樹海に足を踏み入れて、一体どれだけ経ったのだろうか。
 特に変わり映えしない風景を何日も見ながら、森の中を歩いていた。
 エルダは、持ってきた大量の食料を少しずつ消費しながら、森を歩いていた。


 そしてある日、高い門が聳え立つ場所に出た。
 その横には、高い壁がズンと佇んでいる。
 人間一人では到底登れないような高さで、その門の前には、鉄の鎧を着た男が二人立っていた。
 門を覗くと、そこには、レンガや石でできた立派な建造物が、無数に立ち並んでいるのが見えた。
 エルダは、その光景に唖然とした。
 自分が育ってきたあの集落が普通だと思っていたので、こんな立派な建物を見てエルダは、これらはきっとお偉いさんの家なのだろうと、勝手に解釈した。

 エルダは、何の躊躇もなく、門にいた門兵に近付いた。
 すると、門兵の持っていた槍で、道を塞がれた。
 「通行証や身分証明証は?」
 兵の一人が、エルダにそう言った。
 「通行証…………って、何ですか?」
 エルダは、兵に問い返した。
 スラムで育ったエルダには、当然一般教養や一般常識など一切身についておらず、通行証どころか、その存在自体理解していなかった。
 「………………はぁ。」
 それを聞いた門兵の一人が、深いため息をついた。
 「そんなもんもわからないなら、話にならねぇ。さっさと帰んな。」
 兵がそう言い、手で追い払うような動作をした。
 エルダは、何故帰されなきゃならないのかが理解出来ず、疑問に思いつつも、帰れと言われたので帰ろうとした。
 その時だった。
 「あのー………………」
 門の奥から、別の兵が、帰ろうとするエルダに声をかけた。
 「すまんが、名前を教えて貰っても良いかね?」
 少し歳のとったその兵が、エルダに問うた。
 「…………エルダ・フレーラですが……………………」
 エルダが、少しとぼけながら言うと、その男が慌て出した。
 そして道を阻んでいた兵の肩を強く叩き、早口で言った。
 「おい! 早く道を開けろ!」
 「でも此奴、通行証も身分証明書も持っていないんだぜ?」
 「良いから! 言う通りにしろ!!」
 「………………分かりました。」
 そう言って道を阻んでいた兵は、槍を下ろし、道を開けた。
 「どうぞお入りください、エルダ様。」
 そう言って、名前を聞いた兵が一礼した。
 「ようこそ、アルゾナ王国へ。」


 困惑を隠せないまま、エルダは、門をくぐった。
 そして道を阻んだ兵は、問うた。
 「何で入国を許可したんだよ。」
 その問いに、名前を聞いた兵は、小さな声で教えた。
 「あの方は、マグダ様のご子息だ。」
 「マジで? …………あの方が………………」
 二人は、呆然と、奥へと進むエルダを眺めていた。




 エルダは、あてもなく、街道をトボトボと歩いた。
 先ず、此処が何処なのかも分からないし、自分が何をしているのか、あの門兵の対応の差は何だったのか。
 それに、「エルダ様」って………………
 エルダは、困惑が隠せないなか、街道を歩いた。


 そんな時だった。
 「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
 後ろの方から、少し掠れた、男性の老人の声が聞こえた。
 エルダは、まさか自分が呼ばれているとは思わず、その呼び掛けを無視した。
 「ちょ、ちょ………………」
 その老人は、いきなり、エルダの右肩をガシッと掴み、激しい息切れを見せた。
 「な、何ですか……………………?」
 エルダは、困惑を隠しきれない。
 「もしかして、エルダかい?」
 老人が、汗だくになりながら、そう言った。
 「そ、そうですが……………………?」
 そんな老人に少し引きながらも、エルダは返答した。
 「やっぱり。あの門兵の話は本当だったんだな。」
 そう言って老人は、額の汗をゴツい手首で拭い、微かな笑みを浮かべた。

 エルダは、何故見ず知らずの男が自分の名を知っているのか困惑したが、老人の言葉で理解した。
 恐らくこの老人は、あの時門に居た門兵の知り合いで、そいつからエルダの事を知ったのだ。
 だが何故、それ程までにエルダの名を重要視するのか。
 エルダが常々、疑問に思った。


 その後エルダは、その老人の家へ招かれた。
 普通なら怪しむものだが、一般常識が無いエルダは、遠慮なくその老人について行った。
 老人の名は、グルダス・ベルディアと言うらしい。
 見た所、歳は六・七十前後といったところだ。
 腰は曲がっていないが、顔や手の皮膚が弛み、眉毛が長い。
 その年季の入ったゴツい皺皺(しわしわ)の手は、とても暖かく、優しかった。


 家に着いた。
 そこに佇むのは、一面が橙の煉瓦で覆われた、五階建てほどの高い建物。
 「こんな豪邸で一人暮らしなんて………………」
 エルダがそう呟くと。
 「そんな訳あるかい。この建物の三階がわしの家じゃよ。」
 「そっか………………」
 グルダスは、それでそこまで豪邸では無いと言い張ったつもりであったが、スラム育ちのエルダからしたら、三階だけであっても、豪邸であった。

 グルダスの家に入った。
 それを見て、エルダは脱帽した。
 床や壁に砂は無く、埃すら無い。虫もいなくて、頑丈な外壁で作られていた。
 エルダの育った家は、風が吹けばヒューヒュー五月蝿いし、雨漏りは茶飯事。地面には風で運ばれた砂が大量にあり、足の裏を汚してしまうことも屡々(しばしば)。ベッドの下は虫達の住処で、家の光源は日光か火の灯り。
 それに比べてこの部屋は、電灯で、一日中明るい。
 雨漏りもしない。

 こんな家が存在したのだと、エルダは呆然と立ち尽くした。

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 「確か、時々村に来た行商人も、こんな家の話をしていたような………………」

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 ふとエルダはそう思ったが、何故そう思ったのかが分からず、これを夢だと思い、考えるのを放棄した。


 玄関に入り、居間まで歩いた。
 何時迄(いつまで)もキョロキョロしているエルダを、グルダスは、クスリと鼻で笑った。
 そんな事に一切気付いていないエルダは、未だに、目をキョロキョロさせていた。


 暫くして、やっと落ち着いたエルダは、目の前にある椅子に座り込んだ。
 「うわっ、何だこの椅子?! ふわふわしてるぞ!!」
 「そんな騒ぐな。その椅子は、表面の布の中に動物の毛を入れてふわふわにしとるんじゃよ。」
 「ほえぇぇぇ…………」
 勿論こんな物、エルダは見たことも聞いたこともなかった。
 この椅子の凄くいい座り心地に、エルダは驚愕した。



 そしてまた暫く経ち。

 エルダも落ち着き、グルダスも、前にあった椅子に座った。
 「エルダ。」
 グルダスは、真剣な顔でその名を呼んだ。
 「これから暫く、わしはお前に、この世界の一般常識と一般教養、そして、魔法理念を教える。いいな?」
 突然の提案で、エルダも困惑した。
 一般常識、一般教養。エルダに足りていない物だが、エルダ自身はその事実も、その二つの言葉さえも、イマイチ理解していなかった。
 「あ、あぁ。わかった。」
 エルダは、何の提案なのか全く理解していなかったが、つい流れで了承してしまった。

 それを聞いたグルダスは、席を立ち、エルダに向かって、ゴツい右手を出した。
 エルダはその手を取り、ガッチリと握手を交わした。
 「これから暫く、宜しくなぁ。」
 「あ、あぁ。」
 困惑しながらぎこちない返事をするエルダの眼前に映っていたのは、満面の笑みを浮かべるグルダスの顔だった。