「雨香……どうしてここに?」
「月末になると、あんたが洋装の男と一緒に帝都に現れると教えてくれた人がいるの」
月に一度、凍華は珀弧と一緒に河童堂を訪れる。時間は様々だけれど、おおよそ半刻ほど滞在し、そのあとは帝都を散歩して帰るのがお決まりになっていた。
「誰から聞いたのですか?」
「私の婚約者よ。ふふ、軍人をされていて、あなたと神社で会ったあの日、知り合ったの。私に一目惚れしたそうよ」
ふふふ、と笑う雨香の顔は優越感に満ちていた。
しかし、そんな雨香の様子より、凍華は「軍人」という言葉に青ざめる。
(あの日、珀弧様は私を探すために、ロンやコウだけではなく使役狐を使ったと聞いたわ)
屋敷に帰った凍華にそのことを教えたのはロンとコウ。
「あんなに沢山の使役狐は初めて見た」と興奮した様子で話すとともに、凍華を見つけたのが使役狐だったことを悔しがっていた。
凍華自身は使役狐を見なかったが、それは銀色の煙で作られた狐のような姿をしているという。
(雨香に声をかけたのが、使役狐を見かけた妖狩りだったら?)
凍華が黙り込んだのを見て、雨香の口角がにたりと上がる。
「私、今、青巒女学校に通っているのよ。ほら、見て、この制服、可愛いでしょう」
学校帰りらしい雨香は膝丈のスカートの裾をひらめかせ、くるりと回った。
夏服だろうか、白地で袖と裾に紺色の線が二本入っている。
凍華とて着ている着物の質は良い。淡い藤色の単衣に白く撫子が描かれたそれは、派手さはないが清楚で可憐だ。
しかし、雨香の目には地味に映ったのだろう、フンと鼻で笑い蔑むような視線を凍華に向けた。そして威圧的に腰に手を当て顎を上げる。
「ちょっと話があるから着いてきなさい」
「ですが、私は……」
「断れるなんて思っていないわよね。あんた、自分の立場が分かっている?」
低い声ですごまれ、凍華は下を向く。
売られた廓を抜け出したことで、楠の家に迷惑をかけたことは事実だ。
「こないなら別にいいのよ。あんたと一緒にいる洋装の男に、廓から貰えなかったお金を請求すれば良いのだもの」
「珀弧様は関係ありません」
「関係あるわ。売ったあんたと一緒にいるのだから、廓の代わりにあんたの代金を支払うのは当たり前でしょう」
雨香に睨まれ、凍華は着物をぎゅっと握った。
雨香は河童堂の場所を知っているようなので、逃げても追ってくるだろう。
かといって、この前のようにやみくもに走れば、いなくなった凍華を探すため珀弧はまた使役狐を出す。そんなことをすれば妖狩りに見つかるかもしれない。
「分かりました。一緒に行きます」
「初めからそう言えばいいのよ。ほら、行くわよ」
雨香はそういうと、表通りとは逆のほうへ歩いて行く。
すると、そこには馬車があった。
馬車が大通りを進むのを数回見かけたことがあるけれど、まだまだ人力車が主要な帝都では珍しい。
雨香の姿を見かけると、御者が席を降りてきて扉を開けた。
凍華は半歩下がる。楠の家が養蚕工場を経営しているとはいえ、あきらかに分不相応だ。
「何をしているの。さっさとしなさい」
「どこまで行くのですか? 珀弧様がすぐに戻ってくるから遠くには行けません」
「まだそんなことを言っているの。あんたと珀弧とやらを引き離すために連れ去るのだから、どこに行くかなんて気にしなくていいのよ」
(連れ去る?)
凍華の顔がさっと青ざめた。
もしかしたら雨香はずっと河童堂を見張り機会を伺っていたのかも、という考えが脳裏をよぎる。
「先月も、その前も、雨香は河童堂の近くにいたの?」
「そうよ。学園が終わってからだけれど、あんた達を見張っていたの」
「どうしてそんなことをするの?」
何かがおかしい。
てっきり、無理やり楠の家に連れ戻されると思っていた。
もし、雨香に凍華を連れ去るように頼んだのが叔父や叔母なら、わざわざ凍華が珀弧から離れるのを待つだろうか。
(叔父さん達の目的はお金。それなら珀弧様と一緒にいるときを狙ってやってきて、廓に戻すかお金を払うか問い詰めるはず)
雨香が話していた軍人が誰なのかが無性に気になった。
(珀弧様から私を引き離すということは、珀弧様の存在を恐れているということ。そんなこと考えるのは妖狩りしかいないわ)
どくどくと心臓が早くなっていく。足が震え全身が粟立つ。
「雨香、もしかして私を連れてくるように言ったのは、あなたの婚約者なの?」
「あら、馬鹿なくせに珍しく察しがいいじゃない。そうよ。廓に売ったあんたが逃げたことを知った正臣様が、あんたを捕まえ廓ときちんと話をしたほうがいいと仰ったの。ああいう場所って、怖い後ろ盾が着いているから、のちのち面倒なことになるかもしれないんですって」
「……正臣?」
凍華に刀を向けた軍人を思い出す。
鋭く殺気に満ちた視線は、それだけで心臓を貫くようだった。
凍華がさらに一歩下がる。この馬車には絶対乗ってはいけない。
そう思った瞬間、首の後ろに鈍い痛みを感じた。
あっと思うと同時に目の前が真っ暗になっていく。
ぼんやりとした視界の端に、凍華の首を殴った京吉の顔が映った。
目を開ければ、薄暗い天井が真上にあった。
まだぼんやりする頭で、気絶させられどこかに連れてこられたのだと考えながら、目だけ動かし部屋の様子を探る。
高い位置にある窓から漏れる弱い日差しに照らされた部屋は、既視感のあるものだった。
「……座敷牢?」
黴た畳の匂い、木の格子で仕切られたその場所は、しかし凍華の記憶にある座敷牢より広い。
身体を起こせば、首の後ろに鈍い痛みが走った。触れると腫れて僅かに熱を持っている。
「起きたか」
声のするほうを、痛む首に眉を顰めつつ見れば叔父である京吉が立っていた。
「叔父さん……」
どうしてここに? ここはどこ?
疑問はどんどん出てくるのに、その鬼のような形相を見ただけで喉が張り付き声が出ない。
叔父は乱暴に格子戸の錠前を開けると座敷牢に入ってきた。
そのまま立ち止まることなく凍華のところまで来ると、何の前触れもなく凍華の腹を蹴り上げる。
ドカッ
「うっ」
鈍い音と、内臓がせり上がるような激しい痛みに、凍華は海老のように身体を丸め蹲った。
「お前のせいで俺がどんな目に合ったか分かっているのか」
こんどは踏みつけられるように背中に足が降ろされる。
ドカッ、ドカッ
容赦のない足蹴りの中、叔父の罵倒する声が座敷牢に響き渡った。
「お前を売った金が入らなかったせいで、俺は性質の悪い女に掴まり悪どい賭博場に連れていかれたんだ!! あいつらめ、わざと俺を勝たせ調子づいたところで身ぐるみはがしにきやがった」
息をするのも苦しい。蹴られる合間に必死に肺に空気を入れるも、痛みで何も考えられない。
「おまけに、一緒にいた若造二人が俺を高利貸しに連れていき、無理やり借金を作らされたんだ。その金でなんとか雨香は青巒女学校に入学できたが、このままじゃ、担保に入れた家、工場、土地全部とられちまう」
叔父はそこまで話すとやっと蹴るのを止め、丸くなって動けない凍華の傍にしゃがみ込むと、その髪の毛を思いっきり引き上げた。
「痛っ」
「ふん、相変わらず気持ちの悪い目をしていやがる。でも、そんなお前でも役に立つことがあるんだな」
「は、離して……」
「雨香の婚約者の正臣殿、あの人がお前を高額で買ってくれる御仁を紹介してくれるそうだ。いったいどうやって俺の懐具合を調べたのか分からんが、幸枝や雨香に黙って作った借金のことまで知っていた。おっと、もうすぐ雨香が正臣殿を連れてくるが、余計なことは言うなよ。雨香達にはお前を廓に引き渡すとしか言ってねぇんだからな」
叔父は、凍華を廓に渡すと雨香達に嘘をつき、もっと高値で買ってくれる人に売ろうとしていた。その金額は作った借金を返済できる額で、そうすれば家を担保に取られることもなく、そもそも借金をしたという事実をもなかったことにできる。
つまり、正臣は二枚舌で楠の人間を利用し、ここに凍華を連れてこさせたのだ。