衣擦れの音がし、珀弧が立ち上がる気配がした。
 やっと部屋から出て行ってくれると安堵する凍華だったが、次の瞬間、ふわりとしたぬくもりに包まれた。珀弧の濃紺の上着が目の前にある。

 宥めるように優しく背中を撫でられるのはこれで何度目だろうか。

「ここにいる、大丈夫だ。言っただろう、俺が守ると。一緒に朝を迎えよう。そうすればもう自分を恐れることもない」

 目の前が涙で霞んできた。
どうしてこんな自分に優しくしてくれるのか、そう問いかけたいのに声にならず、変わりにぎゅっと服を掴んだ。

(お母さんはお父さんを食べなかった。人魚としての本能を押さえることはきっとできる。ましてや、私には人間の血が流れているのだもの)

 そう思うのに、喉はどんどん乾いてくる。
 凍華は懐から『惑わし避けの花』で作った匂い袋を取り出した。

「今なら父がどうしてこの花を絶やさなかったか分かります。私が人魚としての力に目覚めないようにと、あの泉で花を育て続けていたのですね」

 男を食らう本能に目覚めるのは十六歳になってからだが、妖としての人ならざる力は生まれながらに持っている。寒さに強かったり、水の中で驚くほど息が続いたり、目立つことではないが、確かに凍華には人と違うところがあった。
 その力が大きくなるのを恐れ、父親は家の中を花の香りで満たしていたのだ。
 
 珀弧は袂から、先ほど摘んできたばかりの『惑わし避けの花』を取り出すと、畳の上にそれを置いた。そして後ろから包み込むように凍華を抱きしめ直す。

 喉の渇きがさらに強くなる。
 激しい飢えに目の前の光景がうつろになっていく。

「珀弧様……」

 その声に、珀弧がビクリと肩を震わせた。今までと違う憂いを帯びた甘い声は、珀弧の脳に直接響いてくる。
 凍華ははっと息を飲み自分の喉を押さえた。どうにか耐えねば。どうにか。

 それはもう、無意識だった。
 畳に置かれた花を手にすると、その花弁を口に含む。
 口内いっぱいに広がる甘い匂いは、それでいて喉の奥を痺れさせた。

「げほっ、げほ」
「大丈夫か」
「はい。喉が痛む代わりに渇きが幾分か楽になりました。ただ……眩暈が……」

 とそのままぐったりと珀弧に身を預ける。突然力が抜けたその身体を珀弧が抱きしめ揺すると、凍華はぼんやりと瞳を開けた。

「珀弧様は私が怖くないのですか。喉の渇きが幾分かおさまったとはいえ、今の私はあなたを食べることができます。妖力の差とか関係ないのです」

 それは、本能的な確信だった。
 自分より弱い者、小さい動物を見れば、戦わずともどちらが強いかは分かる。

「今は抑えおりますが、先ほどの声を再び出すことは容易なのです。きっとあの声は珀弧様を惑わし、私の呪縛から逃れられなくします」
「だが、凍華はそのようなことはしない」
「したくありません。ですが、上手く制御できるか分からないのです」

 はぁ、はぁ、と息が荒くなってくる。
 再び喉の渇きを感じ、花弁をもう一枚()めば、さっきより喉の痺れが酷くなった。

「おそらく、この花は私にとって毒なのでしょう。いざとなったらこれを私の口に押し込んでください」
「……分かった。だが、聞いてくれ。殺せるというのと殺すというのは違うのだ。今、喉の渇きを感じているとしても、それで自分を責めてはいけない。凍華はまだ誰も食っていないのだから」
 
 凍華はこくりと小さく頷くと、身体を捻り珀弧の胸に顔を埋めた。
 そこから珀弧の若草のような匂いと惑わし避けの花の甘い香りがした。
 喉の渇きを押さえるように、その香りで肺を満たす。

(この夜を乗り切れば……まだ珀弧様の隣にいれるかもしれない)

 ぎゅっと唇を噛み、襲ってくる激しい飢餓と喉の渇きに凍華は必死に耐えてた。


 ※

 間もなく夜が明けようとしている。
 珀弧は自分の腕のなかでぐったりとしている凍華の髪を優しく撫でた。

 何度も喉の渇きを訴えときには妖しい瞳で珀弧を見つめることもあったが、その度に凍華はハッとし、我に返って花を食んだ。

 食むほどに身体に負担がかかるのであろう。全身がぐったりとし、普段は冷たい身体が熱を発してきた。何かに耐えるように唇を噛み、拳を握り、身体を震わせる凍華を、珀弧はひたすら優しく抱きしめ宥めた。

 不思議と恐怖は感じなかった。
 今にも豹変して自分を食らうかも知れない女を腕に抱いているのに、恐怖よりも愛しさがこみ上げてくる。
 初めて会ったときは、妖狩りに追われている妖をいつものように助けただけだと思っていたが、今思えばあのときから凍華の澄んだ目が頭から離れない。

 細い身体に、痩せこけた頬、青白い顔。それに反するような鮮やかな朱色の長襦袢は、遊郭街ということもあり、どのような身の上か容易く想像ができた。

 俯き、生気のない表情は、それでも生きたいかと問えば、はっとするような美しい顔で「生きたい」と答えた。
 その瞬間、僅かの間だったけれど凍華の目に浮かんだ輝きに珀弧は惹きつけられた。

「あれが惑わしの力だとしたら、俺はすっかり凍華の虜になっていたのかも知れないな」

 身の上を調べさせ、その生い立ちに同情したのは確かだ。
 そんな辛い環境で育ったのに、優しく周りを思いやれる姿にどんどん同情ではない感情が芽生えていった。
 
 背を伸ばし、顔をあげ、少しずつだけれど前向きになってくる凍華を、支えてやりたい、守ってやりたいと思うようになってきた。

 若菜から、人魚の話をしたら凍華がいなくなったと聞いたときは、心臓が縮みあがった。どれほど手練れの妖狩りと刀を交えても出なかった冷汗が浮かぶ。
 すぐにロンとコウを呼び寄せ、至急で使役狐を作り出し、凍華を探させた。
 そんなもの使えば、妖狩りに見つかる可能性が高まるのは理解していたが、何より真実を知ってしまった凍華が心配だった。
 自分で自分を傷つけないかと、不安が胸を襲う。
 そんな気持ちになったのは、初めてのことだった。

 だからだろう、凍華を殴り罵る雨香を見たときは、引き裂いてやりたいほどの衝動にかられた。何とかその気持ちを押し殺し、凍華を連れ戻そうとするも引き留められ、思わず「花嫁」と言ってしまったのは、珀弧自身も予想外のことだった。

 離れたくない、失いたくない、奪われたくないという独占欲がとめどなく湧き出し、気づけば凍華の気持ちなど考えなしに口にしていた。

 危険なのは分かっている。
 本能に目覚めたばかりの凍華が我を忘れいつ珀弧を食らうかも知れない。でも、傍に置いておくことしか考えられなかった。
 
 人魚の力が一番強くなるのは満月の夜だが、だからといって男を惑わし食らうのがその夜だけとは限らない。
 凍華がいつ暴走し、珀弧を襲うかも知れないが、それでも離れたくない。

「おそらく、凍華の父親もそうだったのだろう」

 ロンの調べで父親が妖狩りだったことは分かっている。どんな経緯で二人が結ばれたのかは分からないが、妖狩りなら人魚の恐ろしさは充分に理解していたはず。
 それなのに、傍に居続け、生まれた子を育てている。そんな父親の気持ちが珀弧には手に取るように分かった。

 鳥が囀る声が聞こえてきた。
 どうやら、朝が来たようだ。
 腕の中の凍華は、毒にやられぐったりと眠っている。
 でも、その寝顔はどこか誇らしげに見えた。

「俺は随分厄介な女に惚れたようだ」

 珀弧は凍華の額にはりついた前髪を避けると、その額に口付けを落とした。