ミロル・ルリ。
それが、少女の名だった。
歳は五歳の、所謂、路上生活女児であった。
四歳の頃、彼女は母を失った。
カルロスト連邦国の王政に、奪われた。
66話「少女の記憶」
ミロルは、旧ギャリグローバ共和国地区とジズグレイスの間に位置する、旧クロルミル王国地区に生まれた。
ミロルの母は、クロルミルでも、有名な人物だった。
容姿も整っていて、スタイルも良い。
おまけにフレンドリーで、コミュニケーション能力が高い。
この一帯で母を知らない方が、可笑しかった。
当然、それだけ有名だから、その噂は、中央都市の方にも、知れ渡っていた。
父は、母の妊娠が発覚して直ぐの時に、攫われ、サルラス帝国へと売られた。
なのでミロルは父の顔を知らず、母もわざわざ、父の話をしなかった。
あまり思い出したくなかったのだろう。
だが、当然、教育施設も何も無い此処でミロルは、“父親”という物の存在すら、知る事は無かった。
クロルミルは、ギャリグローバとジズグレイスと接している事もあって、ギャリグローバ程では無くとも、連邦国内でも特に困窮に陥っている地区の一つであった。
なので、ミロルのご飯は、いつも母が市場から盗んでくる、岩のように硬いパンと、市場から盗んだ腐りかけの野菜。
全て、泥だらけの手で貪り食い、水分摂取は、溜めた雨水か、ジズグレイス付近にある水道管から漏水する泥水で行っていた。
ずっとこんな場所で生活していたからか、自然と体も強くなり、病気になる事も少なくなった。
幸い此処では、野菜も食べられる。
なので、一応栄養は偏っていない。
肉や卵は食べられないが、抑もその存在すら知らないミロルにとってそれは、特に必要で無かった。
そして、ミロルが三歳になった時。
突然母が、「引っ越す」と言い出した。
未だ知性と云った物が身についていなかったミロルは、母がそう言った理由を理解出来なかったが、あの事があった後の今なら解る。
そうしてミロルと母は、中央都市から逃げる様に、東北東の方角に移動して行った。
大して大事な荷物が無かった為、移住は楽だった。
ほぼ手ぶら状態だった為、ただ歩いて、小さな空き地を探して、そこに棒と布で雨を防ぐ屋根を作って、その上で寝る。
それを繰り返す内に、いつの間にか、連邦国内で最も困窮に陥っている地区、旧ギャリグローバ共和国地区までやってきた。
この時点でミロルは既に四歳の誕生日を迎えていた。
幾ら貧乏でも、母は、ミロルの誕生日をちゃんと祝った。
何かプレゼントがあったり、特別な食べ物を贈ったりした訳では無いが、その一日、母はミロルと遊び尽くした。
母性溢れる、優しい母であった。
そんなある日の事であった。
母といつもの様に、薄い屋根の下で過ごしていた時。
突然母が、血相を変えてミロルを抱きしめ、屋根にしていた布を下ろし、身を隠した。
母はミロルに、「喋らずに静かにしておきなさい。」とだけ言い、ミロルを抱きしめたまま、暫く待った。
約一分程待っただろうか。
母が少し布の隙間から顔を出し、キョロキョロと首を動かした後、ミロルの背中を押し、布のから出した。
母は、何かに怯えている様であった。
気になったミロルは、屋根から少し顔を乗り出して周りを見てみたが、母が中へと引っ張った。
外は良く見えなかったが、一つ気になったのが、此処らでは絶対見ない服装で歩いている男がいた事だ。
総総なファーを巻いた男。
明らかに異質だった。
恐らく母は、その男に怯えていた。
だが、当時未だ幼かったミロルには、その事が理解出来なかった。
そして数ヶ月後。
とうとうミロルと母は、ギャリグローバの最東端まで来た。
周りを見ると、今までとほぼ同じ風景が続いているが、此処から少し東へ行くと、連邦国内でも裕福な地区に行ける。
ミロルは一度、そこを見た事があった。
自分達の住んでいる世界とはまるで違う。
そこには、硬い壁で作られた家があった。
木でできた家など、聞いた事も見た事もなかった。
その家の高さは、大人の身長を優に超えるものであり、そんなに高い建造物にミロルはたじろいだ。
怖かった。
恐ろしかった。
自分よりも遥かに大きい無機物に、ただ、恐れ慄く事しか出来なかった。
その日は、もう直ぐに帰って寝た。
疲れたのだ。
未だ四歳の少女が、身を震わせて怖がった。
全身で。
それで疲労が溜まらない児童など、普通居ない。
その日はそのまま、母と共に眠った。
ミロルは知らない。
こうした日常が、今日で終幕を迎えることを。