タッタッタッタッタ!
階段を駆け降りる音と、激しい息切れだけが響く。
今、二つ目の螺旋階段を降りている。
つまり、此処を降りれば、ノールの居る第三階層である。
徐々に下の方から、途轍もない悪臭がしてきた。
こんな匂いが充満している部屋で、将来永劫監禁されて死んでいった人々の事を思うと、サラナは心を痛めた。
しかも今いる所は階段なので、第三階層自体は、此処よりも悪臭が漂っていると考えると、吐き気を催す。
だが今までの自身の行動を考えると、益々心が痛んだ。
自分は今まで、こういった現状から目を背け、見て見ぬ振りをし、その第三階層という地獄を碌に知らずに、そこにいる人に対して、少しばかりの優越感を感じていた。
自分はそこまで腐った人間であったのだと、サラナは悟った。
「自分だけは奴隷とは違う。」
勝手にそう思い、そういった自己暗示をかける事で、精神安定を図っていたのだろう。
呆れる。
そんな自分に。
だが、「今の自分はその時の自分とは違う」と言いたい。
ミロルやグリリア、そしてエルダに会った今、その昔の価値観や倫理観が変わっていたら良いと、サラナは切に願った。
「うっ………………っ!」
グリリアが吐き気を催した。
第三階層に到着したのだ。
酷い。
眼前に広がるのは、ヘドロに塗れた壁や天井。
そこら中に残る血痕。
激臭。
よく見ると、頭蓋骨や何処かしらの骨が落ちていた。
グリリア曰く、それらは人骨だったらしい。
恐らく、飢えを凌ぐために此処にいた奴隷達が、死んだ奴隷の死体を食べた時の食べ残りだろう。
それに加えてこの激臭。
気を抜くと直ぐに吐瀉してしまいそうになる。
ノールが居るのは、此処の最奥だった。
急いでこの場から出たい。
その一心で二人は、最奥まで全力疾走した。
最奥の壁が見えてきた。
そのまま走り続けると、右方に、人影が見えた。
ザッと足を止め、少し後退するとそこには、両腕を手錠で縛り上げられた女性が囚われていた。
服は麻で作られた布を一枚巻いただけで、髪はボサボサ。
体の各部位に殴られた形跡が見られ、その杜撰過ぎる扱いに、思わず目を背けそうになった。
グリリアは動きを止めた。
見ていられなかった。
あんなに綺麗な城の下に、こんな物があっただなんて。
グリリアは、愕然とした。
「…………グリリア!! 早くして!!!!」
そんな事をしている間にも、サラナは既に、牢を開錠していた。
手には、グリリアのポケットに入っていた筈のマスターキーがあった。
「す、済まない。」
グリリアはそう言って、サラナに続き中へ入った。
「…………貴女が、ノール・ルリですか?」
サラナが、その女性に訊いた。
その女性は、細い腕で地面を必死に押しながら上体を起こした。
「……………………はい……………………そうですが。」
掠れた声だった。
元気など微塵も感じられない。
聞き取るのでやっとの、消えそうな悲痛な声。
「私はサラナです。貴女を助ける為に来ました。」
そう言った後、サラナはマスターキーを、女性、ノールの手錠の鍵穴に差し込んだ。
「……………………あれっ?」
開かなかった。
「………………まさか……?!」
このマスターキーは、“牢を開錠する為の鍵“であり、この手錠には対応していなかった。
「サラナ、どうするんだ?」
震えた声で、グリリアは訊いた。
「簡単な話、今から戻って、この地下牢の何処かにいる看守から鍵を奪う。」
そう言い捨てて、グリリアの返答を待たずに、サラナは此処を飛び出した。
「グリリアはその人を見ておいてくれ!」
その言葉を最後に、サラナは行ってしまった。
いつの間にかグリリアは、この悪臭に慣れていた。
普通に息を吸い、普通に話していた。
慣れって怖いな。
そんな事を考えていた時だった。
「私が、此処に来たばかりの時でした。」
突然ノールが、話し始めた。
「娘を置いて出たものですから、今は無い腹の傷などとうに忘れて、ただただ娘の無事を祈りました。母として、何も、母らしいことが出来ずに別れてしまったものですので。せめて生きていて欲しいと。
そういや元々、此処にはもう一人の女性が入っていたのですよ。名前は確か…………ブロウド・スクリでしたっけ…………」
「………………えっ?」
ブロウド。
忘れもしない。
グリリアの愛妻の名前。
「彼女はいつも気さくで。こんな薄汚れた私にも、話しかけてくれました。
ブロウドさんも美人であったが為に、度々呼び出されては、ボロボロになって帰って来ていました。けれども彼女は、そんな辛さを隠しました。私を心配させたく無かったのか。彼女は優しかったのです。
そんなブロウドさんは、彼女の夫の話をしている時が一番楽しそうでした。『私の夫はね…………』そう言い出す時点で、彼女の口角は緩み、笑っていました。
羨ましかったのでしょう。
いつしか私も、彼女に娘の事を明かしました。彼女は、『大丈夫、大丈夫』と言って、私の背中を摩ってくれました。
彼女はとても優しかった。
ですが…………………………」
ノールの面持ちが急に暗くなった。
グリリアは、色々と混乱していた。
そんな中、ノールは告げた。
「彼女は、いつものように連れて行かれた後、貴族に殴られて死にました。」
「……………………………………」
グリリアは黙り込んだ。
ブロウドが死んだ?
貴族に殴られて死んだ?
「その後その死体は、私の入っていた牢。つまりこの牢の中に捨てられました。
私は泣きました。
ビルクダリオに生まれたから。
この様な不条理な死に方をしてしまったのだと。
許せなかった。
ですが私には、何の力も無かった。
故に私は、自分の飢餓を満たす為、彼女の死体を食べました。
美味しく無かった。
あまりにも美味しくありませんでした。
あんなにも美しい人が。
あんなにも素敵な人が。
あんなにも私の事を信頼してくれたのに。
弱い私は、娘も守れず、友人も守れず、ましてやその友人を食らった。
今でも覚えています。
あの時の食感。
絶望。
食欲とはまた別の、心の飢餓感。
虚無感。
食べ切った時。
その残った頭蓋骨を見て、私は泣き叫びました。
自分を嘆きました。
その頭蓋骨を両手で抱きながら。
ですが手が滑って、廊下にその頭蓋骨が行ってしまいました。
そうだ。彼女はもう、自分の、手の届かない場所に逝ったのだと。自分の弱い力では、この圧力に勝てず、頭蓋骨に触れることさえできない。
…………………………………………………………
」
ノールは、大粒の涙を流した。
グリリアは牢を飛び出て、牢の前にあった頭蓋骨を持ち上げた。
「………………お前……ブロウドなのか………………?」
――――――――――――――――――
「グリリア! 鍵奪ってきたぞ!!!!」
第三階層の入り口でそう叫んだサラナの眼前に写っていたのは、薄汚れた頭蓋骨を抱き抱えながら地面にへたり込み、虚空を眺め続けるグリリアの姿だった。