あの人と私が初めて出会ったのは、私の生まれ育った小さな町。
あの時8歳だった私は、初めて1人で町に降りてきて、有頂天になっていました。いつも(はぐ)れてはいけないからと、親と離れることなく訪れていた、何でもある魔法のような場所。そこに初めて1人で来て、自由に動いて良いと言われたの。舞い上がるような心持ちで、小さな町をあっちこっち飛び歩いたのを覚えているわ。ほら、贈り物の包みを開ける時の、あの心躍る感覚、と言えば良いのかしら?
そんな風にるんるんと町を歩いていた私が目にしたのは、意外なものでした。
ぱりんと音がしたので振り向くと、道端の小さな屋台の前で、粉々に割れた丼を拾おうともせずに、狐のお面を被った女の人が立ち尽くしていたんです。
顔も名前も分からない、おまけに町で見たこともない人が呆然と立っていたら、普通の女の子は恐怖を覚えて目を逸らすでしょうね。当時の私もそう思ったわ。でも何故かしら、糸で引っ張られるみたいに、私はその人の方にゆっくりと歩いて行ったの。
声を掛けても、その人はぴくりとも動きませんでした。何かぼそぼそと呟いていたけど、私ではなく、その人の足元にいた白い犬に話しかけているような気がして、奇妙に思ったわ。もう一度声を掛けてみると、やっと私と彼女の目が合いました。狐の面の奥に覗く、吸い込まれそうに透き通った瞳を、今でもよく覚えています。その瞳が優しく微笑んだように見えて、小さかった私はやっと安心して息を吐きました。
縁石に腰掛けて待っていると、彼女が割れた丼を片付けて戻ってきました。最初の私の声掛けを無視してしまったことをお詫びしてきた後、自分の名前、犬の名前、あ、そうそう、犬が他にも2頭、木の上に座っていたのを見た時には吃驚したわ。そして自分が戦った「妖」の話をしてくれたの。小さかった私には、まるで何かの御伽噺や武勇伝を聞いた時みたいに、その話は微かな恐怖と共に、全く知らなかった世界を見せてくれたようで、心が躍ったのを覚えているわ。
そんな話を、暫く続けた後だったかしら。鋭い顔つきの小さな鳥が飛んできて、彼女の腕に止まりました。それが伝書鳩のような役割を果たしていた隼だというのは、その時に聞いたの。
隼は彼女が手紙を受け取ると、あっという間に去っていきました。
手紙の内容は、私が、いいえ、きっと彼女自身も、予想だにしていなかったものでした。彼女のお友達が、妖に殺されたというのです。そしてその手紙は、彼を殺した妖を、彼女が討伐するようにという命令書でもありました。これは後から聞いた話なのだけど、正しくはお友達というより、同じ組織に入っていた同期で、相棒みたいな間柄の方だったみたいよ。
彼女は手紙を読んだ後、震えながら蹲っていました。私もその隣で震えていました。先ほど御伽噺のように聞いた「妖」の存在が、今目の前にいる人の大事な人を奪って行ってしまったのですから。
何分経ったのか、分かりません。ただそっと、彼女の背中に手を当てると、突然彼女は小さい子供のように声を上げて泣き出しました。
彼女ぐらいの年齢、その時16歳と言っていたかしら、そのくらいの人が声を上げて泣くのを初めて見た私は、何かまずいことをしただろうかと狼狽えてしまったわ。今ならわかるけれど、きっと張り詰めていた心がふっと緩んで、押さえつけていた気持ちをやっと表に出すことができたのね。
そうやってひとしきり泣いた後、彼女はしっかりと顔を上げて、妖の討伐へ向かっていきました。
別れ際、「さっきはどうもありがとう」って、綺麗な金平糖が入った袋を手渡してくれました。向かいの店に売っていたのだと教えてくれて、素敵な秘密を教えてもらったような心持ちになったのを覚えています。
くしゃっと頭を撫でられて顔を上げると、狐のお面の奥に、悪戯っ子のように微笑んだ目が見えました。

その後、私と彼女、というより彼女たちが再会したのは、そうね、彼女たちが任務へと旅立って2ヶ月ほど後のことだったかしら。私が彼女を「命の恩人」と呼ぶきっかけとなった、あの出来事が起きた日です。
この話は、貴方にも話したことがあるわね。そう、妖に山の中へ攫われて、殺されそうになったところを、彼女とオオカミたちが助けてくれたの。えぇ、オオカミよ。私も最初は犬だと聞いていたのだけど、そう言った方がまだ町を歩きやすいので、犬で通していただけだったみたい。犬ってこんなに大きいものだったかしらと首を傾げた私に、彼女がこっそり教えてくれたの。
そう、そのオオカミたちの中にいたのが、狼鬼(ろうき)。狼鬼は鬼の血筋だから、他のオオカミよりもかなり長生きなんですって。だから私が狼鬼のことを彼女から頼まれて、今もずっと一緒にいるんだけどね。あら、もう知ってる?まぁ小さな頃からずっと一緒にいるんですもの、狼鬼から聞いたことがない方が不自然かもしれないわね。
そうそう、さっき話した、私と彼女が初めて会った時に隣にいた白い犬。あれも狼鬼よ。あの時は小さくなっていたから、私、山の中で狼鬼の顔を見るまで、同じ仔だって気づかなかったわ。

あぁ、私が助けられた夜の話の続きだったかしら。貴方は私から散々聞いているかもしれないけど、彼女、すごく強かったの。だからオオカミと協力して、あっという間に妖を倒してしまったわ。
その後すぐに、私のところに走ってきて私を抱きしめてくれたのには驚いたのを覚えているの。あの時の私は、彼女は強くて真っ直ぐで、優しいけれど、人と進んで関わったり触れ合ったりする人には見えなかったから。
「今回は間に合って良かった」
って言っていたけど、今回ってどういう意味かしらと、私は彼女の腕の中で首を傾げていました。その時はまだ、彼女が妖に家族を殺されていたのを知らなかったから、お友達のことを言っているのかな、なんて薄ぼんやりと考えていたものです。まぁ、それも間違っていなかったんでしょうけどね。
私に怪我がないかなどを確認した後、彼女は私を家まで送ってくれました。オオカミの背中に乗って、薄暗い小道を歩いて帰ったの。
そこで、私は彼女に一番聞きたかったことを聞きました。
「どうしてお姉さんは、狐のお面をしてるの?」
と。今思い出すとゾッとするわね、子供の素直さって恐ろしいわ。
彼女も私の直球な質問に少し驚いたようだったけど、何よりオオカミたちが慌てていたのを覚えているわ。でも彼女は焦るでも隠すでもなく、正直に教えてくれました。彼女の声が震えていたのを、鮮明に思い出します。彼女が言うには、妖の始祖を倒した「最終決戦」で顔に怪我をして、人に怖がられることが多いから隠すようになったとのこと。その話を聞いて、私は首を傾げました。別に悪いことをして怪我をした訳ではないのに、どうして隠す必要があるのかしら?って。勿論いま考えれば、人に怖がられる、それは則ち、町を歩いたり店に入ったりするのに少なからず弊害があったのでしょうね。
その時彼女は言っていなかったけど、何年か後にオオカミたちが教えてくれたの。彼女が狐のお面を被るようになったのは、彼女が鏡などで自分の顔を見た時に、最終決戦の凄惨な記憶が蘇るから。それから、最終決戦後、彼女が動けるようになって最初に町に行った時、入った店の人に「顔にそんなに大きな傷のある女が堅気の人間な訳あるか」って言われて、思い切り殴られてしまったからだそうです。幸いその時には例の相棒の方が近くにいたから大事には至らなかったみたいだけど、彼女の心には深い傷が残ったことでしょう。
あぁそうだ、相棒さんと言えば。私と彼女たちが出会って数年たった頃かしら、彼女が私の家を訪ねてきてくれたの。その時に、私、彼女の相棒さんの話を聞いたのよ。
「お姉さんのお友達って、どんな人だったの?」
「友達?...あぁ、弘ね。良い奴だよ。私と妹と同じ時期に組織に入ってね、それからずっと一緒だったんだ。」
「弘さんって言うの?」
「うん、藤宮(ふじみや)弘。ヒロってあんまり聞かない名前だよね、私、最初は渾名だと思っていたよ」
「確かに」
「本人も言ってた、いつも渾名と間違えられるんだって」
少し寂しそうに、でも楽しそうに、愛おしげに話す彼女は、本当に素敵な相棒さんを持ったのでしょうね。
「お姉さん、弘さんのこと好きだったの?」
「好きっていうのは、恋愛的な意味で?」
「うん」
「...どうだろうな、あの時は考える余裕も無かったからなぁ」
うーん、と唸った後に、彼女は少しはにかんだように笑いました。
「でも漠然と、もしもこの先、妖のいない平和な世になって、そこで2人共生きて行けたなら、その時私の隣に居るのは弘なんだろうなって、思っていたよ」
わー恥ずかしい、忘れて、って等身大の少女のように照れる彼女は、なんだかいつもより親しみを感じて、可愛いなって思ったわ。忘れて、と言われてたのに、しっかり覚えているものね。しかも貴方にもきっちり話しちゃった。
最初に、私は彼女の一割も知らないって言ったわね。
知らないけれど、分からなかったけれど、明白に分かったこともあります。
彼女は確かに、強くて真っ直ぐで優しい人でした。でもそれ以前に、1人の少女で、懸命に生きた1人の人間であったということ。
彼女が最後に私と会って話した時、16歳になっていた私の頭をあの時のようにくしゃっと撫でて、彼女が優しい笑顔を浮かべたのを覚えているわ。
「あの時声を掛けてくれたのが、千歳で良かった」
って、彼女は確かにそう言っていた。
ねぇ、私はほんの少しでも、お姉さんの、ハルさんの心を救うことができたかしら?って、私はたまらなくなって訊いたの。そしたら彼女、どうしたと思う?
私の不安げな顔を見て、にっと笑って、千歳にはもう何回となく救われてるよ、と自信に満ちた顔でそう言ったのよ。
「私もハルさんみたいな人になりたいなぁ」
それは私が本心から放った言葉だったけど、彼女は少し困ったように眉を下げて、首を横に振りました。
「私みたいな人にはならないでくれ、頼むから。千歳には幸せに将来像を夢見ててほしいなぁ」
「将来像?」
「明日死んじゃうかも、なんて考えずに、10年後の未来を当たり前に想像できる世界で生きて欲しいなってこと」
「ハルさんには、将来像、ないの?」
「どうだろう。勝と煌もいなくなっちゃったから、狼鬼とのんびりするかな」
彼女はまたも困ったように笑っていたわ。
「ねぇ千歳」
声を掛けられて顔を上げると、どこか悲しい光が宿った瞳が私を真っ直ぐに見つめていました。
「私が死んだらさ、千歳は生きて、色々なこと経験して、お土産話どっさり持ってきてよ。のんびり向こうで待ってるからさ」
「何ハルさん、縁起でもない」
「縁起でもなくても、大事なことだよ」
悪戯っ子のように笑った彼女の微かな違和感を、私は愚かにも見過ごしてしまったのね。

彼女が亡くなったことを知ったのは、それから僅か3ヶ月後のことでした。
「私が死んだら」というのは、こんなにすぐのことだったのか。姉のような、師匠のような、そんな恩人を喪って、私は絶望の淵に突き落とされました。
彼女は自分の最期を、どこかで勘づいていたのかもしれません。
しばらくして狼鬼が私の家にやってきて、最初に言った言葉を、今でも克明に覚えているわ。
《お面を被っていないハルを知っているのは俺とお前ぐらいなんだから、しっかり覚えておいてやろうな》
って。お面を被っていない、というのは、「妖討伐の白狐面の少女」を演じていない、峰本(みねもと)ハルということ。
それを聞いた時、何か夢から醒めたような心地がしたのよ。そうね、月並みな例えだけど、彼女が亡くなってから白黒だった世界が、少しだけ色を取り戻したような。一気に元通り、完璧な色鮮やかさとはならなかったけど、それから少しずつ鮮やかな世界が見えるようになったような気がするわ。

あれから色々なことがあって、私ももう大人になって、たくさんの人と出会って、たくさんの人と別れてきたわ。
でもね、時間って、生きるって、そういうことでしょう?
悲しいこともあるけれど、確かに幸せなことだってあったじゃない。
例えば、ね。彼女に出会えて、貴方のお父さんと出会えて、貴方に出会えて、貴方のお父さんが、戦争から生きて帰ってきてくれた。「幸せだな」って思える瞬間が数え切れないほどあったわ。
嗚呼、生きるのって、素晴らしいことね、そう思わない?和人(かずひと)
え、貴方の名前の由来?
あら、前にも話したわよ。もう一度聞きたいの?
和人の「和」は、和やか、穏やか、そして平和。
和やかで、みんなを幸せにできる人になりますように。
それから、何よりこの子が、穏やかで平和な世界で生きていけますように。
そんな願いを込めて付けたのよ。

随分と、話が長引いてしまったわね。
さぁ、ご飯にしましょうか。
お父さんももうすぐ帰ってくる頃じゃない?

貴方が帰ってきたって知ったら、きっと吃驚して、それ以上にすごく喜ぶわよ。
ねぇ、狼鬼。そう思わない?