ずっとスマホの画面を見て、ずっと指を動かしていた。ずっと、ずっと、文字をひたすら打っていた。その文字は普段“わたし”が自ら真剣に考え抜き、幾つもの選択肢から納得のいくものを選び取って出来上がった流麗な文章などではなく、小さな脳の端っこだけを占有したかのような稚拙で低俗な文字だった。

 嬉しいことがあれば「嬉しいです」と。
 感謝の意を述べたくば「ありがとうございます」と。
 謝罪の意を述べたくば「ごめんなさい」と。

 小説、という観点に立って見てみたときに、それらはもっともシンプルで、余計な装飾など微塵もない、化粧っ気のないありのままの言葉たちと言えた。

 そんな言葉ばかりを、ひたすら打っていた。



 SNSでの他人とのやり取りは、私をいい意味でも悪い意味でも変えた、今のわたしはそう分析している。

 当時は高校生限定のコンテストに参加していたこともあり、同じ志をもつ同世代の作家仲間という存在は貴重で、また尊敬する作家の方と直接言葉を交わす機会というのも緊張や畏敬の念が渦巻いていた。

 SNSで得たたくさんの作家との繋がりは何者にもかえがたく、当時の私にとっては支えであり、原動力だった。

 だが彼らと交わす言葉は、私が小説の上で紡ぐ言葉に比べれば当然簡略的で日常的なものだ。そして何よりの弊害は、私があまりにもSNSに時間を割いてしまうばかりに、肝心の執筆時間が十分に取れなくなったことである。



 わたしは、だがそれすらも認めていた。現実において立ちゆかないことを経験していく私は、せめてその文字盤の上でだけはわたしでいたかった。

 わたしでいることが、逃げであると同時に救いだった。

 現実が私を圧迫していく。私はその濁流に飲まれ、それでもまだもがきたいと機械仕掛けの板の中に逃げて、わたしとして、ある種の生命を獲得していた。

 いつしか、私は死んでいった。仮想が現実を、わたしが私を侵食してゆくのが気持ちよかった。

 自然と日常生活で笑みが溢れる。その度に、チクリ。
 誰かと言葉を交わして、くだらない言葉を忠実に明確に拾って狂ったように笑う。その度に、プスリ。
 どんな些細な言葉も決して聞き落とさず、必ずそれと対峙する。その度に、グサリ。

 その度に、バタリ。外の世界の誰もが見ていないところで、私は何度も死んでいく。
 だがそのことを、わたしは少しも悪びれないどころか愉快そうに笑っているのだ。

 ああ、また死んだね。私はまた死んだね。
 でもね、もうこれからはわたしが生きていくから。
 だから私は、ゆっくりおやすみ。

 うんそう、私は死んでしまった。
 だから今は、彼女の代わりにわたしがこの文章を綴っている。