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カルロスト連邦国、首都ジズグレイスの王城にて。
「ギニルよ。例のスラムの掃除は終わったのか?」
図太い声の肥えた男は、自身の臣下、ギニルに向かってそう言った。
ワインを片手に、小さな台に肘を付きながら、グラスを踊らせていた。
「いえ、未だ解体中でして………………後一週間程ご猶予を頂ければ必ず……………………」
それを聞いた男は、持っていたワイングラスをギニルの膝下に投げつけた。
「何だと?! わしは今日中に済ませよと命じた筈じゃが! そんな醜態を晒しよって。反吐が出る。もう良い。」
そう言って男は、ギニルの頭に向かって指を指した。
「国王、どうかそれだけは! 命だけは! ちゃんと例の女奴隷の獲得に成功したじゃありませんか! なのでどうか! これからも国王のお役に立ちますので! 何卒…………」
そう言っている途中で、男は、水射針をギニルの心臓に向かって撃ち抜いた。
ギニルは息絶え、地面に寝転がり、胸から血を流している。
「おい、サラナ。掃除をしてくれ。」
男はそう言い、自身の第一秘書、サラナ・モルドに目の前の死体の掃除を命じた。
女は、何も言わずに前へ出て、死体をゆっくりと転がし、着ていたスカートをちぎり、それで床の血痕を拭き取った。
その間男は待っていたが、命じてから三十秒後。
「えぇぃ! 遅い遅い!! もっと速く掃除せんか!! 無能か?」
そう言って男は、台の上にあったワインボトルを、サラナの頭に目掛けて投げ付けた。
だがその軌道はずれ、サラナの背中に当たった。
砕け散ったボトルの破片は、サラナの背中を切り裂き、漆黒のドレスを真紅に染めた。
それがワインなのか血なのか。
そんな事、男は毛頭考えていなかった。
それを受けたサラナは、一言、
「申し訳ありません。」
と言って、死体を抱えて部屋を去った。
そしてそれと入れ替わる様に、別の臣下が部屋に入ってきた。
「国王。サルラス帝国からある報告が…………」
「ほほぉう。帝国から。なんと?」
男は目を見開き、臣下を見た。
「先の第二次帝国侵攻で活躍したあの浮遊魔法師が、カルロスト連邦国へと来るそうです。」
「ほぅ。それは難儀な…………」
男が悩んでいた時、それに畳み掛ける様に、臣下は言った。
「そういや、その浮遊魔法師は、帝国侵攻の時に売却された北東部のスラムの生まれだったとか……………………」
それを聞いた男は、ニヤとあぜ笑い、言った。
「おい、今すぐサラナを呼んで来い。国力増強の時間だ。」
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第二次帝国侵攻終戦から二週間後。
戦後処理も大分と落ち着き、被害のあった民家も、粗方修復が完了した。
アステラの指示で、王宮の再建を後回しにしたお陰だろう。
ある日アステラは、住宅に被害があったであろう、北部の避難所にいる避難民に向けて直接謝罪をした。
「国民あっての国。そしてその国民を守るべき立場である我々が、民の大切な家や物に損害を与えてしまった事を深く謝罪する。ついては、復旧資金や人手は全てこちらの方で確保し、最大限、国民の有るべき日常を取り戻さんと奮起する次第でありますので、どうかご容赦頂きたく存じます。」
そう言ってアステラは、大衆の前で深く頭を下げた。
そして様々な事を話し、その去り際。
ある国民に、こんな事を聞かれた。
「アステラ王の仰る通り王宮の修復を劣後するのでしたら、その間王は一体何処で生活を?」
その問いに対し、アステラは、頭だけを振り向かせ、言った。
「そんな事、正直何にも考えておりませんでした。まぁ言うとすれば、野宿でも別に良いですしね…………まぁ、成り行きに任せるとします。」
「ですが一国の王がそんな……………………」
「ありがとうございます。私にとっては、そうやって私の事を心配してくださっている事自体が幸福で仕方が無いのです。その為なら私、野宿だってなんだって、喜んでいたしましょう。
ありがとうございます。こんな国王を信じてくれて。」
そう言ってアステラは、その場を去った。
そしてアステラは有言実行。
王宮はそのままに、全人員を、街の復興に携わらせ、僅か二週間足らずで、ほぼ全ての住居の再建が完了したのだ。
そして今、もう既に避難民の誘導が始まっている。
つまり、一部が瓦礫の山と化していた街に、再び人が住むのだ。
アステラもやっと肩の荷を下ろし、地面にへたった。
だがそんな休息も束の間。
ギルシュグリッツよりも北部の、被害が一切無かった地域で、アステラ王の信任に対するデモが起こった。
「街を守りきれなかった駄人間。」
「弟の手柄を自分のものにしようとしたペテン師。」
そんなデマが、中部から北部地域にて出回っているのだ。
当然それは、アステラの耳にも入っており、大衆の前での謝罪会見は余儀無い。
突然の宣戦布告と戦争、そして戦後処理と、もう疲労で満身創痍な中、新たに事実無根なデマによるデモが勃発した。
目の下にはクマができ、目は真っ赤に染まり、既に限界を迎えているアステラは、国のためと自分の足を無理矢理歩かせながら、謝罪会見の準備を取り急いだ。
次ぐ日。
アステラの謝罪会見の噂は瞬く間に国中に広がり、当日発表だったのにも関わらず、数万人の国民が、アステラの言葉を聞きに集まった。
舞台はとても簡素な物であったが、話をするには十分な設備だった。
舞台裏でアステラが、今にも崩れかけそうな足をなんとか立たせながら、開始時刻を待った。
そして正午。
民衆がしんと静まり返り、アステラの登場は未だかと待っている。
だがアステラは、この間に立っていることすらも儘ならなくなり、遂には、とても演説などできる状態では無くなるほどに衰弱した。
会見の実現は絶望的だった。
そんな時、アステラの眼前を誰かが横切った。
「叔父さん。後は俺に任せてください。貴方が教えてくれなければ、エルレリアは無かった。恩を返したいのです。どうか、許して欲しい。」
アステラにその言葉が届くかは分からなかったが、その男は、アステラの返事を待たずに、会見の壇上に上がった。
アステラではない男の登場に、会場は騒めいた。
あの王は逃げたのか。
そうだ、逃げたに相違ない。
デモ集団は、一心にそう思った。
エルダは、壇上の中心にあるマイクに向かって叫んだ。
「デモグループの奴等に言う。お前等は馬鹿か?」
その言葉に、会場はより一層騒めいた。
「父さんの手柄を横取り? 街を守れなかった駄人間? 実に馬鹿馬鹿しい。そんなデマ、誰が信じるか。」
その言葉に苛立ちを覚えた一人が、エルダに向かって言った。
「第三者が何知った口でほざいてんだ。さっさと失せろ! あの糞国王を庇うってんだったら他でやれ!」
「黙れ。恩人の努力を無碍にする糞を糞と言って何が悪い。もっとも、あんな出来の悪い事実無根のデマを信じるのは本当の阿呆だろうが。」
「何だと!!」
「じゃぁ聞く。お前は、第二王子のマグダがこの国を救ったと知っている筈だ。」
「あぁそうだが、それが何か?」
「誰に聞いた?」
「そんなの、あの駄人間からに決まっているだろう。」
「じゃぁ何故アステラ王は、利用する弟の手柄を、わざわざ民に公表するのか。そんな情報は闇に葬り去った方が、手柄を奪うには得策。何故公表したのか。お前は何故たと思う?」
「………………っ………………」
エルダは、それに畳み掛ける様に言った。
「それに次いで聞く。お前らなら、今回の侵攻の被害をもっと抑えられたのか? 今回の被害の復旧を、二週間未満で終わらせる事は出来たのか。」
「それは………………」
「当然無理だろう。とりわけ、お前がウン百人と言った優れた技術者を連れてくることが出来るなら話は別だが。出来るのか?」
先まで威勢の良かったデモグループの男が、遂に黙り込んだ。
それを確認したエルダは、最後に言った。
「分かったか! お前らが信じていた情報は、全て事実無根の大嘘だ! それが分かったら、王が元気な時にでも、土産の一つ持っていって、感謝して帰れ。あの王のことだから、直ぐに許してくれるだろう。
………………良かったなお前ら。自身の国王がこんなにも優しくて。俺の故郷なんてそんな………………」
マイクも拾えぬ程小さな声で最後言って、エルダは壇上を去った。
次の日。
アステラが一時的に暮らしている小さな小屋の前に、沢山のお札が落ちていたらしいが、それが誰のものなのか、何故置かれていたのか。
真相は未だにわかっていない。
だが、その札束の下に、ある紙切れが挟まってあった。
『王宮の再建費にでも使って下さい。』
アステラが目覚めたのは、エルダの乱入した会見の二日後未明。
アステラの寝ていた小屋の近くを偶々通りかかったエルダが、アステラの回復を確認した。
大量のお札も、その時エルダが発見し、アステラに報告したのだ。
小屋の中でエルダは、一昨日の会見の話をした。
直前にアステラは倒れたので、そこからの記憶が一切無かった。
エルダは、アステラを安心させられる様、「その場にいるほぼ全員に、アステラの潔白を証明出来た。」と伝えた。
二日間も寝ていた為、その話を聞いた後アステラは、水分不足と極度の空腹でベッドに寝転んだ。
それを見てエルダは南無三、直様外へ出て、リカルを呼びに行き、朝食の支度をお願いした。
街の復旧をたった二週間で済ませたアルゾナ王国の手際の良さは流石で、そのご飯の準備も、エルダがリカルに伝えてから僅か五分ほどで完了した。
アステラの小屋に飯を持って帰っている途中マグダにも会ったので、エルダは、マグダと同行しながら、アステラの小屋へ向かった。
一応アステラは未だ回復段階なので、飯の内容も、お粥やスープなどの、体に優しい物だらけだった。
お盆を浮かせながら小屋まで向かったが、その時に鼻へと流れてくる料理の匂いが、エルダやマグダの空腹を煽った。
アステラの小屋へと着き、マグダがアステラに飯を食わせることとなった。
なのでエルダは、小屋の隅で、その様子を眺めていた。
よく考えれば、アステラとマグダは、十数年ぶりの再会だったのだ。
その上、再開の瞬間も、戦中だった為ゆっくり話をすることが出来なかった。
なので今この時間が、再開して初めての、兄弟の団欒の時間だった。
ある程度ご飯も食べ終わり、アステラが元気になっていっている時。
エルダは、ある事を言う為、ばっと立ち上がり、アステラとマグダの前に立った。
「父さん、叔父さん。俺、決めました。」
それを聞いて、はて?と首を傾げる二人。
それに続けてエルダは言った。
「俺、一度カルロスト連邦国に帰ろうと思います。」
それを聞いて、思わず音を立ててマグダが立ち上がった。
「なんで?」
あんなに治安の悪い所にわざわざ行かなくても……と思っているのだろう。
十何年も会っていなくとも、マグダはエルダの父。
息子の身を案じての質問だった。
「俺は、この大陸を、色々な国を旅したいと思って、故郷を発ちました。そして今、エルレリアとアルゾナ王国を周りました。次に行く国…………と考えると、今の所、カルロスト連邦国しか無いんですよ。サルラス帝国は怖いし、オームル王国は未知数だし。それに、カルロスト連邦国と云う国をしっかり知りたいのです。」
「…………そうだな。色んな国を知っておく事は大切かもしれんな。」
アステラが、エルダの話を聞いて、そう返事をしながら上体を起こした。
「兄上…………」
「マグダ。別に、エルダの事は心配せんでもいいだろう。カルロスト連邦国だろ? 早々に死にゃぁせん。だってめちゃくちゃ強いから。恐らく、今のマグダよりも。」
「そうですな…………そんな心配は無用だったか。よしエルダ! 行ってこい!!」
アステラの言葉を聞いて、マグダの様子がガラッと変わった。
まるで盲点を突かれた様な顔をしながら、エルダに優しく微笑みかけた。
「ありがとう!」
そう言ってエルダは、故郷への帰国の準備をした。
「一般的な親だったら『我が息子も成長したなぁ』とか思うのだろうけれど、その考えは、その成長過程をずっと見ていたからこそ言える事であって。私も言いたかったな。なんて。」
エルダが去った後、独り言の様にマグダが言った。
「まぁ、一般的な同年代の人と比べたら、大分しっかりした人間だと、私は思うがな。」
「そう言ってくれると嬉しいなぁ…………」
いつの間にか二人は、タメ語で話す様になっていた。
「あっ、ごめんなさい。ついタメ語で………………」
「良いんだマグダ。タメ語の方が此方としても落ち着く。どんな国王だって、タメ語で話せる仲の人間が、一人ぐらいは欲しいだろうから。」
「ありがとう。」
そう言って二人は、互いに笑みを浮かべあった。
「まさか、こんなにも子供の成長が速いとは。エルダの幼い頃も、一緒に居たかったな………………」
そう言いながらマグダは、エルダの去った小屋の入り口に視線を移しながら、扉のもっと遠くの方を眺めていた。
昼。
アステラは、マグダの回復系複製魔法で完全回復し、エルダも、出発の用意が完了した。
空を飛べるのでわざわざ門から出国する必要がない。
なのでエルダの見送りは、王宮跡前で行われた。
王国軍とは思えない程に無造作に並んだ兵の先頭には、ルーダやリカル、もっと先頭に、アステラやマグダが並んだ。
「じゃぁ。カルロスト連邦国でも、無事で居ろよ?」
そう言いながらアステラが、エルダの肩を二回叩いた。
「はい、勿論。」
エルダは一回、軽く頷いた。
「またアルゾナ王国に帰ったら、カルロスト連邦国での話でも聞かせてくれや。」
「あぁ。」
マグダはそう言いながら、純白の歯を見せつけて笑んだ。
「それじゃぁ、行ってきます!!」
エルダはそう叫びながら、此処で貰った食糧と野宿用の色々な道具を入れた鞄を背負い、宙に浮いた。
大きく手を振り、優しく笑んだ。
「飛翔。」
エルダはそう呟き、アルゾナ王国を後にした。
アルゾナ王国の防御壁を飛翔で超え、そのまま直線距離でカルロスト連邦国へと向かった。
前にマグダとエルレリアからアルゾナ王国へと戻った時の速度で移動すると、恐らく途中で魔力が切れて動け無くなるので、ゆっくりとのんびり移動した。
浮遊魔法を持っていることがバレると色々と面倒なので、出来るだけ木々の上ギリギリを飛んでいる。
これなら、空高くで飛ぶよりもバレにくいだろう。
ただ飛んでいるだけでは暇なので、エルダは周りの景色に視線を向けた。
あの日。
スラムに居るのが嫌になって、そこを発った。
そして無闇矢鱈に、ただ一方向に、真っ直ぐに歩き続けて、奇跡的にアルゾナ王国に到着した。
そしてその時の道を、今度は帰る為に辿っている。
ただただ木々が並んでいるだけの光景の連続だが、とても懐かしい気持ちになった。
何か、見覚えのある様な配列の木々があったりするのだ。
そう云った物を見る度に、郷愁に駆られた。
あの頃の自分は、弱い自分が嫌いだったけど、今は違う。
自身の力についても理解し使える様になったし、一般教養も手に入れた。
昔の自分はもう居ない。
今いるのは、自信に満ち溢れた、活発な青年。
エルダは成長した。
そう、はっきりと感じることが出来た。
カルロスト連邦国までの道のり凡そ半分辺りの地点に到着した頃。
既に日は傾き、夜もそろそろだった。
一旦地面へと降下し、背負っていた鞄を地面に下ろし、近くの太めの木の幹に凭れ掛かった。
ため息を一つほぉっと吐いた後、地面に置いた鞄を浮かせて、自分の元へと持ってきた。
中から物を出すのを、わざわざ魔法を使うのも面倒臭いので、自分で行った。
中から事前に用意しておいた火打ち石を出し、浮遊魔法でそこらの木の枝を集めて積み、火をつけた。
暖かい炎が、エルダの体を温め、体を赤く照らす。
この炎を見ていると、オーザックを思い出す。
あの日。
燃え盛ったあの村。
照らされた体。
赤い炎と地面に流れる紅い血。
あまり思い出したくない過去だ。
エルダは、水筒の水を一口飲みながら、万点の星空を見上げた。
翌朝。
さっさと出発準備を済ませ、昨日と同じ様に飛び立った。
予定では、今日の昼頃に到着する。
スラムに帰って何かしたい訳では無いが、昔住んでいたあの家を少し見ておきたい。
そして、カルロスト連邦国内を回ってみたい。
そう言った願望を胸に、エルダは連邦国へと向かった。
昼。
ようやく、メルデス大森林の終わりが見えてきた。
カルロスト連邦国が目と鼻の先である証拠だ。
嗚呼、今故郷はどうなっているのか。
こう云った考え方はあまり良く無いかもしれないが。故郷の奴等が自分を蔑んだのは、“平民の出なのに魔力を保持していた”からであった。
だが自分は、平民の出では無かったのである。
父が王族だったのだ。
なので、蔑まれる理由は何もない。
寧ろ媚を売ってくる者が居ても可笑しくないのかもしれない。
だから、別に故郷に帰ったって、怖がる事は何も無いのだ。
それに向こうには、母親を延命させてくれた薬屋もいる。
連邦国内にいる人物の中で、最も信頼出来る人物だ。
名は確か、グリリア・スクリだったか。
もし今日逢う事が出来れば、約六.七年ぶりの再会となる。
あの頃と比べて自分は、大分と変わっているので、エルダと分かってくれるのか、少し不安になったが、その時間が一番楽しかった。
「…………………………?」
エルダが不思議に思った。
この距離であれば、故郷スラムの建物が見えて来る筈なのに、その様な影が一切確認出来ない。
木々に隠れるにしても、明らかに可笑しい。
この約一年の間に何があったのか。
少し恐怖を感じながらも、少しずつ前へと進んでいった。
そうして暫く進むと、あり得ない光景が広がっていた。
さっき建物が見えなかった理由も、これではっきりした。
エルダの故郷の区画一帯が、何も無い、ただの更地と化していたのだ。
名残など一切無い。
瓦礫の一つも無い。
まるで初めから何も無かったかの様な。
初めからこうであった様な。
自分の家は勿論、よく通っていた道も、電球の切れかけていた街灯も、あの懐かしい町並みも、お金を稼いでいた仕事場も。
何もかもが無に帰していた。
一体何があったのか。
自然災害やそう云った物では無い事は分かる。
恐らく人為的な物だろう。
だとすれば誰が、何故。
それに此処に住んでいた連邦国民は、何処に行ったのか。
周りを見渡しても、誰も見当たらない。
その更地と化した故郷へと降り立ち、周りを見渡す。
その時だった。
「初めまして、エルダ・フレーラ様。」
突然背後から、元は元気そうな声を無理矢理押し殺して感情を消した様な声が聞こえた。
ばっと後ろを振り返ると、そこには、街に行けば一躍話題に上がりそうな程に顔の整った女性が立っていた。
「初めまして、エルダ・フレーラ様。」
彼女はもう一度そう云った後、こう続けた。
「私、サラナ・モルドと申します。是非、お見知り置きを。」
カルロスト連邦国。
大陸内で唯一、奴隷制度を設けている国。
その国土は大陸一だが、それ程発展しておらず、人口も、アルゾナ王国やサルラス帝国の方が多かった。
その昔。カルロスト連邦国が成立する前。
そこには、国力の小さい小国が沢山集まっていた。
その中でも一際国力が大きく、とりわけ国土も大きかった国がある。
その国の名は、ギャリグローバ。
小国群の中では、最強の国であった。
だがある日その小国群は、サルラス帝国からやって来た帝国国家とも商売を行なっている商人に、不法占拠された。
そしてその商人は、帝国から連れてきた魔法師で国民を殺し、黙らせ、その小国を全て統合し、カルロスト連邦国を成立させたのが、この国の始まりであった。
そして、ビルクダリオと呼ばれる原住民は、突如現れた帝国民によって定められた身分法で奴隷階級と設定され、その生活は窮困を極めた。
元々あった小国はスラムと化し、連邦国中央付近の小国は、そこにいたビルクダリオを全員殺して街を造られ、今やこの国の首都、ジズグレイス(別称:中央都市.貴族都市)となり、そこには、サルラス帝国からやってきた移民が、平民階級、または貴族階級として何不自由ない生活を送っていた。
奴隷階級となったビルクダリオは、度々そこに訪れる連邦国政府の人間に、一人、時によっては複数人ジズグレイスへと連行され、奴隷として働く事を強制させられる事があった。
人々は日々、その恐怖に耐えながら、生活していたのだ。
その連行された奴隷の行き先と言うのは、大まかに言うと三つあった。
一つは、国王(初めに不法占拠した商人)の遊び相手となる。つまり、王城に居ると云うもの。
これは主に女性が多く、国王の欲求不満の解消の為の道具と言った方が分かりやすいか。
そして二つ目が、ジズグレイスに住む平民や貴族に買われるパターン。
この場合の処遇は奴隷の売却先によるが、このパターンでも、やはり女性が大多数を占めていた。
そして三つ目が、サルラス帝国への出荷。
国王は元々サルラス帝国の商人だった為、帝国との繋がりがあった。
それを使って国王は、サルラス帝国に自国の奴隷を売っているのだ。
此方は主に男性が重宝される。
主な利用用途としては、帝国の国力増強や軍事力強化や、戦争の時の囮などだろう。
少なくとも、良い待遇が受けられる事は無い。
国王の名は、ジャーナ・カルロスト。
身勝手な王であった。
――――――――――――――――――
更地と化した故郷。
そこでエルダは、自分の名を知る、見知らぬ女性に声をかけられた。
「サラナ…………さん?」
「呼び捨てで結構です。エルダ様。」
またその名を呼んだ。
エルダは、この女性を知らない。
なら何故、自分の名前を知っているのか。
先の戦争で名が広まったとか?
はたまた、ただ一人の浮遊魔法師として大陸全土がマークしつつあるとか。
だが、自分がそこまで有名人になった訳では無いだろうから。なら尚更、この女性、サラナは、どう言った手段でエルダの名を知ったのだろうか。
謎は深まるばかりである。
「エルダ様は、此処で何があったか、ご存知ですか?」
「いいや、知らないが………………」
サラナが、とても静かに、冷徹に話す彼女は、何処か自分を心の奥底に閉まっている様で、話していてとても擬かしさを感じた。
「三週間ほど前。此処らに住んでいたビルクダリオ全員が、サルラス帝国へ売却されたのです。そして誰も居なくなったので、連邦国政府は、此処を更地にする様命じたのです。」
サラナは淡々と、そう話した。
サラナから詳しく話を聞くと、売却された故郷のビルクダリオは、サルラス帝国軍として、アルゾナ王国への侵攻時に使ったそう。
その時のビルクダリオの安否は不明。
抑も、奴隷の安否など、誰も確認していなかった。
大体の奴隷売却は、前触れも無く、突然連行されるが、今回はその中でも最悪の例である。
此処に居た人間を、一人残さず地獄へ送り込んだ政府の考えている事が解らない。
きっと、生涯一度も、分かり合える事は無いだろう。
出来れば、この国の貴族には会いたく無いな。
エルダは切にそう願った。
「…………で、サラナは何故此処に?」
エルダはサラナに問いかけた。
更地にされた故郷に、サラナは住んでいなかった。
顔を見かけた事も無かった。
じゃぁ何故、わざわざ此処まで出向いたのか。
サラナは、今まで更地に向けていた体を、エルダの方へと向けて言った。
「エルダ様にお願いがあって来ました。」
サラナの顔を見る限り、真剣な願いである事は直ぐに理解出来た。
「この国を、カルロスト連邦国を、ぶっ壊して欲しいのです。」
「この国を、カルロスト連邦国を、ぶっ壊して欲しいのです。」
サラナの口から出たのは、思いがけない言葉であった。
「エルダ様のお噂は予々、私の耳にも入ってましたので。今だと思って、エルダ様の出生地に赴けば居るのではないかと。」
「そして此処へ来て、俺と出会った……と。」
「そうです。」
無理矢理言葉の温度を抜き取った様な声で、サラナはずっと話し続けていた。
「…………無理して無いか?」
サラナの願いの是非よりも、エルダはサラナの事が心配になってしまった。
見た感じ恐らく、サラナはエルダよりも若い。
そんな子が、何かずっと我慢している様な。
無理して声のトーンを下げているのも気になるし。
また別の、人に言い辛い悩みでもあるのか。
「…………どう云う事でしょう?」
エルダの問いに、サラナは問いで返した。
「いや、何かさっきから、ずっと自分を押し殺している様だったから。何か悩んでいたり、無理してるのかなーって。」
それを聞いたサラナは、少しポカンとした表情を浮かべた後。
「無理はして無いと……思います…………多分。いや、正直そこの所、自分でも、今の自分の事がよく分からないのです。もう、どうしようも無いので。逃げようが無いので。この偽善に包まれた界隈に無理矢理入らされたのなら…………」
初めて、彼女の本音を聞いた気がした。
さっきまでとは明らかに声のトーンが違った。
だが、その内容は、あまり良く理解出来ていなかった。
“偽善に包まれた界隈”と云う言葉が少し引っかかったが、今のエルダの知識では、その言葉の真意が、一切解らなかった。
“逃げようが無い”。一体誰から、何から逃げようとしているのか。
全くわからなかった。
エルダがどう云った返事をすれば良いのかが分からず、暫く経った。
「あっ、すいません。分かりませんよね。何の説明も無しに……………」
サラナが両手を肩の前で二回振り、さっきよりも元気そうな声でそう言った。
「いや、良いよ。俺が聞いた事だし。」
「ありがとうございます。」
少し、サラナとの距離が近くなった気がした。
「それで、“この国をぶっ壊す”って、具体的には何をするつもりなんだ?」
エルダが、サラナの願いの詳細を訊いた。
「私がしたいのは、この国の政治体制を根本から崩すこと。まぁ、国王を殺したり、再起不能にすれば、間違い無く崩せるでしょうね。」
突然サラナの口から突然出た「殺す」と云う言葉に、少しゾッとした。
だが、政治体制を崩すのならば、その首謀者を討つのが一番手っ取り早いだろう。
「…………何故、この国を壊したいんだ?」
この理由によっては、サラナと協力しよう。
エルダはそう思って、サラナに訊いた。
「…………私の出身は、この国のスラムでした。エルダ様と同じです。私の母はスラムでも一番の美人でした。だからでしょうね。私の物心のついた頃。母はこの国の政府の貴族の欲求不満の解消の為の玩具となる為に、女性奴隷として連れて行かれました。水を汲みに家を出ていた私が家に戻ると、もうそこに母は居らず、必死に抵抗した母の、足を擦った後や、地面に引っ掛けた指から剥がれた爪やそこから流れた血痕。貴族がしたのか、母が抵抗した時にしたのか、家の中がぐちゃぐちゃに荒れていました。
その後母は、貴族に殴られて、死んだそうです。今から四年前の話です。
許せない。
まぁ、一種の復讐のような物です。それに、もう私の様な人を出さない様にも。」
それを言い終わったサラナは、少し俯きながらも、初めて出会った時よりも、少し元気そうであった。
悩み事は、人に話すとスッキリするから、その為だろう。
だが、初めて会って数分のエルダに、こんな、国家反逆の様な事を話しても良いのだろうか。
エルダは少しサラナを心配した。
「必ず居る筈何です。私の様に、この国の貴族のせいで、愛する家族を失った人が。母の様に、突然日常を奪われて、絶望へと追い込まれて死んでいった人が。
そう言った人を助けたい。
何もしていない私達を、余所者が、勝手にしていい筈が無い。」
そう言った後、サラナは、エルダの手を両手で握り、涙を流して言った。
「お願いです。この国の人を助けたいのです。手伝っていただけませんか………………!」
心の底から出た言葉だった。
少なくともエルダには、そう聞こえた。
とても、嘘を言っている様には見えなかった。
この国に、良い思い出は無い。
助ける義理は無い。
だが、此処で断れば、自分を嫌いになってしまう。
そう思った。
「わかった。その依頼。受けよう。」
「ありがとうございます!!」
エルダが返事した途端、サラナがそう叫び、エルダの手を握った両手を自分の額に付け、歔欷した。
エルダは、長い付き合いになりそうだと、そう悟った。
エルダが更地と化した故郷を周回していた時、サラナの持っていた通信用の魔石が光出した。
サラナは魔石をポケットから出して、耳に当てて、要件を聞いた。
「サラナ、計画は順調か?」
「はい。エルダ・フレーラを王城に誘え込めそうです。」
「そうか、順調で何より。それでは、これからも計画に支障のない様努めよ。」
「はっ、国王様。」
そう言って通信を切った。
魔石の光も消えた。
サラナは魔石をポケットに戻し、ため息を吐いた。
「エルダ様…………お願いします…………」
サラナは、トボトボと歩くエルダに、少し申し訳なく思いながら、そう呟いた。
サラナとの約束から約三十分。
「もう、宜しいのですか?」
サラナの元へと戻ってきたエルダに、サラナは言った。
「あぁ、何も無かったから。」
「……そうですか……………………」
サラナにとっては、スラムが一つ無くなっただけであったが、エルダにとっては、此処での思い出が全て無くなったのだ。
その時のエルダの心情は、サラナには分かり得なかった。
サラナは、カルロスト連邦国の大まかな地図を地面に描いた。
今エルダとサラナが居るのは、カルロスト連邦国の最北端のスラム跡地。
ジズグレイスはカルロスト連邦国の中央より少し北辺りにあり、王城もそこにある。
そしてこのスラム跡地とジズグレイスの間には、カルロスト連邦国最大のスラム、旧ギャリグローバ共和国地区(通称:ギャリグローバ)がある。
サラナ曰くそこを通って王城へ行くのが、最短ルートらしい。
だが問題は此処から。
ギャリグローバは、最大面積を誇るスラムであるとともに、連邦国で最も窮困に陥っているスラムでもあった。
当然地域柄は悪く、治安が維持されていない。
完全に、無法地帯である。
週に一度は奴隷出荷があり、一度そこに住んでしまったら中々抜け出せない事から、“奈落町”とも呼ばれている。
そんなギャリグローバを通るのには、あまり気乗りしなかった。
だが、ギャリグローバを迂回するとなると、ギャリグローバを通った時の約四倍もの時間がかかる。
ただ単に道のりが増えるのも原因の一つだが、道中に軍の駐屯地が幾つかあり、それらを避けていくと、それ位の時間がかかる。
それはそれで、もっと面倒臭い。
やはり、ギャリグローバを通るしか無いのか。
エルダは、少し俯いた。
出発の準備を粗方済ませ、ギャリグローバへと出発した。
「あっ、そう言えば。エルダ様って浮遊魔法が使えるとお聞きしたのですが。本当なんですか?」
サラナが、少し目を輝かせながら、エルダに訊いた。
エルダは悩んだ。
此処で肯定してしまえば、此処まで浮遊魔法師である事を隠してきた意味が無くなる。
だが、否定したはしたで、少し落ち込ませてしまうだろう。
少し悩んだ後、エルダは答えた。
「あぁ、本当だよ。」
サラナなら、信用出来ると思ったからだ。
それに、辛い過去を持っていて、少しでも自分に希望を抱いてくれているならば、こうした少しの期待も、裏切れなくなってしまう。
「見せて頂いたりとか……………………」
目をキラキラさせながら、サラナはエルダに訊いた。
「……まぁ…………いっか。ほれ。」
そう言ってエルダは、サラナの体を少しだけ浮遊させた。
「うわぁぁぁぅぅぁぁぉぁ。」
困惑して、よく分からない声を、サラナはあげた。
そして浮遊させて、約十秒後。
エルダは、魔法を解き、サラナは地に足をつけた。
「はぁ…………これが浮遊する感覚………………なんとも言えない感じですね。」
口をポカンと開けたまま、サラナはそう独り言の様に呟いた。
「喜んでくれたのなら何より。」
「はい、とても新鮮な感覚でした。楽しかったです。」
少し元気そうな声で、サラナは言った。
旧ギャリグローバ共和国地区
一眼見て悟る。
自分達の故郷が、未だ裕福な方であった事が。
本当の貧困と云うもの。
そしてカルロスト連邦国の頭の可笑しさが、一瞬にして理解出来た。
屋根付きの簡素な建物が一列に並んだ大路に、エルダとサラナは居た。
何処かのゴミ捨て場に置いてありそうな鉄板と、その鉄板を支える鉄パイプ。
壁代わりに、鉄板とパイプの間に布を挟んである。
それとほぼ同じ様な物が、並んでいた。
どれも、小雨を防ぐ程度しか使い道のない様な大きさの物ばかりで、少し風が吹けば、たちまち雨風に晒されそうなものだった。
そこにいた住民は、全員、全身が薄汚れ、顔色は悪く、酷く窶れていた。
破れた水道管からは、抹茶色に汚濁した水が流れている。
地面にはその汚濁した水で出来た水溜まりができ、土でできた地面を緩くしている。
歩く度、足が少しネチャネチャと音を立て、一歩踏み出すにも一苦労であった。
こんな劣悪な環境下で生活していかないといかないと上に、そこにプラスで、貴族からの恐怖も抱えながら暮らさなければ行けないと考えると、とても複雑な心境になった。
そうしてその大路を歩いていた時の事だった。
「キャッ………………」
誰かが、エルダにぶつかり、地面に尻餅をついた。
エルダがふとその方を見ると、そこには、チリチリな上地面につく位まで伸びている髪を持った、小さな女児がいた。
髪の毛が顔を覆い、その表情や顔立ちまで確認することは出来なかったが、体格や身長を考えるに、恐らく四歳か五歳くらいだろう。
そんな少女が、泥だらけになって、地面に座っている。
着ている服は、もう何ヶ月も洗ったり直したりしていないのだろう。そこら中に穴が空いていて、元々色が染まってあったのか、もう既にその色は剥げ落ちて、少し黄みがかった布が顔を見せている。
エルダは、その少女に向かって手を差し伸べて言った。
「大丈夫?」
「大丈夫?」
そう言ってエルダは右手を差し伸べた。
少女は、持っていた包みを、人目を気にしながら抱えて、エルダの手を使わずに、起き上がった。
「す………………すいませんでした。」
その少女はとても小声でそう言った後、足早にその場を去った。
少し引き止めようとしてみたが、そんなエルダを一切見ず、少女はスラムの奥へと消えていった。
得に言葉もかけぬまま少女を見送った後、その少女について、サラナが言った。
「エルダ様。あの少女について、どう思います?」
「どう……って?」
「ほら。あの身体つきを見た限り、恐らくあの子は栄養失調ですね。それに恐らく、あの子の親はもう…………」
サラナが、自身の世界へとどんどん入って行くのがはっきりと見えた。
「こう言った治安の悪い方のスラムでの子供と云うのは、外出の際親が同行するのが一般的。なのにさっきの子は、一人でした。そう言った事を考察すると、あの子の親はもう、ギャリグローバには居ないという答えに至ります。若しくは既に………………この世を去ってしまったか。」
俯きながら、サラナがそう言った。
「そうすれば、あの包みは、盗んだ食料とかそこら辺なのかな。」
「あの様子から察するに、恐らくは――――」
そこまでこの国のビルクダリオの扱いが愚だった事に、エルダは只々失意した。
そして、自分の故郷は、ビルクダリオの集落の中でも、未だ裕福な方であった事を悟った。
此処までに国が腐っていたとは。
サラナが国を潰したいのも、理解出来る。
「………………兎に角…………先を急ごうか。」
「そうですね………………」
そう言ってエルダとサラナは、先を急いだ。
そう言って歩き始めて十分後。
さっきの少女が、路傍に寝ているのを見つけた。
あんな所で寝ていたら風邪引くぞ……と言いたい所だが、家も無いあの子にとっては、どこで寝ても同じだろう。
その子には申し訳なかったが、そのままエルダは、少女の前を去ろうとした。
その時。
「ちょっと待ってください、エルダ様。この子……ちょっと変です。」
サラナにそう声をかけられてエルダは、ふと後ろを振り返り、少女の様子を見た。
一見普通に寝ているだけの様に見えたが、よく見ると呼吸が荒く、顔色が悪い。
もしやと思い、少女の額に手を当てると、とても高熱であった。
これは拙い。
元々食料不足で衰弱している中での、この高熱。
最悪、命に関わる。
一体どうすれば………………
そう考えていたエルダに、一人の男が思い当たった。
幼い頃、エルダの母が未だ生きていた時に、母の薬を買っていたあの薬屋。
あそこに行けば、何とかなるか。
「サラナ。俺は今からこの子を、昔関わっていた薬師に診てもらうために、この子を抱えて来た道を戻る。それで良いか?」
「はい。時間がありませんので。この子が助かるのであれば何でも。」
「決まりだな。」
そう言った後エルダは、少女を抱え、浮遊魔法で少し浮かせた。
普通に抱えるだけだと、走った時の振動が、もろ少女に来て、体の負担になるのでは、と考えたエルダの措置であった。
普通に浮かせて走るのもありだが、それを他人に見られると、自分が浮遊魔法師である事を隠せなくなる。
出来るだけ、自分が魔法師である事は、隠したい。
此処からその薬屋まで、普通に走って約20分。
歩くと30分。
これでは遅い。
ならどうするか。
答えは簡単で、浮遊魔法で、走っている自分に、ブーストの様なものをかければ良い。
地面を蹴った時の体の推進力を、浮遊魔法で増幅させる。
そうすれば、浮遊魔法師である事を悟られずに、速く移動できる。
そうすれば、薬屋まで10分もかからないだろう。
「行くぞ!」
「はい。」
エルダは、少女を少し浮かせ、自身とサラナに、走る時の推進力補助をかけて、出発した。
「あれっ? 私ってこんな速く走れたっけ……………」
自分の走力に驚いて、思わずサラナは声を漏らした。
「俺が浮遊魔法で、走んのに補助かけてるんだよ。そのまま一定のリズムで走ってくれ。そうした方が、側から見て自然に見える。」
「はい。承知しました。」
そうしてサラナは、一定のリズムで足を前に出す事に専念した。
(エルダ様なら…………或いは…………)
サラナは、ジャーナの命令を思い出していた。
[エルダ・フレーラを王城まで連れて来い。手段は問わない。]
初め見た時は、無茶な命令だと思った。
だが、こちらに拒否権が無いことは、端から解っていた。
この命令を熟せば、この国の国力は上がるだろう。
軍事力の強化にも期待出来る。
だが……………………
そうなれば………………自身の解放は遠のく。
(エルダ様…………どうか………………私を…………)
エルダに聞こえぬ様エルダに祈りながら、三人は、その薬師の下へ向かった。
潡々と扉が鳴る音が聞こえる。
全く……ここ最近、この店に来る人も少なくなったし、妻もこの前糞貴族に連れて行かれたし。
もう人と会いたく無い。
嗚呼そうだった。
あの時もそうだった。
こうやって荒々しく扉が鳴って、久しぶりの患者かと思えば、ファーの付いた真っ赤な毛皮のコートを着た糞貴族がズカズカと土足で家に立ち入り、商売道具の薬を床にばら撒かれて、妻を見つけるなりその長髪を腐った手で握り、抵抗する妻を数回殴って、純白の肌を青く染めた後、無理矢理連れて行かれたのだ。
もう私には何も無い。
商売道具も、床の埃と混ざって、最早使い物にならない。
残っているのは、サルラス帝国に売っていて、興味本位で購入した、テロスウイルスの特効薬のみ。
だが、オームル王国に流行らせたウイルスの感染者が、カルロスト連邦国に出る事は先ず有り得ない。
ならこんな薬、塵も同然なのだが、捨てようにも捨てられなかった。
理由は特に無かったが、何と無く、捨てられる気になれなかったのである。
ドンドンドンドン。
未だ扉が鳴っている。
もう良い。
どうせ貴族だったとて、盗まれて困る物も無いし、殺されたとて、別に心残りがあるわけでも無いし。
いや、心残りはあった。
この国に来た理由を忘れた訳では無い。
自分なりの正義を忘れた訳では無い。
だが、その希望も今や潰え、他人からの信用も失った。
昔薬を買ってくれたあの少年も、もう来なくなり。
確か、あの子が最後の客だった。
今あの子は何歳になったのか。
大人になったのか。
身長はどの位伸びたのか。
尤も、最後に少年に会ったのが何年前だったか、覚えていないが。
「グリリア! 俺だ! エルダだ! 薬を売ってくれ!!」
外から、そんな声が聞こえた。
エルダ…………そうだ。昔薬を買ってくれた子の名だ。
でもあの子の故郷は、ちょっと前に無くなった筈。
そうだ、きっと空耳だ。
「グリリア! 頼む!! この子の命が!!」
もう止めてくれ。
一人にしてくれ。
誰とも会いたく無い。
あんな軽蔑される生活をするよりかは、こうしている方は落ち着く。
「グリリア!!!」
もうその名を呼ばないでくれ。
「グリリア!!!!!」
………………………………
「なんだ…………?」
扉を叩き始めて一分後。
やっと扉を開けてくれた。
数年ぶりに会ったグリリアは、顔には皺が増えて、窶れていて、昔の清潔感が皆無だった。
何があったのかゆっくりと話をしたいが、今は少女を引き渡すのが先だ。
「グリリア! ゆっくりと話したいが時間が無い。この少女を助けてくれないか!」
薬師グリリア・スクリは、エルダの顔を見ながら、何とも言えない表情をした。
嬉しそうに見える反面、何か隠している様な、再会に驚いている様な、目を丸くして見ているのは確かだが、その眼球の奥に、エルダと距離を取ろうとするグリリアが、はっきりと見えた気がした。
グリリアは、サラナから無理矢理渡された少女を受け取り、
「さぁ、中へ。」
と言い、中へと入った。
エルダが、中へと足を踏み入れた瞬間、エルダは、店の変わり様に、愕然とした。
昔来ていた頃は、綺麗な白樺が一面を覆った、とても綺麗な店だったのに、今見ると、そこら中の白樺が湿り腐り、部屋の隅には蜘蛛の巣が張られ、薬の入った瓶が綺麗に並べられていたカウンターや後ろの棚も、今やボロボロになり、あの時は大量に並んでいた薬が、今や何も無い。
一体この数年で何があったのか。
聞いて見たいが、今はそんな事をしている場合では無い。
グリリアは、元々薬屋の待合室だった所にあるベンチの中で、一際綺麗な物の上に少女を寝かせ、容態を見始めた。
何年も患者を見ていないグリリアであったが、その技術は未だ健在であった。
だが、その肝心の薬が、今少ししか無い。
少女の病が、今ある薬が効く物であれば良いのだが。
グリリアは、心底そう願いながら、少女の容態を見た。
「なっ…………!」
容態を見始めて約三十秒後。
グリリアが突然、目を丸くしながら少女を見た。
「どうかしたのか?」
その様子をいち早く察知したエルダは、そう声をかけた。
「……何故カルロスト連邦国に、テロスウイルスの感染者が…………? この病は、あの国でしか蔓延していない筈なのに…………!」
グリリアが、つらつらと独り言を並べるが、エルダには、何の内容を喋っているのか一つも理解出来なかった。
「だが、このウイルスなら、特効薬がある。」
そう言ってグリリアは少し笑んだ後、カウンターの引き出しを開け、その中から、隠し持っていたテロスウイルスの特効薬を取り出し、薬を入れた注射器を少女の首元に刺し、注入した。
その特効薬の入っていた瓶に何か文字が書いていたが、エルダの知らない文字で、何を書いてあるのか、解らなかった。
「これで二、三日寝ていれば、直に治るだろう。」
そう言いながらグリリアは、注射器の先を拭き、絆創膏を、注射を刺した部分に貼り付けた。
「今夜は此処に泊まると良い。丁度今日、暇潰しに二階の部屋を掃除したものでね。さっ、この嬢ちゃんを二階に運ぼうか。」
そう言ってグリリアは、少女を抱えて、少し急な階段を登った。
エルダやサラナも、それについて行った。
二階の部屋に少女を寝かせて、その傍らに、三人は座った。
「まぁ先ず。グリリア、久しぶり。覚えているかな? エルダだ。」
「あぁ、覚えているとも。だって君は…………この店最後のお客さんだったからね…………。」
「それってどう言う………………」
そう言っている時、横からサラナが会話に入ってきた。
「グリリア様…………でしたか?」
「えーっと…………貴女は?」
「失礼しました。私、サラナ・モルドと申します。以後、お見知り置きを。」
「あぁ、はい…………」
互いに少しぎこちない自己紹介を済ませたところで、サラナがグリリアに、ある質問をした。
「貴方、もしかしてサルラス帝国ご出身なのでしょうか。」
その問いに対して、グリリアは答える。
「何故そう思ったのか、理由をお聞かせいただいても?」
「簡単な話。さっき少女に渡した特効薬が、サルラス製の物だったじゃ無いですか。」
「…………だからって、サルラス帝国からの輸入品であるかもしれないじゃ無いですか。」
「そんな筈ありません。先ずサルラス帝国は、こんな一ビルクダリオに、こんな大層な特効薬売ったりしません。」
「……………………」
サラナの言う証拠に、只黙るしかないグリリア。
「もう言い逃れは出来ない……か。」
そう言い、一つ深呼吸をした後、グリリアは言った。
「そうです。私は、サルラス生まれサルラス育ちの、純粋なサルラス国民です。」
カルロスト連邦国は、不意に立ち寄ったサルラス帝国の商人が、そこらにあった小国を不法占拠し、成立させた。
その後徐々に、中央都市ジズグレイスへと、サルラス帝国の移民が増えた。
そしてそれら移民の目的は、ビルクダリオ奴隷を持つ事。
勿論、サルラス帝国内であっても、奴隷を連邦国から輸入する事は可能だが、周りからあまり良い目で見られない。
なのでビルクダリオ奴隷を持ちたい人は、必然的に、奴隷制度があり、王政や貴族が奴隷を当たり前に所持しているカルロスト連邦国へと、移住を決意するのだ。
するとどうなるか。
ビルクダリオの中から、奴隷に駆り出される頻度が増える。
よって、ビルクダリオの生活は、困窮へと陥るばかり。
ビルクダリオの生活水準は常に下がり続け、必然的に、カルロスト連邦国内でのサルラス移民の生活水準が上がり続ける。
そう云った、無罪なビルクダリオが陥れられる。
その体制が、尚激化し続けているのが、今の現状である。
そう聞いていると、サルラス帝国民全員が悪いように思うかもしれないが、そう云う訳では無い。
サルラス帝国人は、主に三つに分けられる。
先ず、全体の大半を占める、ビルクダリオには興味が無く、一般的な、アルゾナ王国民などと同じ様に、家庭を持ち、働き、収入を得て、生活する人々。
そしてあまりの大半を占める、ビルクダリオ奴隷を欲す人々。
サルラス帝国内では軽蔑されがちなので、そう云った人は先ず、サルラス帝国に残らない。
よって大半は、カルロスト連邦国に住んでいるのだ。
そして三つ目が……………………
……………………………………
「そんな困窮に陥るビルクダリオを、救おうとする人々。」
グリリアが、静かにそう言う。
「少なくとも私は、その中の一人であると思っている。この国へと移住したのも、こう云った薬の知識で、一人でも多くのビルクダリオを救おうと思ったから。」
その後、一つため息を吐き、俯いた後、続けた。
「だが現実はどうか。初めは皆、満足に薬を買って、病が治る度に『ありがとう』と言いに来てくれたが、私がサルラス人である事が広まった途端、店の収入は激減し、客がこの店へ足を運ぶ事は無くなった。こんなに尽くしても、出生国の差異による差別というのは、解消される訳では無いんだ。」
暫く、場も沈黙が包み込んだ。
一つ大きな呼吸をしてしまっただけで首を斬られそうな、そんな緊迫した空気感の中で、グリリアは再び口を開いた。
「だが私は、幸運にも良妻に恵まれた。純白のその肌は、彼女をベールに包み、整った顔立ちは、皆の心を温め続けた。如何にも清楚な容姿をしているのにも関わらず、彼女の性格は、その容姿からは一切連想されない程に、気さくで明るい人物だった。いつも笑顔を絶やさず、私に名を呼ばれたときには、嬉しそうに、太陽の様な笑みと、真珠の様なその目で、私の目をしっかりと見る。その度に、今までの差別での精神的疲労が、解消されていく気がした。
何しろ彼女は、近くのスラムでも、人情に厚く優しい、スラム一信頼出来る人物として、有名であった。そしてその彼女が、サルラス人である私と結婚したのだから、当然彼女を信頼していた者も、徐々に私を信頼してくれた。客も増え、再び店の経営は安定した。それはひとえに、彼女のおかげだった。そんな彼女が、私は大好きだった。
だがある日、彼女は、突然家に押し入ってきた糞貴族に嬲られ、連れ去られた。忘れていたのだ、私は。此処は奴隷大国。ビルクダリオは、いつ自分も奴隷にされるのかと云った恐怖に耐えながら生きている。それは、彼女も例外では無かったのだ。今更ながら思い出した。これがこの国の当たり前なのだ。
その日から、『彼女が連行されたのは、あの薬師が貴族に彼女を売ったからだ』と云った、事実無根の噂がスラム中を駆け回り、また、客足が途絶えた。彼女はビルクダリオ、私はサルラス人。何方が、他のビルクダリオに尊重されるか。簡単な話だ。当然、ビルクダリオである彼女が、スラム民の保護対象となる。そんな当たり前の、この国の常識。平和に自惚れ、忘れていたのだ。」
再びグリリアは、深呼吸をした。
「私の、この国に来た目的は何だ。そうだ、一人でも多くのビルクダリオを救う事だ。だがどうだ。たった一人の妻すら、助けられていないじゃ無いか。そんなので、この国が救えるものか。
そうだ、自分は無力だったのだ。一層の事、私など居なければ、彼女も死なずに、生きていたのかもしれないな。」
「いいや、一つ間違いがあるな。」
グリリアの話に、突然エルダが入ってきた。
「グリリアが薬を売ってくれたおかげで。俺の母さんは、長い間生きる事が出来た。最終的には薬を盗まれて死んじゃったが、そこまで母さんを生かしてくれたのは、紛れもなく、グリリアなんだよ。誰も助けれていないんじゃ無い。少なくとも、俺の母さんの命は救っていた。
そこまで自分を卑下しないでくれ。グリリアが居たおかげで、この国に来てくれたおかげで、一秒でも多く、母さんと一緒に過ごす事が出来たのだから。」
それを聞いて、グリリアは少し顔を背けた。
「そうか。………………ありがとう。」
グリリアは、静かにそう言った。
少し、この場の空気が、軽くなった気がした。