扉の向こうから、石階段を降りてくる足音が聞こえた。
 草履が二人、軍人用の長靴がひとつ。

 その音を聞き分けられたことに凍華がはっとし、嫌な予感と共に窓を見上げる。

(……日が沈みかけている)

 叔父から暴力を受けていた時間はそう長くはなかったはず。
 それなのに、外はもう夜の帳が下りてきていた。

 身体から痛みが引いていく。
 それと同時に喉が渇き始めた。

 バタンと扉が開き入ってきたのは、やはり凍華に刀を向けたあの妖狩り。
 その後ろには叔母と雨香の姿も見えた。

「やっと会うことができたな。おい、その女を牢の外へ連れてこい」
「なっ!」

 威圧的な態度に叔父が眉を吊り上げるも、その様子を気にすることなく正臣は言葉を続ける。

「何をしている。早くしろ」
「ちっ、なんだってんだ。いきなり偉そうに」

 舌打ちしながらも凍華の腕を掴み引きずるように牢から出すと、正臣の元へ凍華を連れていった。

「おい、その態度はなんだ。俺はお前の義父になるんだぞ」
「去れ」
「なんだと」
「聞こえぬか、去れといったんだ。お前、もしかして俺が本当にお前の娘なんかと結婚すると思っていたのか」
「なに!?」

 目を剥く叔父を押しのけ正臣に詰め寄ったのは雨香。
 その胸に縋りつき、強張った笑顔で見上げる。

「正臣さん、何を仰っているのですか? 私に一目惚れしたのですよね?」
「お前は馬鹿か。表面だけ着飾った薄っぺらい女に俺がうつつを抜かすはずがないだろう」
「そ、そんな……」

 ふるふると雨香が頭を振る。その後ろで、叔母が甲高い声を上げた。

「だって、あなたから結婚を申し込んできたではありませんか。美しい雨香に恋をした。青巒女学校に通っているなら、将来を期待された自分の妻にふさわしいって」
「そう言えば、お前たちが俺の意のままに動くと思ったからだ」
「意のまま?」

 正臣が三人をぎろりと睨む。その威圧に怖気づくように三人は身を寄せた。
 それでも、かろうじで叔父だけは震えながらも正臣に食らいつく。

「お、お前はいったい何を考えているんだ」
「俺が必要なのはこの女だけだ。しかし、この女の傍には絶えず珀弧がいたんでな。俺では二人を引き離すことができないから、お前達を利用したまでだ」

 淡々と述べるその声に、凍華は息を飲む。

(必要、とはどういう意味なの? 殺すんじゃないの?)

 相手は妖を滅する妖狩りだ。しかも珀弧を追い詰めるほどの手練れ。
 てっきり、その刀で殺されると思っていた凍華は、正臣の真意が分からない。その暗闇のような目の奥を覗き込むも、そこからは何の感情も読み取れなかった。
 しかし、ただならぬ気配に奥歯がガタガタと震え始める。
 同時に喉の渇きが強くなってきた。

「で、では、凍華を連れ戻したら、高値で売り飛ばすという話は……」
「お前の家や土地がどうなろうと俺の知ったことではない」
「そ、そんな……」

 叔父が青ざめるのを見て、叔母と雨香が顔を見合わせた。

「あなた、家や土地ってどういうこと? あれは私が父から引き継いだ遺産なのよ」
「お父様、私、青巒女学校に通い続けられるわよね」
「うるさい!! 今はそれどころじゃない! 凍華を、あいつを売り飛ばさなきゃなんねぇんだ!」

 雨香は自分の父親から初めて怒鳴られ身を縮めた。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 その様子を見て、正臣が煩わしそうに口を開いた。

「お前達に、もともと娘を青巒女学校に通わせるだけの金なんてなかったんだ。こいつは自分の事業が失敗したことを隠し、賭博にはまり、挙句の果てに高利貸しから金を借りた。今更、この女を廓に返したところで、膨れ上がった利子には焼け石に水だろう」

 うるさい、とばかりに眉を顰めながら正臣が言えば、叔父は「言わない約束だっただろう」とさらに怒鳴る。
 そこに、叔母と雨香の声が加わり醜い身内の言い争いが始まった。
 しかし、間もなくそれは、正臣が「ばきっ」と拳で牢の格子を砕く音に、ピタリとやんだ。

「死にたくなかったら黙っていろ!」
「ひっ!!」

 蒼白な顔で身を寄せる三人を一瞥すると、正臣は凍華に近付きその顎を持ち上げる。

「――喉が渇くだろう?」

 低く感情のない声が地下牢にこだました。 

「あなたの目的は、なんですか?」

 震える声で問えば、薄い唇がにやりと笑った。
 しかし、すぐに凍華を見据えていた黒い瞳が細かく揺れる。

「……もしかして、まだ誰も食っていないのか」
「はい。私は誰も食べないし、食べるつもりはありません。だから、お願いです。手を離し……っきゃ」

 顎を掴んでいた手で、今度はぐいっと腕を掴まれ、引き寄せられた。
 珀弧とは違う暗く整った顔が目前に迫る。

「食ってないだと? あれから何度も満月を迎えたのにか?」
「…は、はい。ま、惑わし避けの花を()み、耐えてまいりました」

 だから、手を離して欲しい、斬らないで欲しいと凍華は願う。
 凍華には人間の血だって流れているのだ。これから先も湧き上がる飢餓感を押さえるから、だから、見逃して欲しい。
 その一心でまだ食ってないと訴えたのだが、正臣の手は緩まることなく、それどころか表情はさらに険しくなる。

「そんなまさか。いや、しかし今日は満月なのにお前の変化は少ない」
「月明かりにあたらなければ、このようにしていられます」
「そうか。半妖だから満月から受ける影響が少ないのだな。それなら場所を変えるだけだ。歩け」

 言い終わらないうちに正臣は、凍華の腕を引っ張りながら石階段へと向かう。
 思いもよらぬ行動に凍華は足に力を込め踏ん張るも、軍人の力には勝てず、引きずられるようにして一緒に階段を上がった。
 階段は広い廊下の一角に繋がっていた。
 
(ここはどこ? 大きなお屋敷のようだけれど)

 広い廊下を正臣はどんどん進んでいく。洋館のようではあるが、もちろん凍華に見覚えはない。

「こ、ここはどこですか? どこへ行くのですか?」
「ここは俺の屋敷だ。どこへ行くかはすぐに分かる」

 その言葉の通り、目の前にひと際大きな扉が見えてきた。
 廊下の左右にある扉よりも大きく堅牢なそれが、玄関扉であることは凍華にもすぐに分った。

「ま、待ってください。もしかして、外に?」
「そうだ」

 凍華の顔がさっと青ざめる。どうしてそんなことをするのか理解ができない。

(月の明かりの下で私が妖の力を持っていることを確認してから斬ろうというの?)

 しかし、前を行く男がそんなまどろっこしいことをするとは思えない。
 それに、月明かりを浴びれば、片手で大の男を持ち上げることができるほど凍華の人魚としての力は強くなるのだ。
 どう考えても、屋敷の中で斬ったほうが危険は少ない。

 扉の前で足を止めると、正臣は凍華を振り返った。

「俺は妖を憎んでいる。恨んでいる」
「すべての妖が人間を害するわけではありません」
「そういえば、珀弧が昔同じことを言っていたな。あれは、 前々回(・・) のことだから百五十年ほど前か」
「百五十年?」

 聞き返せば、正臣の視線が僅かに緩み、あざ笑うように口角が上がった。

「俺のことを何も聞いていないのか」
「珀弧様はあなたに気をつけろ、と仰っておりました」
「なるほど、敢えて言わなかったか」

 僅かに思案するような間があったが、正臣は「まぁ、いい」とひとこと呟くと、徐に玄関扉に手をかけた。