明後日は待ちに待ったあまねとの美術館散歩。まだ時間はたっぷりあるのに、今からもう楽しみで心が跳ねている。
「翠〜おは〜」
「おはよぉ」
 大きく手を振りながらタコに近付いてくるあまねに手を振り返した。
「今日の報告。片方は当たった。どっちだと思う?」「愛妻弁当がひっくり返って号泣の担任」「正解」
 いつものように座る。
「さてさて翠さん。今日も語り合いましょうね」
「うん。語り合おうっぜ〜」
 緩い笑い声が響く。夜は始まったばかり。今日も明日を迎えるまで、沢山話し込もう。

☂

「そうだ、今日バグって弾撃てなくてボッコボコにされたんだよね」
「なにそれかわいそ」
「蜂の巣だったわ。もう萎えに萎えまくって通信切ってやろうかと思ったけど、味方が裏取って敵討ってくれたからギリギリ耐えた」
「ベイト成功したって事にしとくか」
「うん。そうする」
 あまねと出会って心底良かったと思っている。だってこんなにゲームのことを話せるのだから。
 他にも色々似通った部分が沢山あり、なんでも話しやすい。意見が食い違ったとしても、基本的に真逆の考えだから面白い。本当に、出会えて良かった。
「そう言えば訊いてなかったんだけど、翠って何人家族なの」
「んー、小六の時にお母さんが自殺して、それからお父さんと二人暮らし」
 思ってた以上にするすると言葉が出た。そのまま止まらずに、なぜか言葉が溢れ出して行く。雨の日の川のように、茶色く濁った濁流。
「私が学校から帰ってきたらさ、死んでたんだよ。首吊って。お化けでも見たかと思ったわ」
 馬鹿にしたような笑いが込み上げる。あまねの「翠、翠?」という囁くような呼びかけを無視して吐き出す。
 溜まっていた黒い感情。黒い自分。汚いものを全て吐き出して行く。
「あの人、私たちのことを置いて逝った。人に死ね死ね言いながら、自分が死んで行った。勝手だよね? あいつ。足元にはね紙が落ちてたの。A4の紙いっぱいに、しかも裏まで『翠が死ねば良かった』『お前が死ねば良かった』ってびっっしり書いてあった」
 いつもの時間が死んでいくのを感じた。止めようと思ってももう止まらない。私は、私を制御出来なくなってしまった。制御システムが壊れてしまった。母親に対するどす黒い感情が噴き出して行く。多分私今、すっごく狂気的なんだろうな。
 大きく息を吸って、一気に吐き出す。
「信じられないよね? 可笑しいよね? ……何なの。自分が死を選んだのに、自分で勝手に死んだのに、なんで私のせいなの! おかしいじゃん。勝手に騒いで、勝手に死んで、それでなんで私なの。なんで私が責められなきゃいけないの? 理不尽だよ……ほんとに……ありえない」
 そこで口が止まる。深呼吸をして、思考を整理する。目の前にある何とも言えない表情を浮かべたあまねに助けられた。
 呼吸を優先する。ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でもね、中学でいじめられて、分かった。自分が死ぬ時は、自分が死ぬに至った原因の人全員が憎くなるんだって。全員を道連れにしたくなるんだって」
 あまねのどこまでも優しい相槌に、涙する。
「私はずっと馬鹿だった。親の言う事もろくに聞かずに迷惑ばっかかけてた。私はずっとずっと、ずーっと馬鹿。……それでも私にとって母親は一人。もっと愛されたかったなぁ。もっとちゃんとお母さんと向き合ってれば良かったなぁ、って思って。出来なかった親孝行でもしようかなぁ、思って家を出たのが……」
 そこで言葉選が途切れる。いや、強制的に切られた。身体が引き寄せられる。
 あったかい。誰かの鼻を啜る音が聞こえる。誰かの「大丈夫」という声が耳元で聞こえる。あまねの心臓の音が聞こえる。
 髪を撫でられた。どこかで感じたことのある感覚。あれは、どこだろう。
 考えるのもめんどくさい。泣こう。沢山泣こう。今まで誰にも言えなかった分。今まで溜めていた分が全て尽きるまで、泣き続けよう。

☂

「大丈夫?」
「うん。ごめん、ほんと」
「大丈夫だよ」
 どれだけ泣いたか分からない。何時間も泣いた気がする。その間、あまねはずっと何も言わずに抱き締めていてくれた。
「翠、聞いて」
 両肩を掴まれる。視線が絡む。あまねの瞳は、慈愛に満ちていた。お兄ちゃんみたいだ。同級生なのに。
「翠はね、生きないといけない人間なんだよ。まだ分かんないかもしれないけど、それが遺された人の出来る最大限の事なんだよ」
 あまねの目に涙が溜まって行く。
「周囲がどんなに理不尽でも、どんなに不公平でも、それが大粒の雨みたいに痛いぐらいに降り掛かっても、諦めるな。絶対に死ぬな。言葉に押し潰されて、自分の身を投げ出したら」
 あまねの涙のダムが決壊していくのを見た。肩に掛けられた手が、震えているのも分かった。吐く息も、唇も、震えている。
 息を吸うと同時に手の力が一層強まった。
「……死んだら、負けだ。この世界にリスポーンなんて無い。死んだら、終わりだ」
 そうだ、私も散々見た。何度後悔したってやり直せない。死んだ人は戻ってこない。人生は、
「人生は一回きり。自分の人生は、自分だけのもの。翠の人生は翠だけのもの。生きるも死ぬも最終的に決めるのは自分だけど、自分を雑に扱うな」
 しばしの無言の時間。聞こえるのは、息遣いだけ。
「分かった。ありがとうあまね。ありがとう。約束する。私は、生きる」
 紫暮翠は負けず嫌い。紫暮翠は諦めが悪い。
「よし、小指出せ!」「はい!」
「「ゆーびきーりげーんまーん……」」
 手を叩いて笑い合う。空気が軽くなった。
「子供みたい」「一応まだ未成年だから」
 あまねとの約束は守りたい。いや、守らなければいけない。必ず守らなければいけない。そんな使命感に狩られた。
「約束」
「うん。約束」

☂

「ねーあまね。私、あまねのこと好きだわ。大好き。Loveの方」
 あれからまた雑談を交わして、唐突に私はそんな事を言った。最初からずっと好きだった。あまねの全部が愛おしい。
「え、これ告白ってやつ?」「うん」
 あっさりすぎて驚いただろうか。本当はもっと色のある言葉を渡すのだろうか。
「あまねが隣に居ないとね、やっていけない気がするんだよね。何から何まで、全部好き」
 どうして私はこんな淡々としているのだろう。告白って絶対こんな雰囲気でやるものじゃ無いよね。
「めっちゃ嬉しいし、返事はもう決まってんだけど、それはまた次会った時に言うわ。待っててね〜」
「え、すっごいダルい。何それ。……んまぁ、待っとくよ。待っとく」
「はい、えら〜い」
 正直、分からない。彼の返事がYesなのかNoなのか。まあ、どっちでも良い。伝えられただけで私は満足だ。
 スマホを開く。『2:41』今日も残り三十分ぐらいか。さあ、余すこと無く時間を使い切ろう。

☂

「明日は雨が降る」
「でたぁ。久しぶりに聞いたわそれ。……降るわけないでしょ、雨なんて。そんな前触れも無く急に降ったら、この二ヶ月間何だったん? って話だよ」
「まあでも、明日になんなきゃ分かんなくない?」
 首を少し傾けて煽るような笑顔。紫暮翠は煽りに弱い。
「あ゙ー! もう!!」
「もー怒んなよぉ。……じゃ、こんなのはどうよ」
「なに?」
「明日からの日々は、それなりに悪くない日が続く」
 耐えきれずに吹き出す。流石に曖昧すぎる。
「良いじゃんそれっ。めっちゃ曖昧だけどめっちゃ良い。今までの中で一番良いかもしれない。……明日楽しみだなぁ。『それなりに悪くない日々』ってどんな日なんだろうね」
「取り敢えず明日だな。明日は、生きとこうぜ」
「うん。そうする」
「翠なら大丈夫だよ」

「君、そんなところで何してるの? 年齢教えてくれる?」
「やっばい」
 警官が二人、懐中電灯を持ってやってくる。どうしよう。どう躱そう。
「年齢は、十七ですけど、少し涼みに来ただけなんですよ。部屋の中暑くて、寝苦しくて」
 意味も無くスマホを開く。『3:04』スマホを置いて弁明をする。
「あっもう三時なんだ! 結構涼しくて長居しちゃいました。もう帰ります! すみません!!」
「いや、真夜中に一人でそんなところに居るのは危ないから。親御さんに連絡……」
 警官の発したある単語が気になって、何も話が入ってこない。
「1人じゃない! ここにもう一人! あれ……」
 あまねの姿が見えない。辺りを見回しても、どこにも彼の姿は無かった。あまねの存在だけが、消えた。
「翠、■■■」
 バッと振り返る。声が聞こえた気がした。いや確実にした。虚ろに呟く。

「どこ行ったの? ……お兄ちゃん?」