「これ使うな」
一通りの散策を終えた尚人が、二つあるうちの丸椅子を一つ手に取り、咲夜の左側、洸のいる窓際と反対側で腰を落ち着かせる。
「あ、私も……あ……」
尚人を真似て、神影も丸椅子を手に取ろうとするも、洸の分が無いことに気がついて、申し訳なさそうに洸を見る。
「僕は大丈夫だから、使っていいよ」
そう洸は丸椅子を譲ると、窓の縁に腰を凭れさせる。
「あ、うん。ありがとう」
神影はその厚意を素直に受け取り、尚人の隣、咲夜の顔に一番近い場所を陣取る。
「それにして。この黄色い花を見ていると、思い出すわね」
咲夜は、アレンジメントを見つめて小さく微笑む。
「思い出す? 」
神影は復唱に疑問符をつけて提示する。
「うん。昔ね、まだ小学校低学年の頃、洸と私は、菊の酢漬けを食べたことがあってね、洸はそれを一口食べて、酸っぱいと思わなかったんだろうね、後は独特の匂いもあるし、それで、毒があると勘違いしてね。もう、大慌てになって。私は、その何度も食べたことあったから、何の抵抗もなく、一口で沢山の菊を食べたの。それを見た洸がね、また大慌て。咲ちゃんが死んじゃうって、大泣きしてね。今、思い返しても、微笑ましいエピソードだわ」
咲夜の唐突な暴露話に、神影と尚人は、似たようにほくそ笑みながら、洸を見上げる。
「ま、まぁ。子供の頃の話だから。うんうん。子供の頃の話」
洸は、その二人の視線から逃げるようにして、二人に背を向けて、窓の外を眺める。
「まぁ、そういう事は多かったわね。ほら、やっぱり私がこういう体だから、敏感になっていたんだろうけど、本当に、子供の頃は、大泣き虫だったのよ」
「あらあら、かわいいね〜洸きゅん!」
その尚人の小馬鹿にした声が、洸の背中に突き刺さる。
「子供の頃は、誰だって、そんなもんだろ? あ、尚は不思議と、マセガキだったような気がする」
「おぉ。ありがとう」
「いや、褒めて無いから」
そんな軽口を交わして、恥ずかしさの熱も引いた洸は、再び振り返り、窓の縁に凭れる。
「それで、容態はどうなの? 退院は出来るんだよね?」
話に一区切りついたところで、皆が持っていた気がかりな部分を言葉にする神影。
「う〜ん。まだ、分からないわね。最悪、コンテストには、出れそうにないかもしれないわね」
「え?」
そのカミングアウトに、洸は愚かにも、その可能性を考えていなかった事に憤る。
「で、でも、あくまでも最悪の場合だよね! 良くなるんだよね!」
洸はそう口にしてから後悔をした。咲夜の病気は、悪くなる一方で、良くなることは無いと知っているからだ。
「………ごめんなさいね」
洸の中で、罪悪感がじわじわと広がっていく。
「いや、咲夜が悪いんじゃないよ。と、とりあえず、今は療養してさ、コンテストの事は一旦、忘れようよ! ね!」
洸の必死に紡いだ言葉は、取り繕ったような印象となって、咲夜に届く。
「ありがとう。そうするわね」
洸の心内に広がる暗雲に気づかないフリをした咲夜は、柔らかい微笑みを洸に向ける。
「ところで、咲夜、食事制限とかあるのか?」
徐々に陰となっていった雰囲気を感じとった尚人が、話の舵を取り、そこからは、当たり障りのない時間が過ぎ去って行った。
ーーー 病室からの帰り道。
洸達は、病院の独特な空気に声を潜めて、ラウンジまでたどり着いた。
「あ!」
先頭を歩いていた洸は、そのラウンジにて、とある人物を目撃して足を止めた。
「ん? どうした?」
「ちょっと、ごめん」
尚人の問にその言葉を残して、洸はその人物の元へと近寄っていく。
「陽子さん。こんにちは」
洸が声をかけたのは、40代半ばの女性であり、整った横顔には疲れが表れている。
「あら。洸くん。お見舞いに来てくれたのね。ありが とうね」
陽子と呼ばれたその女性は、椅子に腰掛け、洸を見上げる。
「いえ、当たり前じゃないですか」
親しげに会話を始めた二人を、洸の背後に立つ神影と尚人は、不思議そうに見つめている。
「あ、こちらは、咲夜の同級生で友人、同じ部活の仲間でもある、尚人と神影です」
洸が二人と陽子を引き合わせると、陽子は立ち上がり、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「あら、あなた達が。あの子に話は聞いているわ。私は、咲夜の母親で、陽子と言います。二人とも、あの子と仲良くしてくれて、ありがとうね」
「あ、ああ。いえ、こちらこそ。私達こそ、咲夜ちゃんには、お世話になっているので」
神影と尚人は、ぎこちなくお辞儀をする。
「会えて嬉しいわ。さぁ、座って、少しお話を聞かせてちょうだい」
そう三人を半円を描くように設置されたソファーに誘導し、陽子は人数分の缶コーヒーを買って、自らも腰をかける。
「これはいつも、あの子と仲良くしてくれているお礼よ。こんなんじゃ、足りないけどね」
三人は恐縮しつつも、陽子の厚意を受け取る。
それぞれが缶コーヒーに口をつけて、一段落ついたところで、陽子が口を開いた。
「あの子、学校ではどんな感じ? 家庭では、口数は少ない、いえ、少なかったんだけど、この頃は、よく会話をするようになって。そうね。部活を始めて、暫くしてからね」
陽子の問に代表して口を開いたのは神影だ。
「確かに、一見クールな印象はありますが、とても友達想いで、優しくて、自分をしっかり持っていて、私達なんかよりも大人で、同級生にこういう事言うのは、違うのかもしれないですけど、とても尊敬してます」
「そう。そうなの」
陽子は、神影の返答に、噛み締めるように微笑み頷く。
「昔はね、もっと素直で明るい子だったんだけど、まぁ、無理もないわよね。親として、あの子にしてあげられることは、見守る事しかなくて。だから、最近のあの子の様子を見て、本当にホッとしたの。あの子が、心底楽しそうな様子で。だから、あなた達には感謝しているの」
真っ正面から向けられた感謝の意に、馴れない三人は、戸惑いながらも微笑み合う。
「だから、申し訳ないとも思うの。コンテストがあるのよね? 担当医の話では、コンテストに出場するのは、難しいだろうとの事で。あの子も本当に、楽しみにしていたんだろうけど、ごめんなさいね」
陽子はそう言って頭を下げる。そのため今度は、違う戸惑いを浮かべる三人。
「そんな。謝らないでくださいよ! 確かに、咲夜が出場できないのは残念です。でも、咲夜はコンテストのために、精一杯やってきました。その期間はきっと、咲夜だけじゃなく、僕たちにとって、かけがえのない時間になりましたから。もちろん。それはこれからも続いていくものだと思いますし、コンテストがゴールではないですから」
陽子の目に映る洸は、生き生きとしており、屈託のない笑顔と、混ざりけの無い純粋な言葉で彩られており、何処までも輝いて見えていた。
「洸くんは、大人になったわね。でも、変わらない所もあって、あの子が信頼するわけね」
「信頼なんて、そんな」
洸は、思わず視線を自らの膝の上に置いた缶コーヒーに落とす。
「本当にありがとうね。出来れば、これからもあの子と、仲良くしてあげてね」
陽子は、一人一人に微笑みを向けて、交わらせた視線から、信頼と誠実さを受け取り、胸を撫でおろした。
ーーー 病院から帰り、三人は喫茶店で、コーヒーの薫りに身を委ねていた。
「まぁ、とりあえず、元気そうで良かったって事で、いんだよな?」
尚人は、洸と神影の表情を探り探りにそう問う。
「うん。でも、二人も知っている通り、咲夜は余命宣告を受けて、奇跡的にその先の今を生きている。言ってしまえば、今、こうして生きる一瞬一瞬が奇跡で、未知で、いつ病魔が咲夜に迫る来るか分からない。毎日、毎日、当たり前のように一緒にいて、忘れかけていたのかもしれないね。あんまり言葉にはしたくない。でも、いつ、最悪が訪れてもおかしくないんだ。だから、そう思っていてほしいんだ。心の準備だなんて、口で言うのは簡単だけどね」
ティースプーンを回しながら、淡々と冷静に分析する洸の表情は、二人にとって未だ見たことのないような、深刻なものだった。
「洸くんは、ずっと昔から、そんな恐怖を抱えながら、生きてきたんだね。凄いね。強いよ。私だったら、心を擦り減らして、もしかしたら、距離をとっていたかもしれない。だから、本当に凄いと思うよ」
神影にも、その最悪がいつか来るものだと、心の隅には居座っていた。それでも、まだリアル感の無かったソレが、こうして目の前に現れて、行き場のない苦痛となってのしかかっていた。
「ううん。凄くなんかないさ。僕だって、神影の言った通り、逃げたいと思った事があったんだ。でもね。一番辛いはずの咲夜が、一番怖いはずの咲夜が、何事もないような顔で、何事もないように生きていた。だから、僕が弱気でいる事の方が、いつからか苦しくなって、今はこうして、平常心で居られるように、コントロールできるようになったんだ。それが、良い事なのか、悪い事なのか、僕には分からないけど、少なくとも、咲夜には心配をかけたくない。不安に駆られて欲しくない。その想いだけが、確かだったから」
飲み慣れたブラックコーヒーに落とし込んだ表情に映る洸の表情には、笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、頑張らないとだな。コンテストまで、時間がありそうで、無かったりするからな」
「…………え?」
数拍置いた洸の呆け顔に、やれやれと小さく顔を左右に振る尚人。
「だから、咲夜がコンテストに出れない今、代打になるのはお前だろ? まさか、忘れてたわけじゃないよな? お前だって、原稿を書いてた訳だし」
「…………え? …………あ」
洸はそこでようやく、自分の置かれた状況を理解する。
「その反応。おいおい、大丈夫なのか? 言っておくけど、今更、俺は代打は無理だからな! 俺は、スタメンで出て、結果が出るタイプだから!」
「そもそも、スタメンにすら入っていないんだから、そんな、自信満々に言わないでちょうだい。洸くん。私たちもやれる事は少ないけど、精一杯サポートするから、頑張ろ! ね!」
「み、神影。あなたは、どこぞの誰かさんと違って、聖母のようだ………」
洸は祈りのポーズで、大袈裟に崇めてみせる?
「まぁ、乗りかかった船って奴だよな。仕方ない。俺も、静かにする事で、邪魔にならないようにサポートするわ!ま、その船が豪華客船と祈ってだけど」
「ねぇ、知ってる。豪華客船でも、予期せぬ事態に陥れば、沈没しちゃうんだよ。尚、それでも君は、一緒に沈んでくれる?」
洸は、目のハイライトを消したかのように、淀んだ目で尚人を見つめる。
「そうだよね。乗りかかった船というなら、最後まで付き合ってくれるんだよね? よね?」
洸を真似て、神影もまた尚人に視線を向ける。
「あ、俺、死んだわ。母さん」
尚人はそう、シーリングファンの回る木組みの天井を見上げて、悟るのであった。
ーーー その日の夜。洸は、自室で小学生から使ってきた、勉強机に向かっていた。
机の上には、原稿用紙と、バックナンバー、辞書、メモ帳が広がっており、器用にシャープペンシルを指で回しながら、洸は頭を捻らせていた。
病院から帰宅し、夕食と入浴時間以外を、そんな生産性のない時間で浪費し、見続けていたせいで、字列が異世界語のように、暗号化して脳に焼き付いた。
「あー! 休憩! 頭がプードルになりそうだ!」と、使いすぎた頭で、バルーンアートのプードルを、浮かべて背もたれに凭れ、天井を見上げた。
それでも頭の血の循環はスムーズにならない。
そのため今度は、すっかり秋の空気となった外気を取り込むために、窓を開けて、住宅街の温かな明かりの灯った景色に視線を落とした。
洸は、左端から順に、視界に入る家々を眺め、そこにある一つ一つのドラマを想像する。
近所であるため、見知った顔ばかりではあったが、内情までは深くは知らない。
そんな内情に無粋な想像を浮かべて、そんな自分を嘲笑うかのように微笑み、とある一つの民家で目が止まる。
そこは他でもない、咲夜の家。
小さい頃からよく遊びに行って、家族ぐるみで中の良いその家庭は、他の民家とは違い、深く知っている希少な家庭だ。
洸は、今はそこに居ない咲夜の姿を浮かべる。
幼少期、互いの家を行き来して、毎日飽きずに遊び呆けた日々。
本を読んで、ゲームをして、アニメを観て、そんなありふれた幸せが確かにあった事を、その景色の中で掴み取った洸は、何かを閃いたかのように、窓を閉め、外部とシャットダウンするかのようにカーテンで覆って、本棚の一番下の段、他の段よりも縦幅の取られたそのスペースに置かれていた、一冊のアルバムを手に取った。
そこに刻まれているのは、咲夜との思い出の日々。
特別な事は無かった。日常を切取って貼り付けただけのそんなアルバムだった。
それでも洸にとっては、紛うことなく宝物と呼べる代物だった。
何度も見返したそのアルバムにまた目を通す洸。
その中の一つ一つの思い出こそ、鮮明に浮かぶことはないけれど、洸にとって、その瞬間が目視できる形で残っている事が、この上ない事だった。
同じ笑顔でも違う笑顔。そんな笑顔ばかりが並んでいる写真の中で、洸ふと、ある写真に目を止めた。
それは五歳の頃の写真。洸が、顔を崩れるほど大泣きをしていて、その隣の咲夜が驚いたように、目を大きく見開いている写真だった。
この写真には、洸は覚えがあった。
咲夜が検査のため入院するという話を、幼い洸は、入院という言葉だけを受け取り、暫く会えない、もしかするともう会えないかもしれないを、入院とイコールとして、ついには泣き出してしまったのだった。
入院という物に馴れてしまっていた咲夜は、予想外の反応に驚きつつも、かけてくれた言葉を洸は覚えていた。
「大丈夫だよ。すぐに帰ってくるから。だから泣かないで」
当人がそう不安を見せずに言い放つものだから、自分が恥ずかしくなった洸は、それからは考えを改める事にした。
咲夜の前では泣かない事、弱さを見せない事。
それを機に、泣き虫だった洸は消え、現在に至る。
そんなまだ、セピア色に染まるには早い思い出を、写真越しに映した洸は、静かにアルバムを閉じると、「よしっ」と気合を込めて、再び机に向かった。
ーーー それから三人は、週に二日を目安に、咲夜の見舞いを訪れる日々を送っていた。
十月に入り少し、十一月のコンテストまでのこり一ヶ月を切った頃、その日は洸が一人で、病室に訪れていた。
「もうすぐコンテストだね。流石にまだ、緊張はしてないよね?」
咲夜には、ここ数日で変化があった。それは、洸に対しての言葉遣いだった。
まるで昔に戻ったかのように、柔らかく鳴らす声に、洸もいつも以上に頬を緩めている。
「うん。流石にね。それでさ、今日はお願いがあって来たんだ」
「お願い?」
洸は、鞄から数枚の紙を取り出して、ベッドの上に架かったテーブルの上に置いた。
「これって………」
「うん。そうだよ。コンテストで主張しようと思っている原稿だよ。これを咲ちゃんに読んでほしいんだ。それで、感想と、それから意見を貰おうと思ってさ」
洸の申し出に咲夜は、少し戸惑いつつ原稿を手にする。
「私なんかに、意見できる事はないと思うけど……」
「ううん。そんなこと無いよ。咲ちゃんに読んで欲しい。正直、そっちが本心というか、なんというか」
洸は言葉尻をごもらせる。
「そこまで言うなら読むけど、期待はしないでね」
そうして、しばらくの間、病室には、原稿を捲る音だけが響き渡る。
そうして、読み終えた原稿をポンポンとテーブルの上で揃えて、洸に手渡す。
「どう? だったかな」
「うん」
咲夜は、一拍置いてから口を開く。
「直すところは無いと思うよ。ううん。それどころか、こーくんらしいね。これは、こーくんにしか書けないと思うし、こーくんにしか、伝えられないものだと思う。今回のコンテストにはピッタリだね」
最近はよく見せるようになった、白い歯を覗かせた笑顔で、洸に感想を伝える咲夜。
「本当に! ありがとう! 良かった〜、咲ちゃんのお墨付きがあれば、百人力だよ!」
そうやって軽快に笑う洸。その笑顔を見て、咲夜は思いを馳せるようにして、息を吐く。
「こーくんさ。私に言ったよね。笑って欲しいって。自分のために、また、笑った顔がみたいって」
「え? 入部をお願いした時だよね」
「そう。それって、無事にこうして、叶ったわけだよね?」
「うん。それはもう。バッチリ!」
「じゃあさ」
咲夜は、その洸の願いを具現化した笑みを浮かべる。
「私の願いも叶えてくれないかな?」
「願い?」
洸は持っていた原稿をばら撒きそうなほど、その言葉に動揺を見せる。
「うん。コンテストが終わったらでいいよ。こーくん。もう、我慢しなくていい。私の前でも、みんなの前でも、家族の前でも、泣いても良いんだよ。弱さを見せてもいいんだよ。ううん。そうして」
思いがけないその咲夜の願いに、面を食らって、黒目は咲夜を上手く捉えられない。
「私が気づいていないとでも思った。私の次に、私を知っているのがこーくんのように、こーくんの次に、こーくんを知っているのは、私なんだからね」
「咲ちゃん………」
心当たりのあるその感覚に、洸には反論する言葉は皆無だった。
「分かった。僕の願いを聞いてもらっておいて、お断りするのは違うもんね。コンテストが終わったら、多分。ありえない程、弱さを見せるかもしれない。うん。咲ちゃんには、見てもらうから、覚悟しておいてよね!」
そうして、笑みと笑みで交わした約束は、近い将来に果たされる。そう二人は、信じて疑わなかった。
ーーー3日後の月曜日。
「というわけで、もうエントリーは済んでるから、今更、尻込みするんじゃねぇぞ」
千香のその言葉をきっかけで、洸の中で、コンテストという舞台が、いよいよ現実味を帯びて浮き上がる。
「まぁ、コンテストって言っても、全二十校の生徒たちが、各々、言いたい事を言って、何やかんや賞を貰って、お終い。それだけだ。気軽に臨むんだな」
そう飄々と言い残して、千香は部室から去っていく。
それを千香らしい励ましだと捉えた洸は、少し肩にのしかかった重荷を下ろした。
「あ、それと」
千香が去ってから、数秒、再び廊下から顔を覗かせる千香。
「今日は、検査やら何やらあるらしいから、面会は無しな。後は、俺も予定があるから、問題だけは起こさないように。んじゃ」
そう言い残し、千香はひらひらと、手を振って消えていく。
「検査? んなの、聞いてなかったけどな〜。まぁ、今日は、行く予定は無かったからいいけど」
尚人は、椅子の後ろ足でバランスを取りながら、紙パックのバナナミルクを嗜んでいる。
「なんかさ。広くなったよね。たった一人居ないだけなのに」
神影は、部内を一瞥して、アンニュイな笑みを浮かべる。
「まぁ、俺達は、少数精鋭って感じだったからな。一人一人の存在感っていうの? だから、一人とはいえ、その穴は大きさは、計り知れないってやつなのかもな」
尚人は、一人サーカスをしながら、横目で空いた席をちらりと見やる。
「なんか、嬉しいな。二人がそう思ってくれてるの。ほら、咲ちゃんて、特殊だからさ。学校でも、あまり馴染めてなかったでしょ? まぁ、咲夜から離れていたというのもあるけれど、だからさ、こうして受け入れて貰えてるっていう事が、それだけで、この部の存在意義になっていると思うよ」
菩薩のように柔らかい微笑みで言い放つ洸。
「お前、保護者みたいなこと言うよな。たまに」
「うんうん。分かる」
神影が尚人の言葉に同意するように、二度頷く。
「嘘? そんな母性丸出しだった?」
「いや、母性とは違うんだよなぁ。なんというか、咲夜に対して甘すぎる。凍ったスポーツドリンクの、最初の一口くらい甘すぎる」
「あぁ。あれは確かに甘いよね。ジャリジャリのシャーベット状になった瞬間が、冷凍スポーツドリンクの本気って感じするよね」
「おい。話を逸らすな」
「いや、尚が最初に脱線させたんだろ? 気の利いた事を言おうとした結果」
「そう思うなら流せよ!」
咲夜が居なくとも変わらない。そんな軽快な日常が言の葉部にはまだ残っていた。
ーーー 咲夜の病室。いち早く退勤をした千香が、窓縁に腰を預けて立っている。
「それで? 俺に何か用なのか? 」
千香が退勤した理由は、昼間に、咲夜からの呼び出しを受けていたからであった。
「はい。すみません。忙しい中、来ていただいて。その、みんなには?」
「ああ。適当に理由をつけといたから、今日は来ないだろうな」
「そうですか」
咲夜はホッと胸を撫でおろす。
「それで? 一体何なんだ?」
「はい。実は。先生にお願いがあるんです」
「お願い?」
ーーー 水曜日。三人は病室へと顔を出していた。
洸は、黙読で原稿を読み込んでおり、尚人は、漫画をぺらぺらと捲り、神影は、馴れた手付きで林檎の皮を剝いていた。
「あのさ。貴方たち。ここを何だと思っているわけ? ここはね。病院といって。身体の弱い人が、静養している場所なのよ。部室とは、わけが違うの」
まるで、部室のワンシーンを切り取ったような光景に、思わず咲夜はため息をついた。
「でも、嬉しそうだよね、咲ちゃん」
洸は珍しく、悪戯っ子のように微笑む。
「別に嬉しくないよ!」
その砕けた咲夜の言葉と声色に、一斉に顔をあげる神影と尚人。
咲夜もしまったといった表情をして、咳払いをする。
「別にいいのに。私達の前でも、そうやって、仲睦まじく、会話をすると良いよ」
「いや、そういう訳じゃないし」
咲夜はあくまでもポーカーフェイスを貫く。
「いや、はっきり言ってやれよ。俺達は気にせずに、イチャイチャしてくれて構わないと」
「本当に、頭がピンク色で困るわ」
咲夜は、尚人の指摘に、すっかりと冷静さを取り戻す。
その様子を暖かく見守る洸。
ーーー 昨日。三人は、陽子に呼び出され、咲夜の自宅に来ていた。
「ごめんね。二人は、近くでも無かったのに、わざわざ来てもらって」
陽子は、白く細い指先で、三人の前にティーカップを置く。
「それで陽子さん。お話というのは?」
そう切り出した洸も、他二人も、話の内容は、咲夜に関する事だとは理解していた。
「みんなには、ハッキリと伝えて起きたいと思ったの。咲夜の容態は、今は落ち着いていると言えるけど、正直、芳しくはないみたいでね。日々、心臓の動きが弱まっているみたいなの。つまりね、いつ、その時が来ても、おかしくは無い状況でね。みんなには、覚悟をして貰いたいのよ」
三人は何処かで勘づいていた。そういう話なのだろうと。しかし、実際に、音となって鼓膜にまとわりついたその言葉は、思考を奪い、現実が現実ではないような、不快な感覚に陥っていた。
「急な話で、混乱しちゃうかもしれないけれど、ごめんなさいね。理解してほしいの」
何か言葉を返すべきなのだろう。そう、誰もが思ってはいたが、浮かぶ言葉は一つとして無かった。
無音が、痛みを帯びて、音のない悲鳴となって、三人にのしかかる。
今すぐに逃げ出したいと思う様な現状に、耐えるように、溢れてしまいそうな感情を堪えるように、三人は強く体を硬直させて、一時的にでも、その悲痛が和らぐ瞬間を待つ。
「ありがとう………ございます。教えていただいて」
そんな中、なんとかその言葉を声にした洸は、陽子の顔を見ることは出来ずに、深くお辞儀をする。
二人も洸に習うように、膝に頭がつくほど深く頭を下げる。
「ええ 」
陽子はそうか細く返答する。その返答を受けた洸は、これ以上、この場に留まる事に耐えられなくなり、ゆっくりと立ち上がる。
「それでは、僕たちはこれで。本当に、ありがとうございました」
洸はもう一度お辞儀をして、玄関へと向かい、フローリングが羽毛布団のように、柔らかく感じられる足取りで、何とか足を動かす。
二人もまた、洸に続くようにして、自分のものではないような感覚を帯びた足を、なんとか動かして敷居を跨いだ。
ーーー咲夜宅からの帰路。洸は、二人を駅まで送るために、二人の少し前を歩いていた。
家を出た後、誰も言葉を発することはなく、冷たさを帯びた秋風が、その間を縫って、冷えた心を更に凍えさせる。
三人の心情とは似つかわしくないほどの、青空に洸はふぅ〜とひとつ息を吐いた。
「最後まで。僕らしくいたいね」
そしてそのため息について漏れたようなその言葉に、背後の二人は一斉に俯き顔をあげる。
「咲夜だって知っていたはずだ。でも、僕らに何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。なら、僕らは、咲夜の気持ちを汲み取って、鬱々としてたらんないよね。だって、咲夜は生きている。今を生きている。そんな大切な今を、僕らしく、いつも以上にいつも通りに、生きなきゃだよね」
洸はくるりと半回転をして、二人の顔を見合わせる。
「洸………お前……」
そして、洸の言葉通り、変わらない笑顔を浮かべる洸に、尚人は思わず頬を緩めた。
「よし!」
その隣の神影もまた、透き通った頬に両手を張りつけ、気合を入れ直すと、大きく深呼吸をする。
「洸くんの言う通りだね! 私達らしく! 最後の最後まで! それを貫こう!」
そう神影の決意でまた、三人の意識はひとつとなり、同じ方向を見た三人は、同じ歩幅で歩き出した。
ーーー 現在。部室とかした病室で、四人は他愛のない時間を浪費していた。
「あ、そうそう。渡すの忘れてたよ! 見やすいといいんだけど、これ」
神影は鞄から、自らのノートのコピーを手渡す。
「これって………」
「授業のノートだよ。休んでいる間は暇だと思うし、少しでもやっておけば、不安なく復帰できるでしょ!」
復帰。その言葉に異を唱える者も、そもそも抱く者もこの場には居ない。
「ありがとう。これで、復帰後、問題なくついていければ、評価が上がるし、そうでなくても、休んでいたから、という言い訳も出来るし、選択肢の幅が広がったわ」
「そういうところ、ちゃっかりしてるよね」
咲夜のユーモアの含んだ返答に、神影は大きく笑窪を作る。
「うしっと!」
そう会話に一区切りついたところで、病室の時計を一瞥した尚人が立ち上がる。
「わりぃ。俺はそろそろ行くわ。帰りに、お遣い頼まれていてよ」
「それじゃあ、私も。参考書見に行こうと思ってたんだ。洸くんはどうする?」
「うん。僕は、もう少しここにいるよ」
「したっけ。またな、咲夜。洸は明日」
尚人は、咲夜と洸に向けて手を挙げると、背伸びをしながら扉へと向かう。
「なぜ急に、北海道弁? まぁいいや。じゃあ、咲夜ちゃん、洸くん。バイバイ!」
神影も尚人に続いて、右手を紙吹雪のようにひらひらと振りながら、病室を後にした。
残された二人の間には沈黙が訪れ、それでも、二人にとっては、その沈黙も居心地の悪いものでは無かった。
「もうあっという間に、コンテストだね」
咲夜はそう言って、ベッドの横の暦を見る。
「うん。ここまで来たら、あとはやるだけって感じだし、本番はどうか分からないけど、今のところ、緊張する要素は見当たらないよ」
洸は、そんな心のゆとりを、笑みに反映させる。
「流石は部長さんだね。肝が座ってるよ」
「どうかな? 鈍感なだけなのかも」
「フフッ。それはあるかもね」
穏やかに流れる空気が、二人の時間までも緩やかに流していく。
「なんかさ。昨日の夜、ふと考えたんだ。この数ヶ月の事。普通の人なら、ほんの一握りの時間だと思うけど、分母の少ない私にとっては、とても貴重な時間だった。大袈裟に言えば、私の人生史上、最高の瞬間を、日々更新しているような。そんな日々だった。そして、それを、きっと私は、全て伝えられずに、また次の世界に行くことになるんだと思う」
咲夜は窓に流れる夕焼けを見上げる。
「それは、本音を言えばとても怖くて。それでも、そう思える事が嬉しくて、そう思えるという事は、それほど幸せな時間を、生きてこれたという事だから。だから、出来れば、みんなの描く未来図に、私の姿も描かれている事を、祈ってしまうの。私には描く事さえできない、そんな未来図に」
これまでずっと見せてこなかった、咲夜の弱々しげな姿に、洸は、そんな儚い咲夜を奪おうとする運命に憤り、いよいよその日が間近に迫っているかのような不安感に、押しつぶされそうになりながら、柔らかな声色から届く鋭利な言葉に、耳を傾ける。
「これだけは言えるよ。間違いなく。僕も、みんなも、この日常は、これからの未来は、思い出の中には、いつでも咲ちゃんがいる。それだけは、揺るがないし、変わることはない。だから、どんな事があろうと、咲ちゃんは、独りなんかじゃないよ」
洸は、言葉を選ぶことなく、浮かんだそのものを声にして、咲夜に届ける。
そんな純粋な言葉に、洸の優しさを見つけた咲夜は、「うん」と嬉しそうに微笑み頷いた。
その咲夜の表情に、声色に、言葉に、まるで自分の死期を悟ったように感じた洸は、改めて自分の無力さを思い知り、咲夜に見えないように、強く拳を握りしめた。
それから、数十分が経ち、面会のタイムリミットが近づいた頃。
「じゃあ、僕はそろそろ行くね」
「うん。じゃあね」
いつもなら、何の気無しのその挨拶が、今日の洸には妙に切なく感じた。
「咲夜!」
病室の扉付近。洸は不意に振り返り咲夜を捉える。
「ん? どうしたの? 」
「僕は、ずっと………」
相変わらずの眩しい微笑みに、洸は、次の言葉を躊躇い。ついには、違う言葉を発していた。
「ううん。また、来るから!」
そうして、咲夜からの返答を待つことなく、洸は病室を飛び出していった。
その潤んだ瞳を見せぬように。
咲夜との約束を守るために。
ーーー それから一週間が経ち。いつも通り、部室で怠惰な時間を過ごしていた一行。
明日、一週間ぶりに咲夜の顔を見に行こう。そんな予定だけが、言の葉部のスケジュールを埋めている。
そうして、刻々と流れる時間の中、パタパタと廊下を駆ける足音が、いつかのように響いてくる。
三人は、その足音に顔を見合わせ、鼓動を速める。
そして、徐々に近づいた足音が扉の前で止まり、それと同時に勢いよく開かれた扉。しかし、その先にいた千香の様子は、そんな足音から程遠いほどの、目から光が消えたような、深い哀愁が漂うものだった。
「お前ら。いいか。落ち着いて……聞けよ……。今、葉月の両親から電話があって、葉月が昼頃………。亡くなった……そうだ………」
途切れそうになる声を、何とか震わせて、用件を伝える千香。
頭の中の臓器がすっぽりと抜け落ちたかのように、三人の頭はスゥーと軽くなる。
同時に視界が霞がかり、音が遠くなり、現実から引き離された感覚が、三人に共通して襲いかかった。
「う………そ……」
神影は辛うじてそう声に出すものの、それ以上に先に、両の瞳から雫を止めどなく流れはじめた。
次の瞬間、神影の声から響いた悲痛な叫びは、洸と尚人を、現実に呼び戻すのには十分過ぎて、その声を頼りに戻った現実は、どこまでも残酷であり、尚人も思わず机に拳を打ちつけて、熱い雫を頬に伝わせはじめる。
ただただ、心臓から伝わる哀しみに身を委ねて、制御出来ない涙を流し続ける神影と尚人。
しかし、洸だけは、ただ一点を見つめながら、奥歯を噛み締め、絡ませた両手を強く握り、零れそうな涙を何とか耐え続けていた。
千香は、前髪で目元を隠しながらも、三人の動向を見守っている。
それから三十分ほど、鼻を啜る音や、行き場のない悲痛を押し止めるかのように喉を鳴らす音だけの時間が過ぎて、ようやく神影と尚人は視線を上げる。
もうどんなに辛くとも、簡単に涙が流れてくれないほど、ハンカチを水溜りに落としたかのようにびしょ濡れするほど、目を赤く腫れ上がらせ泣いた二人は、自分とは違う、それでもまだ涙を堪える洸に気がついた。
「洸は…………。強いんだな………」
自分とは対象的な洸に、敬意と共に、少しの冷徹さを感じとる尚人。
「うん。約束したからね」
「約束?」
「うん。咲ちゃんと。だから、僕は泣かない。まだ、なくわけにはいかないんだ」
そう拳を震わせながら、無理に笑みを作った様子の後悔に、少しでも、冷徹と思った自分自身を嫌悪する尚人。
「コンテストは。辞退してもいいからな」
そこまで、三人を見守り続けていた千香は、気を遣うように、柔らかい声色でそう口にする。
「いいえ。コンテストには出場しますよ。咲ちゃんのためにも、意志を継いで、僕が出場します」
「一柳………」
千香は垂らした前髪の隙間から、揺らがない洸の眼を真っ直ぐに見据える。
「分かった。お前の意志に任せる。お前らは、もう今日は帰れ。俺が車で送っていく」
そんな千香の気遣いを素直に受け入れた三人は、各々が癒えぬ重いを抱えて、部室から退室する。
ーーー 最後に洸を送り届けた千香は、「じゃあ、何かあったら連絡しろ」と言い残し去っていく。
「洸!!」
車のエンジン音を聞き、玄関の扉を勢いよく開いた、洸の母である、日和は、その勢いのまま、洸に駆け寄る。
「母さん」
「洸。さぁ、入りなさい。コーヒーでも淹れてあげるわ」
「うん。ありがとう。でも、大丈夫」
洸は、小さく微笑むと目向きもせずに、自室へと向かう。
自室の扉を閉め、完全に独りの空間となった部屋は、いつも通りの風景。
それでも、今の洸には、星月夜を描いた有名な絵画のように、暗く渦巻き、陰鬱としていて、微かな明かりだけが、正気を保った洸の心理描写のように映っていた。
洸はベッドに倒れ込む。そして掛け布団で頭を覆うと、声をころして涙を流す。
嗚咽すらも、その唇の隙間から漏れ出ぬように、それを聞かせぬように、見せぬように、シーツに大きな斑点を描いた。