翠は今、何を思って、何を感じて生きているのだろう。あれから八年か。俺達の話をしていても尚、翠は俺の事を忘れている。しかし、いつか思い出すのだろうか。『紫暮天寧』そんな名前の兄が居た事を。

 俺が十七歳、翠が十歳の時に俺は死んだ。翠の目の前で、俺は車に跳ねられた。それからと言うもの、彼女の中の俺に関する記憶は面白いぐらいに全て、消え去ってしまったようだ。翠の中で、紫暮天寧は存在しないみたいだ。
 忘却は自衛。だからそのままで良い。憶えていないのなら、無理にその記憶を思い出そうとしなくて良い。ただ、もう一度聴きたかった。
『おにーちゃん』
『あまね』
 もう一度聴きたかったんだ。それで、あわよくば伝えたかった。
 あの日々の中で、どれだけの嘘を吐いたのだろう。あの数多の嘘は、どれだけ翠を救えたのだろう。あの言葉の数々は、翠の道をどれだけ正しく敷けたのだろう。
 それはどれだけ考えても解らないもの。永遠に答えの出ない問だ。自分の事は自分しか分からない。翠の事は翠にしか分からない。だから今は、翠が今の今まで生きていると言う事が一時的な答えだとする。
 さて、俺は伝えられただろうか。翠の兄として、紫暮天寧として。俺の言葉は翠の心まで届いただろうか。届いていると信じよう。『翠、生きろ』って言ったあの時の言葉が。

 翠が、それなりに悪くない日々を送っていますように。



END.