「こいつが雨香か」
眉を吊り上げ雨香を睨みながら珀弧が問いかける。恐怖からまだ声がでない凍華は、その問いに頷くことしかできない。
「痛い、手を離して」
「人をぶっておいてよく言えたものだ」
珀弧は雨香の手を離すと、凍華の顔を両手で包み、腫れた頬を優しく撫でた。
「珀弧様……」
「すまない。若菜から話は聞いた。できれば、俺の口から説明したかったのだが……」
「わ、私……」
どうしたらいいの、どこに行けばいいの。
問いかけたいのに言葉が喉に詰まり、見つめ返すことしかできない。
そんな二人を引きはがすように雨香の腕が伸び、強引に割って間に入ってきた。
「どこのどなたか存知ませんが、うちの使用人がご迷惑をおかけしました」
珀弧を見上げる雨香の顔は、先ほどまでとはうって変わり余所行きのもので、頬は上気し目は潤んでいる。腕を掴まれたときは咄嗟のことで気がつかなかったのだろう、改めて珀弧の見目の良さに、媚びた微笑を浮かべた。
「この女は私が家に連れ帰りますゆえ、ご心配には及びません。それより身分の高い方だとお見受けいたしました。この女がお世話になったお礼をしたいのでお名前を教えていただけませんでしょうか」
絡みつく視線と声音に、あからさまに珀弧の眉間に皺が寄る。
汚らわしい者を見るように顔を顰めるも、本人は気づくことなく珀弧の腕に手をかけた。
しかし、その手はすぐに振り払われてしまう。
「手を離せ。お前と話をする気はない」
はっきりと述べられた拒絶の言葉に、雨香は何を言われたのかとぽかんとする。
今まで、美しい雨香にそんな言葉を吐いた者はいなかった。間もなく、意味が分かると、忌々しく眦を吊り上げ凍華を睨みつける。
「その端女は私の家の所有物です」
「これは俺の花嫁だ。貴様ごときが触れて良いものではない」
「花嫁!?」
雨香だけでなく、凍華も驚き珀弧を見上げる。
すると、珀弧は今まで見せたことがない甘い視線で、凍華を見つめかえした。
「帰ろう。俺達の家に」
「で、でも。私は、珀弧様の近くにいる資格がございません。そればかりか、もしかすると……」
「最後まで言わなくていい。とにかく帰ろう。話はそれからだ」
そういうと、珀弧は立ち尽くす凍華を徐に抱きかかえ、雨香の隣を通り過ぎた。
「凍華! このことはお父様に伝えるからね! 絶対あんたを探し出して廓に突き出してやる!!」
キンキンと響く声を背に、珀弧は淡々と神社の裏手へと進んでいく。
周りが木が増えるにつれ、狐火がひとつ、ふたつと現れ、やがて辺りには白い靄が立ち込め始めた。
帝都から戻るとすぐに凍華は部屋に駆け込み、壁を背に膝を抱え蹲った。
間もなく日が暮れ、月が出れば再び喉の渇きが襲ってくるだろう。
(怖い……)
誰かの命を奪ってまで生きたいなどと思わない。
どうしてそんな血が自分に流れているのか、悍ましさから腕に爪を立てれば、微かに血が滲んだ。
「人間と変わらない赤い血なのに」
でも、人とは違う。
震えが止まらず、抱えた膝に額を押し付けていると、障子の向こうから名前を呼ばれた気がした。
顔を上げれば静かに障子が開き、珀弧が姿を現す。
凍華は驚き、慌て珀弧に向かって腕を付き出した。
「それ以上、私に近付かないでください」
「その頼みは聞けない。もとより、人魚については今夜、俺から話をするつもりだった。それがあんな形で凍華の耳に入るとは、俺の不徳のいたすところだ。すまない」
「珀弧様が謝られることは何もございません。ですから、どうかそのまま部屋から出て行ってください。もしくは、私をきつく縛りあげていただけませんか」
泣きそうな顔で両手を揃え珀弧に向ける。その指先は震えていた。
珀弧が足を踏み出し部屋に入ってきた。
凍華が覚悟を決めたように目を瞑ると、その揃えた手を一回り以上大きな手が包んだ。
「若菜から何を聞いた?」
「若菜さんは悪くありません。私に人魚の血が流れると知らずに話したのです。それに人魚について教えて欲しいと言ったのは私です」
「それなら、なおさら俺のせいだ。傷つき弱っている凍華に真実を話すのが憚られ、せめて少しでも妖の里になじみ、自分に自信を持てるようになってから話そうと思っていたのが裏目に出てしまった。もっと早く俺の口から話すべきだったんだ」
妖の里に来たばかりの凍華は俯き目を伏せ、所在なさげにし、自分を否定してばかりいた。
そこに、男を惑わし食べる人魚の血が混じっていると知れば、己の存在を消そうとしただろう。
ひと月という僅かな時間であったが、ロンやコウと楽しく過ごし、凛子が作った美味しご飯を食べ、珀弧の包み込むような優しさに触れたことによって、凍華は少しずつだけれど変わっていった。
顔を上げ、笑い、ときには怒り、凍り付いた心が溶け感情を現わせるようになった。
こうして珀弧と一緒に妖の里に帰ってきたのも、もう一度その日々を過ごしたいという気持ちがあったからだ。そうでなかったら、珀弧からも逃げ、今頃どこか暗闇で一人膝を抱えていただろう。
それに、母が父を食べなかったというのも、凍華の心を支えた。
珀弧が凍華の手を降ろし、向かいに座る。
「何を聞いた」と問われ、凍華は小さく息を吸うと、若菜から聞いたことをぽつぽつと話し始めた。
「人魚と竜が水の妖を治めていたこと、番以外とは子供をなさないこと、十六歳になると異種族の……男性を食らうと聞きました」
「なるほど。ではどうやって食らうかは聞いたか?」
「いいえ、そこまでは……」
恐ろしくて聞けなかった。肉を食み血を啜る姿なんて想像したくない。
「人魚はその声で男を惑わし、水辺に誘い込み、口を通し魂を吸い取るらしい」
「声で……」
廓で、客の男が凍華の声を聞いた途端、様子が変わったことを思い出した。
「満月の光を浴びたとき、いつもと違う声が出ました。それを聞いたとたん、客の男の目が虚ろになり、私にしがみついてきたのです」
「喉が渇いたと言っていたな。それだけか?」
「男を片手で持ち上げました。でも、そんなことしようなんて思っていなかったんです。勝手に身体が動いて、変な声が出て……」
そこまで話して、凍華はぞわっと恐ろしくなった。
勝手に動いたということは、自分の意思とは関係なく身体が男を欲したということだ。
あの瞬間、本能的に凍華は男を食らおうとしていた。
「や、やはり私を縛ってください。もうすぐ月がのぼります。私は自分を制御することができません。縛って猿轡をかまして、この部屋から出ていってください。それでもなお、私がこの部屋を出たときは、珀弧様の手で殺してください」
凍華が珀弧の腕にしがみつき、涙を流しながら訴えた。
しかし、珀弧は首を振る。
「俺はお前を縛るつもりはない。そもそも凍華は半妖だ。人魚の血の力がどこまで現れるか分からない」
「何を楽観的なことを仰っているのですか!?」
思わず叫べば、珀弧は切れ長の目を丸くしたあと、クツクツと喉を鳴らして笑った。
「まさか凍華に怒鳴られる日が来るとは思わなかった」
「そ、そんな。私はそのようなつもりで言ったのではありません。珀弧様、こうしているうちにも人魚の血が騒ぎ始めております。呑気に笑っている場合ではございません」
喉の渇きが先ほどより大きくなる。
月明かりを浴びた時、喉の渇きが酷くなったことを思い出して、部屋の窓は念のため雨戸まで閉めている。
そのせいで、外の様子は分からないが、その渇きが満月によるものだと本能的に感じていた。
部屋にただひとつだけある行灯の明かりが、恐怖で青白くなる凍華を儚く照らす。
「これでも地の妖を束ねておる。お前のことは俺が守る。誰も食わぬよう、傷つけないよう、月が沈み夜が明けるまで傍にいると約束する」
「もともと地の妖を束ねていたのは狼の妖と聞きました。おそらく、珀弧様は狼の妖ほどお強くないと思います。それに対し、私に流れるのは水の妖を治めていた人魚の血。珀弧様を傷つける可能性があります」
「ほぉ、おれも随分と舐められたものだな」
「そのような意味でいったのではありません。私はただ……」
凍華は続く言葉を飲み込み、下を向いてしまった。
珀弧だけは傷つけたくない。
もし、押さえられない衝動で珀弧を食らってしまったら、凍華は発狂し自分を苛め続けるだろう。いや、きっと生きていけない。
大きく優しい手にもう触れてもらえないかもと思うと、胸が苦しくなる。
甘く心地よい声を二度と聞くことができないなんて耐えられない。
何より、こうやって顔を、目を合わせ、言葉を交わすこの時間が、凍華にとってかけがえのないものとなっていたのだ。
しかし、凍華はその気持ちが何によるものか分からない。感情を抑え生きてきたせいで、戸惑うことしかできないのだ。
「教えてくれ、なんと言おうとしたのだ」
「……珀弧様を食べたくありません。大っ嫌いだった私の目を綺麗と言ってくださいました。優しく手を引き山を歩き、いろんなことを教えてくれ……嬉しかったのです。ここにずっといたいのです。珀弧様の傍で……生きたい」
生きたいか、という質問に即答できなかった凍華が、やっと見つけた生きられる場所が珀弧の隣だった。
その場所を自分自身の手で壊したくないのだ。
「お願いです。部屋から出て行ってください。……喉が渇いてきました」