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一方その頃、柚子が無事に祖父母の家に到着したというメッセージが玲夜の携帯に届いていた。
柚子につけていた護衛からの連絡だ。
メッセージを確認して安心する玲夜は、わずかな名残惜しさを感じつつ、携帯をデスクの上に置いた。
本当は玲夜も柚子と一緒に行きたかったが、久しぶりに会う祖父母との水入らずの時間を邪魔しない方がいいだろうと気を利かせ、玲夜自身は会社で仕事をすることを選んだ。
柚子は今日祖父母の家に泊まる。
つまり、仕事を終えて帰っても、屋敷に柚子の姿はないのだ。
そのことを考えるだけで、帰宅が億劫で憂鬱なものとなる。
自然と漏れたため息に、玲夜の秘書である荒鬼高道は苦笑する。
「玲夜様、たった一日だけですよ」
「分かってる……」
分かっていても心が納得するかはまた別なのであった。
わずかに機嫌を悪くしたのを察した高道はやれやれという様子で、仕事に取りかかった。
今の玲夜になにを言ったところで意味はないと思ったのだろう。
玲夜も柚子のことを考えないで済むように仕事に意識を向ける。
そうして仕事を進めてからしばらく、部屋がノックされる。
すぐさま高道が動いたが、対応するより先に扉が開き、なんとも元気のよい声が響いた。
「玲夜様、お疲れ様です~」
陽気な笑みで入ってきたのは、副社長であり、鬼龍院の筆頭分家の嫡男、鬼山桜河である。
「桜河、返事をする前に入ってきては意味がないでしょう!」
目を釣りあげて高道が苦言を呈するが、桜河は気にした様子はない。
桜河と高道はひとつしか年齢が変わらず家同士も鬼の一族の中で当主に近い地位にあるからか、昔からの友人なので気安いのだ。
高道も自分に対してその態度は気にしていないが、それが玲夜にも向けられるとあらば、玲夜至上主義の高道としては黙っていられない。
だが、桜河は玲夜を前にしても、軽くチャラいと言われてもおかしくない態度を変えない。
もちろん、その言葉の話し方はきちんと気を遣っていると感じられるものなので、玲夜も余程のことがない限り文句を言うことはなかった。
いや、他者への興味が希薄な玲夜は、ただどうでもいいと思っているだけである。
いちいち注意するほどの関心がないのだ。
長年そばで働いている桜河にだとしても……。
玲夜が大きく心動かされるのはこの世界でただひとり、柚子だけ。
「仕事はどうしたのですか?」
「休憩だよ、休憩。それと、玲夜様調子をおうかがいにさ」
高道と桜河がそんなやり取りをしていても、興味がなさそうな玲夜の前に、桜河は紙袋を置いた。
これはなんだと問うような訝しげな玲夜の眼差しが桜河に向けられる。
「玲夜様の退院祝いです……と言っても、玲夜様はそんなものもらっても喜ばないでしょうから、柚子様への贈り物です」
「柚子に?」
それまでその目に映っていたのは『無』だったというのに、柚子と聞いた瞬間に玲夜の目に感情が宿る。
その様子が興味深いというように玲夜見る桜河は、ニコリと笑った。
「今、女性秘書の間で人気のお店の限定スイーツなんですよ。お願いして買ってきてもらいました。きっと柚子様なら喜ぶと思いますよ。玲夜様から渡してあげてください」
自分が買ってきたわけでもないのにドヤ顔の桜河に、高道の目は冷たいものだ。
けれど、喜ぶ柚子の顔を思い浮かべる玲夜の表情は柔らかい。
「そうか。礼を言う」
「いいですよ~。柚子様も何日も目を覚まさなかったりと、最近はいろいろ大変なことが続きましたからね」
「……まったくだな」
ボキリと、玲夜が持っていた万年筆が折れる。
いや、折れるという言葉では足りないほど粉砕しているではないか。
その瞬間、桜河と高道の顔色が悪くなった。
玲夜からは並々ならぬ覇気が発せられており、まさにブチ切れ一秒前。
魔王がいつ降臨してもおかしくない状態である。
「俺、なにかお気に触るようなこと言いましたか……?」
顔を引きつらせながらも恐る恐る問う桜河は、素晴らしい勇気の持ち主である。
だてに副社長として玲夜の右腕をしているわけではない。
「あのクソ神を思い出しただけだ。考えるだけで忌まわしいっ!」
その顔はまさに魔王。
思わず一歩下がる桜河。
「あの神のせいでいったいどれだけ柚子が迷惑を被り、泣いたか。俺があやかしの本能まで奪われたのも、元を正せばあの神のせいだ。社を解体しようとしたが、残念ながら柚子に止められたから今はなにもしないが、そのうち必ず礼はさせてもらう」
「いやいや、相手は神ですから、どうか穏便にお願いしますよ。玲夜様になにかあったら柚子様が悲しまれますからね。ねっ?」
玲夜を説得する桜河の顔は真剣そのもの。
高道も、桜河の隣でこくこくと頷いている。
「ちっ」
玲夜は憎々しそうに舌打ちをするが、行動に起こすのは止められたようだと桜河はほっとした顔を見せる。
玲夜になにかお願いを通す時は柚子の名前を出すのが一番だと、玲夜の周囲にいる者には常識であった。
玲夜が感情に振り回される理由となるのが柚子なら、そんな玲夜を止められるのも柚子なのだ。
桜河は冷静さを取り戻した様子の玲夜の顔を見ながら問いかける。
「玲夜様は神器によって、あやかしの本能をなくされたのですよね?」
「ああ……」
「それってどんな感じなんですか? そもそも花嫁を見つけたあやかしの気持ちを俺は分からないですけど、花嫁である柚子様への本能をなくして、どんな変化があったのですか?」
「桜河」
不躾に問いかける桜河に、高道が窘めるように名を呼ぶが、桜河は質問を撤回するつもりはなさそうだ。
「いいじゃないか、高道。少し気になったんだよ。本能を失っても、玲夜様は相変わらず柚子様への気持ちに変わりがない。本能をなくして、なにかしらの変化があるのかと知りたいんだ。なにせ、他に神器で刺されたあやかしは花嫁を捨てたっていうじゃないか。玲夜様はそんなあやかしたちとなにが違うのか、高道だって気にはなるだろう?」
「それは……」
すぐに否定できないところが、桜河の言葉を肯定しているのを意味していた。
玲夜はじっと桜河の顔を見てから、デスクの上にある携帯へと視線を移し、口を開く。
「そうだな。本能をなくしたのにはすぐに気がついた。だが、それによって柚子への気持ちが大きく変わったりはしていない」
「それだけ玲夜様は、柚子様をひとりの女性として愛していたという証ですね」
なぜか桜河は嬉しそうに笑うが、実際はそんな笑える状況になかった。
もし玲夜が柚子を花嫁と認識しなくなったといって柚子を捨てていたら、神の鉄槌が鬼龍院だけでなく鬼の一族に落ちていたかもしれないのだ。
今笑っていられるのも、玲夜が心変わりしなかったからである。
「ですが、玲夜様自体の心は変わっていなくても、本能に関してはどうなんです?」
桜河は遠慮なしにどんどん質問していく。
「正直、あやかしの本能の部分についてはかなり大きく変化している」
玲夜は不快そうに眉をひそめた。
「柚子が大事なことに変わりはない。だが、本能で柚子が花嫁だと感じていた時は、柚子との間に一本の太い線でつながれているような感覚があった。それによって酔うような多幸感に満たされ、充足感もあった。だが、神器で刺されて以降は、その線が断ち切られ、柚子をそばに感じられなくなった気分だ。まったくもって不快でならない」
玲夜はその言葉通り、不快感に溢れた表情をする。
「なるほど、興味深いですね。他のあやかしは花嫁を捨てたのも、つながりが切れたように感じたからでしょうか?」
「さあな。そんなことどうでもいい。俺が変わらず柚子を愛しているならな。それに、柚子からしたら俺が本能をなくした方がよかったのかもしれない」
「どうしてです?」
玲夜がそんな風に思っていることに対して、桜河は少し驚いた様子で問い返す。
「何度も言うが、柚子への想いはなんら変わりない。だが、本能を失ったことでそれまであった激情が和らぎ、少し冷静に柚子のことを考えられるようになった気がする。あやかしの花嫁へ向ける感情が、時に花嫁を傷つける結果になることは桜河も知っているだろう?」
「そうですね」
「柚子を感じられる本能を取り戻せるものなら取り戻したい。だが、俺は柚子のことになるとどうしても余裕をなくしがちだからな。柚子の前では頼れる夫でいたいとも思う」
玲夜は小さく息をついた。
「柚子への執着が多少薄れた方が、柚子も息が詰まらなくていいだろ」
そう、玲夜は柚子の姿を思い浮かべながら考えを口にした。
不満がありつつも今の状況に納得しているという様子である。
しかし……。
桜河と高道は目を合わせ、なんとも言えない表情を浮かべた。
お互い考えていることは同じなのだと、その表情から察せられ、高道はこめかみを押さえ、桜河は回れ右をして背を向けた。
「じゃ、じゃあ、俺は仕事に戻りますねー」
玲夜に自分の表情を隠すように、桜河は足早に部屋から出た。
そして、そのまま自分の仕事部屋である副社長室へと戻った桜河はつぶやく。
「いや、玲夜様の、あれって無自覚?」
桜河は玲夜の顔が真剣そのものだったのを思い浮かべる。
「いやいやいや。本能がなくなっても、十分柚子様に執着してるし、柚子様中心に物事考えてますよ、玲夜様」
ひとりしかいない部屋でツッコム桜河。
玲夜の言葉の端々から溢れ出て、隠しきれていない柚子への執着心。
本人は薄れた方がなどと言っていたが、まったく薄れている気配がない。
きっと柚子になにかあったら、変わらず余裕がなくなる様子が目に浮かぶ。
「本能を越えるほど重たい愛って相当だな」
玲夜の並々ならぬ柚子への想いに、桜河は誰もいない部屋で呆れていた。
「こりゃ、柚子様には一生玲夜様と生きていく覚悟をしてもらわないとだな」
本能がなくなったからと、今後柚子を離すかもしれないと期待しても無駄だと感じる。
もはや玲夜が抱く想いそのものが呪いと化している気がして、柚子への憐憫が浮かぶ桜河だった。