銀色の輝きを保っているそれを、両手で掻き集め口の中に入れた。
 生花と違って口内に纏わりつくのを強引に飲み込めば、喉がしびれ渇きが少しおさまる。

「ほお、そうやって食欲を押さえてきたのか」
「……はい。ですから、見逃してください。私を斬らないでください」
「俺はお前を斬るために連れてきたのではない」
「えっ!?」

 凍華は喉を押さえながら正臣を見上げる。
 月を背負った黒い影は、表情が分からない。
 しかし、闇のように黒かったその目が、青く変わっているのだけは分かった。

 正臣が刀に手をかけそれを抜けば、月の明かりに刀身が冷たく光った。

(やっぱり斬られる!)

 咄嗟に身を竦めた凍華であったが、正臣はそれを振り下ろすことなく、あろうことか刃を自信にむけた。
 見るからに鋭利なその(やいば)に、迷うことなく左手を近づけると、押し当てるようにして一気に引き抜く。

「な、なにを!」

 正臣が傷口が見えやすいように袖をまくり上げると、かなり深い傷が六寸にもわたり腕を切り裂いていた。
 血はどんどんと溢れ、地面に血だまりを作っていく。
 その匂いに凍華の心臓が速くなり、再び喉が渇き出す。
 思わずあとずさり着物の袖で鼻と口をふさぐも、血の匂いがやけに甘く感じられ、頭の芯がしびれてくる。

「よく見ろ」

 それなのに、正臣は傷口を凍華に突き出してきた。
 意味が分からず、ただ茫然とその傷口を見ていた凍華であったが、やがて、青い目を大きく見開いた。

「……傷が塞がってきている?」

 どくどくと流れていた血が止まり、皮膚が少しも盛り上がるとあっという間に傷口は塞がり、跡ひとつ残らない。

「妖?」
「ふん、いっそうのこと、そのほうが良かったかもな。少なくとも妖には寿命がある」

 自嘲気味な笑いを浮かべながら、正臣は凍華の前にしゃがみ込む。
 手が届きそうなほど近い距離に焦ったのは凍華のほうだ。

(どうして私を恐れないの?)

 どうにか抑えているも、飢餓感は腹の底から湧き上がってきて、意識を張り詰めていないと、男を惑わせるあの声が今にもでそうなのに。
 それなのに、正臣は無防備に膝を付き、忌々しそうに凍華を見てくる。

「俺はお前達が憎い。だがそれ以上にこの身体が恨めしい」
「……あなたはいったい?」
「人魚の肉を食った」
「えっ!?」

 意味が分からないと唖然とする凍華に、正臣はもう一度言い含めるように同じ言葉を口にした。

「俺は千年前に、人魚の肉を食った」
「人魚を……人間が食べたの?」

 俄には信じられない。男を惑わす人魚が人間に囚われたというのか。
 その言葉の意味を理解した瞬間、凍華の全身がぞっと粟立った。
 同じ人間として倫理的に到底ゆるされない悪行に対する嫌悪。
 人魚の本能からくる、仲間を食われたことへの激しい怒り。
 そして、背中にピタリと恐怖が張り付いた。

 男を惑わすことを恐れてきた凍華だったが、よもや自分が食われる立場であるなど想像だにしていなかったのだ。

「どうして、あなたは……」

 人魚を食べたの、と聞きたいが、悍ましくて言葉が喉で詰まった。
 それを見た正臣が、ふっと息を吐く。

「珀弧は本当に何も教えなかったんだな。お前の肉には不老不死の力があるんだ。千年以上前から人はそれを求め、人魚を狩り、肉を食った」
「そ、そんな……」
「もちろん成功する者などほとんどいなかった。人魚の声を聞けば惑わされこっちが食われてしまう。だが、俺は人魚を捕らえた」

 凍華の喉がごくりと鳴る。
 自分を見返す目が洞のように仄暗く、正臣の顔からは表情か抜け落ちていた。

「初めの頃は良かった。怪我をしてもすぐに治るし、身体も疲れ知らずでいつまでも働いていられる。だが、何十年か経つと、俺を見る周りの目が変わってきた。幼馴染の頭は白くなり、顔には皺が刻まれたのに、俺だけはいつまで経っても二十代のままだ」

 周りから、人魚の肉を食ったのではと囁かれ、化け物を見るかのような目を向けられるようになった正臣は生まれ育った集落をあとにした。
 
「あんな奴らどうでも良かったし、これで清々したと新たな暮らしを始めた。だが、それもやがて破綻する。息子の姿が俺より老け、妻が亡くなり、子が先に死に。そんなことを何度も繰り返し、絶望したよ」

 正臣は空虚な顔で笑うと、凍華の頬を掴み自分のほうを向かせた。

「不老不死は呪いだ。俺は人魚の呪いによって死ぬことすら許されず今日まで生きてきた。腕が千切れれば、激しい痛みを感じる。普通なら即死する刀傷でも死ぬことが許されず、身体が治癒するまで悶え続けなくてはいけない。お前に俺の苦しみが分かるか?」

 がくがくと震えながら凍華は頭を振る。
 想像しただけでも息が苦しく、胸がつぶれそうになった。
 しかし、それも全て正臣自身の行いによるもの。
 正臣は人魚を食ったのだ、同情する余地はどこにもなかった。

「……報いを受けた、それだけでしょう」

 凍華は正臣をまっすぐに見据えた。
 震えているのに、今すぐ逃げ出したいのに、でも、自分のどこにそんな胆力があったのかと思うほど、強く睨みつける。

「すべての妖が人間の里を荒らし迷惑をかけているわけではないわ。ひっそりと隠れるように生き、穏やかな暮らしを望んでいる妖もいるのに、あなたは食べ、斬り続けた。それがどれほど卑劣なことか……きゃ」

 最後まで言い終わらないうちに正臣の平手が凍華の頬をはたいた。
 軍人の力で思いっきり殴られたのであれば気を失ってもおかしくないが、凍華が感じた痛みは予想より小さい。

 微かに唇に滲む血を手の甲で拭う。
 それを見て、正臣がにやりと笑った。

「その程度で済んだところを見ると、随分妖力が戻ってきたようだな。喉も乾いてきただろう」
「……」

 言われるまでもなく、喉の渇きも飢えもどんどん増してきている。
 今、目の前にいる正臣に飛びつきたい気持ちを必死で押さえているのだ。

「やっと見つけた。妖狩りを結成して三百年。長かったが、それも今日で終わる」
「あなたの目的はなに?」
「まだ分らんのか」

 いうや否や、正臣は凍華に飛び掛かり、地面に組伏した。
 突然のことに抵抗できず、凍華は背に砂利の痛みを感じつつ正臣を見上げる。
 自分を見下ろす男の背後に、はっきりと満月が見えた。

 びくん

 全身が跳ね上がるほどの衝動が突き抜ける。心臓が早鐘のように鳴り、どくどくと物凄い速さで血が全身を駆け巡る。耐えられない飢餓感に唇の端から一筋、涎が垂れた。

「腹が減っただろう。喉が渇いただろう。なに、我慢しなくて良い」

 正臣は、整った顔で狂ったように笑うと、すとんと表情を落とし、鼻先が付くほど近く凍華に顔を近づけた。