月が綺麗だ。満月では無い、少し欠けた不完全なもの。あまねを待つ間、一人で夜空を眺めるのも悪くは無い。
 近いようで遠い、私だけの想像力じゃ計り知れないぐらい遠い遠い所にある星々。私には似合わないぐらい美しい。夜空ってこんなに綺麗だったのか。十七になってやっと知った。
 あの星のどこかに、私たちと同じような生物は存在するのだろうか。存在したとして、それはどんな姿形をしているのだろうか。
「難しいな」
 溜息と共に吐いた。スマホを開く。『1:45』そろそろ来るかな。
 あまねの言葉が真実になるか嘘になるか、その確率は半々。あまねは、なんでこんな事を口にするのだろう。分からない。そう言う事にしておく。
 多分私は、あまねに生かされている。

☂

「おはよう翠!」
「おはよう。なんか嬉しい事でもあった?」
 あれから二分程してから現れたあまねは、いつもよりかなりテンションが高かった。
「まあ色々。どうだった? 今日は」
 タコを登りながら訊いてくる。
「んーどっちもハズレ。授業は全部あったし、迷子の犬も見つからなかった」
「そっか。おつかれ様だね」
 そう言いながら向かい合って座る。あまねの顔は、やっぱりいつもより輝いて見えた。
「教えてよ〜絶対なんか良い事あったじゃん」「え〜教えない」
「教えて」「教えませーん」
「なんで?」「なんでも」
 紫暮翠は、諦めが悪い。深く息を吸って、吐く。もう一度大きく吸ってから、
「教えてくださいお願いします」
 勢い良く頭を下げる。一瞬首筋にピキッと痛みが走った。
「はいはい。教えますよ。別に大した事じゃ無いけどね」
「ありがとうございます! 痛っ!!」
 思い切り頭を上げたその勢いのまま壁に後頭部をぶつけた。ゴンッという鈍い音が響いた。頭を抱えて「痛い……」とだけ零す。「大丈夫?」と半笑いで訊くあまね。(笑うなよ)心の中でそう悪態をついた。

 痛みが引き、「人が痛がってんのに笑うな」とちゃんと本人に悪態をついてからもう一度訊く。
「で、何があったの?」
「好きな画家の個展が開催される事になったんだよ。前にも言ったあの人。いつもは東京とか大阪とか、そこら辺の都市部でしか開催されなくて行けなかったんだけど、遂に県内で開催されんだよ」
「へー良いじゃん。一人で行くの?」
「うん。え、一緒に行く?」「行く」
 自分でも驚く程即答してしまった。案の定、あまねも口が半開きだ。芸術に興味が無いと前に漏らした事がある。それを聞いたらこの顔をするのも当然だろう。
「本当に行く?」
「行きたい」
「じゃリンク、送るわ。詳しい事色々書いてあるから」
 数秒後、通知が鳴る。まだ『よろしく』という可愛いスタンプしか送り合っていない、寂しいトーク画面に、リンクが貼り付けられた。青文字の羅列をタップする。
「あれ……エラー吐いたかな。もっかい開き直すか」
 一度トーク画面に戻り、再度リンクをタップする。先程と変わらずそこに出てきたのは、
「『404 Not Found』……ページ見つかんないって」
「え、嘘でしょ? 俺開けるんだけど」
 白い背景に黒文字でそう書かれただけの無機質な画面。多少の違和感を憶えつつも、あまねが開けるならそれで良いと思い、あまねの画面を覗く。
「あー、見た事あるかもな。小学生の時だから、六、七年前に結構注目されてた人だよね」
「うん、そう。ずっと好きなんだよねぇ、この人の絵。理由はまぁ、無いようなもんだけど」
「八月八日ね。空けとくわ。日中に行くんだよね」
「そうね。日が出てる時に翠と行動すんのか、楽しみだな」
 画面をまじまじと見つめながら呟く彼の姿が、正しく絵画のように絵になった。儚い。その言葉がよく似合う。

☂

 夜は深まる。無音の世界が過ぎ去って行く。例の画家の話をした後、ゴッホやフェルメールなど、昔の画家の話で盛り上がった。
 話している間、あまねはいつの間にか滑り台の出口に移動していて、私が彼を見下ろすような形となった。今は互いに無言の時間を味わっているところだ。

 唐突に、なぜか彼に話したくなった。私の心の内を。彼なら、良いと思ったから。根拠は無いけど、受け取めてくれると直感的に思ったから。
「ねえあまね。これは友達の話なんだけどさ、聞いてくれる?」
「良いよ」
 騒がしい心臓を押さえ付ける。このまましゃべったら声が震えそうだ。(これは友達の話)そう無理やり思い込み、口を開く。
「友達が言ってたんだけどね、その友達、何かがいつも不足してるんだって。してるって言うか、そんな気分なんだって」
 一切振り返らないあまねの淡白な相槌が身に染みる。振り向かないでくれてありがとう。多分私、今酷い顔をしている。
 息を吸う。声が震えないように力を入れる。これは友達の話。
「なんか、いつも、足りないんだよね。自分の知らないどこかで、何かが欠けてる。初めは埋まってた筈なのに、どっかで欠けちゃった。その何かが見つからなくて、どれだけ経っても、いつまで経っても、自分の心が満たされない」
 細く息を吐く。彼がどんな事を言ったとて、何かが変わるとは限らない。むしろ変わらない可能性の方が大きい。それでも彼に打ち明けてしまうのは、
「友達はね、いつも決まった時間に会うある人を見てると、その欠けた部分を鮮明に自覚していくんだって」
 何か知っていそうだから。
「その友達はさ、欠けたきっかけとか欠けたピースの手がかりとか、そういうの持ってないの?」
 いつもより落ち着いた口調。あったかい声。
「失くした記憶は無いんだよ。失くしたつもりも無い。手がかりも何も無い。ただ、そんな気分なの」
 文末表現の選択を間違えた。それに、声も震えた。まるで泣いてるみたいじゃないか、私。
「翠、その友達にこう伝えて欲しいんだけど。……生きてれば、必ずその欠けた部分が埋まる日が来るって。埋まるのを待つ日々は、その足りない所を無視して、何も考えずに、生活すれば良い。嫌でも目に入るものだとは思うんだけど、そこから目を逸らして、無理に探そうとしないで良いって。伝えてあげて」
 もう声も出ないよ。あまねの言葉が、優しすぎるよ。久しぶりにこうやって泣いた。人の柔らかい所に触れて、包まれて、解放されて、泣く。
「うん。伝えとくよ。……ありがとう」
 これは紛れも無い私の話。
 いつの間にか登って来た彼の大きな手に包まれる。

「明日は、でっっかい入道雲が出る。それと、その友達は、良い日を過ごせる」