奏お姉ちゃんとのデートが終わってから、1ヶ月と半分が過ぎた。あの日から奏お姉ちゃんが少しおかしくなったような気がする。
なんと言うか、私にだけ少し意地悪と言うべきか小悪魔と言うべきか……。とにかく少し変わったのだ。
私だけ少し無視したり、ちょっと毒のある言葉を吐いたり。かと思うと、頭を撫でてくれたり、手を繋いでくれたり、少し過剰にスキンシップを取ってきたり甘えてきたりと、今までになかった言動をしているのだ。
何が原因かはわからない。検討もつかない。だからどうしようもない。故に少し振り回されている。そんな奏お姉ちゃんもかわいいんだけど、元の奏お姉ちゃんも良かっただけにどっちつかずな感情だ。
そんな私だが立ち止まってはいられない。私の学校では文化祭は6月に行われる。公立校だから大掛かりなものではないが、楽しいイベントには違いない。
それで、私達のクラスは教室でカフェをする事になった。コーヒーと簡単な料理を出すという感じだ。
将来的にカフェを開きたい私はカフェの運営に携わる事になった。奏お姉ちゃんと二人で運営するので楽しみだ。
そして料理の方だが、楓が立候補して担当すると言うのだ。料理が得意と言っていたから別にいいんだけど、一体どのくらいのレベルなのかが気になった。なので、休みの日に楓の家に行って楓の作る料理を実際に食べようという話になった。
本当は奏お姉ちゃんも一緒にと思ったが、楓の反応があまりよろしくないから私一人で行くことになった。寂しいけど仕方ない。
それで今日がその当日。時間は午後1時。料理を食べるので何も食べずに楓の家に向かっている。事前に教えてもらった住所によるとこの辺だが……。あっ、あの家かな? 私はそれらしき家を見つけた。
5軒ほど並ぶ一軒家の1番手前側。薄いネイビーの様な屋根に明るい焦茶色を基調とした家。表札にも秋葉と書かれている。この家に違いないだろう。
私は少しドキドキしながらチャイムを鳴らす。20秒後。ガチャっとドアが開くと共に、楓が出てきた。
「あっ、美優羽さん! ようこそいらっしゃいました」
楓は少し上擦った声をしていた。そんなに緊張しなくてもと思うが、楓が家に友達をあげるのは初めてらしいから仕方ないのかもと思った。
「来たわよ。今日は料理楽しみにしてるわ」
「ええ。自信がありますので。是非ご堪能下さい」
楓のメガネがキラリと光った様に見えた。そのくらい自信があるのか。楽しみだなあ。私の心はとても踊っていた。
楓に招かれる様に家に入る。楓の家は私の家ほどではないが、そこそこ広い。そして派手さもなく、綺麗に整理整頓されていてとても落ち着く印象を受ける。
「あっ、こちらの部屋です。どうぞ」
そう言って部屋に案内される。入ると大きめの部屋で手前側にキッチンがある。なるほど。作った料理をすぐ持って来れる様に、この部屋に案内してくれたわけか。
そして、奥の大きなテレビの前のソファーには楓のお父さんと思われる方が座っていらっしゃる。遠くから見ても分かるくらい、とても大柄な方だと言うのが分かる。髪は少し白髪混じりと言った感じだ。
「パパ。美優羽さんが来たよ」
楓がそう呼びかけると、テレビの電源を切ってこちらに来た。なんだろう? 何かあるのかな? ちょっと怖くなってきた。
「よくぞいらっしゃいました。美優羽さん。今日はどうぞよろしくお願いします」
そう言って楓のお父さんは深々と頭を下げてきた。
「いえいえ。何もそんな。私はただ遊びに来ただけですので……」
「美優羽さんには娘がよくしていただいてると聞いていますので。楓。楓は料理を作ってきなさい。美味しい料理を作るんだぞ」
優しい表情で楓のお父さんは楓に言う。楓は微笑んでいる。性別は違うけど、この表情はお父さんの面影があるなあ。私はそう感じた。
「わかってるよパパ。今日はハンバーグオムライスを作りますので。それでは作ってきます」
そう言って楓はキッチンへと向かっていった。私は楓のお父さんに促され、近くのテーブルへと案内され座った。
さて、席に着いたはいいが……話す話題がない。楓となら最近貸した小説の感想とかを聞けばいいが、楓のお父さんとはそういう関係ではない。
それに、なんだかとても深刻な表情をしている。とても何かを考え込んでいる様だ。何か気に障る様なことでもしたかなあ? ひょっとして、娘の前だからいい態度しただけで私のことが気に入らない。その可能性もあるのかもしれない。
私がそんな警戒をしている時だった。
「美優羽さん。娘と仲良くしてくださってありがとうございます」
そう言いながら、楓のお父さんは机に頭がつくくらい深々と頭を下げた。突然の事に私はパニックになった。
「えぇっ。そんなっ。私はただ仲良くしているだけですよ? 別にそんな特別な事を――」
「その仲良くが、楓にとっては特別なんです」
その声は静かだが、並々ならぬ想いが籠った様なものだった。仲良くが特別? どういう事だろうか? 私は察することができなかった。
「娘は幼い頃から同級生から酷い虐めを受けていました」
楓のお父さんは静かに語り出した。楓がイジメを受けていた。私は初めて聞いた事実に衝撃を受けていた。知らなかった。そんな事。楓は一言も言ってなかったのだから当然だが、それでもそんな様子を見せた事一度もなかった。
ただ、今考えれば私と初めて話した時に少し辿々しかったのはその影響もあったのかもしれない。そうに違いない。私はそう考えた。
「ここに引っ越す前は学校に行けばアザができたり、教科書が破かれたりするのは当たり前。物がなくなることも珍しくはありませんでした。メガネだって、何度も壊され、何度も隠されてそのまま見つからないという事もありました。ずぶ濡れで帰って来た日も数え切れない程あります。火傷の様な跡をつけられたことだって……。ここでは言えない様なことも沢山されてきました」
聞けば聞くほど壮絶な話だった。こんなことされれば、人が怖くなるのではないだろうか。私なら誰も信用できなくなる。そのくらい酷い話だ。楓のお父さんは話を続ける。
「私も妻も、学校に何度も問い合わせました。何度も担任の先生方に訴えました。しかし、誰も取り合ってくれませんでした。そんな酷い虐めを受けた子がいるという事が発覚するのが怖かったからです。その度に私も妻も、無力感を感じていました」
私はただ黙って話を聞くしかなかった。言葉が出なかった。こんな酷い事が現実に起きていたという事実に驚きと言うか何と言うか。とにかく何も言えない感情になっていた。
「そんな状態でも娘は学校に行ってたんです。毎日欠かすことなく。私達は行かなくてもいいよと、何度も声を掛けました。それでも笑顔で行ってきますと言うんです。嫌だという気持ちも伝わってくるんです。でも行くんです。私達に心配をかけまいと気丈に振る舞って。家でも明るく振る舞って……。それを見ると悔しくて悔しくて情けなくて堪らなかったです……。親として何もできない。けど娘に気を遣わせてしまっている現状に……。けど、親だから帰り道で泣いて帰ってきてるのもわかってるんです。でも、何もできないし、声を掛けることしかできなかった自分達の無力感を毎日感じて過ごしてました……」
所々涙を流しながら、楓のお父さんは語っていた。私も涙が出てきそうになっていた。楓の芯の強さに感動するしかなかった。
「せめてもの罪滅ぼしに、幸いにもお金はあったのでこの街に家を建てて引っ越して、新しい環境にしてあげようと。娘には仕事の都合と言いましたが、本当はそれが目的でした。それでこの街にやってきたんです。そしたらある日、泣いて学校から帰ってきたんです『パパ。同級生の子と初めて仲良く話せたよ』って言って。信じられませんでした。今まで虐められた娘と仲良くして下さる人がいらっしゃるなんて。私も娘も夢を見ているかの様でした。それが、あなただったんです。それからも娘と仲良くしてくださり、交友関係も広げてくださった。娘も気を遣った笑顔じゃなくて、本当に喜んでいる笑顔を見せてくれる様になりました。学校にも本当に楽しいから行く様になってくれたんです。感謝してもしきれません。美優羽さん、あなたには。あなたがいなければ、娘はまだ気丈に振る舞っていたかもしれません。楽しくないのに無理していたのかもしれません。今の楓は全部あなたのお陰なんです。だから、これからも、娘をよろしくお願いします」
涙声のまま楓のお父さんは再び深々と頭を下げた。私はこちらこそ、と涙を堪えて返事を返した。
私は誓った。楓にはこれから辛い想いをさせずに、楽しい事だけを私のいる範囲ではさせてあげようと。楽しい記憶で、辛かった記憶全て上書きできるくらい、楓に楽しい想いをさせてあげようと。
「そろそろできるよー、って二人ともどうしたの⁈」
何も知らない楓がこちらに来るなり、驚きの表情を浮かべていた。
「楓、私は絶対楓に悲しい思いはさせないから」
「そ、それは嬉しいんですが……。パパ? もしかして喋っちゃったの?」
「美優羽さん目にしたら、止まらなくなっちゃったよ」
楓のお父さんは少し申し訳なさそうに笑みを浮かべている。それを見て、楓はため息を吐いていた。
「美優羽さんにそんなの背負って欲しくなかったから言わないでって言ったのに……。それに、私は今最高に楽しいから、過去の事なんてどうでもいいの。今十二年分楽しめているから、それでいいの」
楓は誇らしそうにしていた。そっか。楓は私との今を本当に楽しいと思ってくれていたのか。ならばよかった。そのまま楓の言う様に過去の事をどうでもいいと思えるくらい、楽しくさせよう。そう改めて決めた。
それにしたって楓は強い子だ。あんな事をされたのに、今前をちゃんと向けている。しっかりと生きている。私も見習わなくちゃいけないな。
その後、楓のお父さんと楓からこの話は秘密にしておく様にと言われた。まあ知られたくないだろうし、私は言う気はない。本人が言わない限り、おそらく墓場まで持っていくだろう。
そう言えば楓の過去の話で忘れかけていたが、今日の料理はハンバーグオムライスと言っていたと思う。
ハンバーグとオムライスと言う組み合わせだから間違いなく美味しいに決まっている。私はワクワクしながら料理を待った。
少しすると、お皿が運ばれてきた。そこには小さく盛られたチキンライスが見える。あれ? オムライスと聞いてたが、チキンライスだけとはどう言う事だろうか?
「あっ、ハンバーグとオムライスはこれから乗せますね」
そう言って、楓はキッチンの方からフライパンを持ってきた。その中には熱々のハンバーグが入っていた。それを楓はチキンライスの上にそっと乗っける。これだけでも中々いい眺めだ。
「オムの部分は今から作りますね」
そう言ってそのフライパンをキッチンへと持っていく。2分ほど経ち、こちらに戻ってくる。もしや、動画サイトとかでよく見るあのパッカーンと開くタイプのオムなのだろうか? そう思いながら、フライパンを見る。その通りの様だ。
楕円形に丸められた卵は美しく、美味しそうに見える。これ作るの相当腕がないと無理なはずだ。
丸めるのも難しいが、破らない事も難しい。そのどちらもこなさないといけないのだから、相当難しいのだ。
毎日料理をしている私でもできない芸当だ。それをやってのけるのだから、楓は相当な腕利きだ。
スッと迷いなくオムをハンバーグの上に乗せる。見事綺麗に乗る。そして、ナイフを取り出して、パッカーンとオムを開く。開かれた中はトロトロといかにも美味しいですよと言う雰囲気を醸し出している。
その皿をキッチンに持っていく。これ以上何をするのか。その答えはすぐにわかった。特製のデミグラスソースを周りに掛けていたのだ。これは美味しそう以外の言葉が見つからない。そして、食べるのが惜しいくらい美しい見た目だ。
「ねえ、楓! 写真撮っていい?」
「ええ。いいですよ」
楓に言われると何枚も色んな角度から写真を撮った。これを残しておかないのはもったい無い。心置きなく写真を撮った後はいよいよ実食。まあ食べなくたって美味しいとは思うが、食べよう。
パクっとデミグラスソースの掛かったオムとハンバーグ、チキンライスを口に入れる。
これは、想像通りと言うかそれ以上に美味い。こんな料理を高校生が作れていいのだろうか? そんなレベルだ。
卵の火加減はバッチリでトロトロ感が半端ない。ハンバーグも肉汁が溢れてきて口の中を美味いで支配する。チキンライスはそれらを邪魔せず、かと言って消える事なくちゃんとケチャップの味を主張させる。
それらをまとめ上げるのがデミグラスソース。主役達をちゃんと輝かせるバランスの良い味だ。こんなの食べたら元の料理に戻れなくなってしまう。私は美味しいの空間に吸い込まれていってしまった。
「楓……。これ美味しすぎるよ。高校生レベルじゃない。プロだよプロ。文化祭でこんなの出したら人だかりができちゃうよ。間違いなく」
私は楓を褒めちぎる。楓は照れ照れと言う感じだ。
「そ、そうですか。けど一人で何十人分も作れないですし、全員がこれを出来るとは思えないのでもっと簡易的なものになりますが……。もちろんレシピにして料理担当の人には配ります」
楓はそう提案する。まあその通りだろう。これを全員が作れるなら、地球上に料理下手はいない。だから簡易的なものにするのは賛成だ。あと、レシピを配るのも。楓の味を再現出来るならそうした方がいいだろう。
「いいわね。そうするわ。じゃあ、明日からレシピを作らないとね」
「そうですね。と言っても、私の持っている料理ノートをコピーするだけで済みそうですが」
料理ノート⁈ そんなものまで作ってたとは……。楓恐るべし。だからそんなに料理が美味いのかもしれない。私はそう思った。
なんと言うか、私にだけ少し意地悪と言うべきか小悪魔と言うべきか……。とにかく少し変わったのだ。
私だけ少し無視したり、ちょっと毒のある言葉を吐いたり。かと思うと、頭を撫でてくれたり、手を繋いでくれたり、少し過剰にスキンシップを取ってきたり甘えてきたりと、今までになかった言動をしているのだ。
何が原因かはわからない。検討もつかない。だからどうしようもない。故に少し振り回されている。そんな奏お姉ちゃんもかわいいんだけど、元の奏お姉ちゃんも良かっただけにどっちつかずな感情だ。
そんな私だが立ち止まってはいられない。私の学校では文化祭は6月に行われる。公立校だから大掛かりなものではないが、楽しいイベントには違いない。
それで、私達のクラスは教室でカフェをする事になった。コーヒーと簡単な料理を出すという感じだ。
将来的にカフェを開きたい私はカフェの運営に携わる事になった。奏お姉ちゃんと二人で運営するので楽しみだ。
そして料理の方だが、楓が立候補して担当すると言うのだ。料理が得意と言っていたから別にいいんだけど、一体どのくらいのレベルなのかが気になった。なので、休みの日に楓の家に行って楓の作る料理を実際に食べようという話になった。
本当は奏お姉ちゃんも一緒にと思ったが、楓の反応があまりよろしくないから私一人で行くことになった。寂しいけど仕方ない。
それで今日がその当日。時間は午後1時。料理を食べるので何も食べずに楓の家に向かっている。事前に教えてもらった住所によるとこの辺だが……。あっ、あの家かな? 私はそれらしき家を見つけた。
5軒ほど並ぶ一軒家の1番手前側。薄いネイビーの様な屋根に明るい焦茶色を基調とした家。表札にも秋葉と書かれている。この家に違いないだろう。
私は少しドキドキしながらチャイムを鳴らす。20秒後。ガチャっとドアが開くと共に、楓が出てきた。
「あっ、美優羽さん! ようこそいらっしゃいました」
楓は少し上擦った声をしていた。そんなに緊張しなくてもと思うが、楓が家に友達をあげるのは初めてらしいから仕方ないのかもと思った。
「来たわよ。今日は料理楽しみにしてるわ」
「ええ。自信がありますので。是非ご堪能下さい」
楓のメガネがキラリと光った様に見えた。そのくらい自信があるのか。楽しみだなあ。私の心はとても踊っていた。
楓に招かれる様に家に入る。楓の家は私の家ほどではないが、そこそこ広い。そして派手さもなく、綺麗に整理整頓されていてとても落ち着く印象を受ける。
「あっ、こちらの部屋です。どうぞ」
そう言って部屋に案内される。入ると大きめの部屋で手前側にキッチンがある。なるほど。作った料理をすぐ持って来れる様に、この部屋に案内してくれたわけか。
そして、奥の大きなテレビの前のソファーには楓のお父さんと思われる方が座っていらっしゃる。遠くから見ても分かるくらい、とても大柄な方だと言うのが分かる。髪は少し白髪混じりと言った感じだ。
「パパ。美優羽さんが来たよ」
楓がそう呼びかけると、テレビの電源を切ってこちらに来た。なんだろう? 何かあるのかな? ちょっと怖くなってきた。
「よくぞいらっしゃいました。美優羽さん。今日はどうぞよろしくお願いします」
そう言って楓のお父さんは深々と頭を下げてきた。
「いえいえ。何もそんな。私はただ遊びに来ただけですので……」
「美優羽さんには娘がよくしていただいてると聞いていますので。楓。楓は料理を作ってきなさい。美味しい料理を作るんだぞ」
優しい表情で楓のお父さんは楓に言う。楓は微笑んでいる。性別は違うけど、この表情はお父さんの面影があるなあ。私はそう感じた。
「わかってるよパパ。今日はハンバーグオムライスを作りますので。それでは作ってきます」
そう言って楓はキッチンへと向かっていった。私は楓のお父さんに促され、近くのテーブルへと案内され座った。
さて、席に着いたはいいが……話す話題がない。楓となら最近貸した小説の感想とかを聞けばいいが、楓のお父さんとはそういう関係ではない。
それに、なんだかとても深刻な表情をしている。とても何かを考え込んでいる様だ。何か気に障る様なことでもしたかなあ? ひょっとして、娘の前だからいい態度しただけで私のことが気に入らない。その可能性もあるのかもしれない。
私がそんな警戒をしている時だった。
「美優羽さん。娘と仲良くしてくださってありがとうございます」
そう言いながら、楓のお父さんは机に頭がつくくらい深々と頭を下げた。突然の事に私はパニックになった。
「えぇっ。そんなっ。私はただ仲良くしているだけですよ? 別にそんな特別な事を――」
「その仲良くが、楓にとっては特別なんです」
その声は静かだが、並々ならぬ想いが籠った様なものだった。仲良くが特別? どういう事だろうか? 私は察することができなかった。
「娘は幼い頃から同級生から酷い虐めを受けていました」
楓のお父さんは静かに語り出した。楓がイジメを受けていた。私は初めて聞いた事実に衝撃を受けていた。知らなかった。そんな事。楓は一言も言ってなかったのだから当然だが、それでもそんな様子を見せた事一度もなかった。
ただ、今考えれば私と初めて話した時に少し辿々しかったのはその影響もあったのかもしれない。そうに違いない。私はそう考えた。
「ここに引っ越す前は学校に行けばアザができたり、教科書が破かれたりするのは当たり前。物がなくなることも珍しくはありませんでした。メガネだって、何度も壊され、何度も隠されてそのまま見つからないという事もありました。ずぶ濡れで帰って来た日も数え切れない程あります。火傷の様な跡をつけられたことだって……。ここでは言えない様なことも沢山されてきました」
聞けば聞くほど壮絶な話だった。こんなことされれば、人が怖くなるのではないだろうか。私なら誰も信用できなくなる。そのくらい酷い話だ。楓のお父さんは話を続ける。
「私も妻も、学校に何度も問い合わせました。何度も担任の先生方に訴えました。しかし、誰も取り合ってくれませんでした。そんな酷い虐めを受けた子がいるという事が発覚するのが怖かったからです。その度に私も妻も、無力感を感じていました」
私はただ黙って話を聞くしかなかった。言葉が出なかった。こんな酷い事が現実に起きていたという事実に驚きと言うか何と言うか。とにかく何も言えない感情になっていた。
「そんな状態でも娘は学校に行ってたんです。毎日欠かすことなく。私達は行かなくてもいいよと、何度も声を掛けました。それでも笑顔で行ってきますと言うんです。嫌だという気持ちも伝わってくるんです。でも行くんです。私達に心配をかけまいと気丈に振る舞って。家でも明るく振る舞って……。それを見ると悔しくて悔しくて情けなくて堪らなかったです……。親として何もできない。けど娘に気を遣わせてしまっている現状に……。けど、親だから帰り道で泣いて帰ってきてるのもわかってるんです。でも、何もできないし、声を掛けることしかできなかった自分達の無力感を毎日感じて過ごしてました……」
所々涙を流しながら、楓のお父さんは語っていた。私も涙が出てきそうになっていた。楓の芯の強さに感動するしかなかった。
「せめてもの罪滅ぼしに、幸いにもお金はあったのでこの街に家を建てて引っ越して、新しい環境にしてあげようと。娘には仕事の都合と言いましたが、本当はそれが目的でした。それでこの街にやってきたんです。そしたらある日、泣いて学校から帰ってきたんです『パパ。同級生の子と初めて仲良く話せたよ』って言って。信じられませんでした。今まで虐められた娘と仲良くして下さる人がいらっしゃるなんて。私も娘も夢を見ているかの様でした。それが、あなただったんです。それからも娘と仲良くしてくださり、交友関係も広げてくださった。娘も気を遣った笑顔じゃなくて、本当に喜んでいる笑顔を見せてくれる様になりました。学校にも本当に楽しいから行く様になってくれたんです。感謝してもしきれません。美優羽さん、あなたには。あなたがいなければ、娘はまだ気丈に振る舞っていたかもしれません。楽しくないのに無理していたのかもしれません。今の楓は全部あなたのお陰なんです。だから、これからも、娘をよろしくお願いします」
涙声のまま楓のお父さんは再び深々と頭を下げた。私はこちらこそ、と涙を堪えて返事を返した。
私は誓った。楓にはこれから辛い想いをさせずに、楽しい事だけを私のいる範囲ではさせてあげようと。楽しい記憶で、辛かった記憶全て上書きできるくらい、楓に楽しい想いをさせてあげようと。
「そろそろできるよー、って二人ともどうしたの⁈」
何も知らない楓がこちらに来るなり、驚きの表情を浮かべていた。
「楓、私は絶対楓に悲しい思いはさせないから」
「そ、それは嬉しいんですが……。パパ? もしかして喋っちゃったの?」
「美優羽さん目にしたら、止まらなくなっちゃったよ」
楓のお父さんは少し申し訳なさそうに笑みを浮かべている。それを見て、楓はため息を吐いていた。
「美優羽さんにそんなの背負って欲しくなかったから言わないでって言ったのに……。それに、私は今最高に楽しいから、過去の事なんてどうでもいいの。今十二年分楽しめているから、それでいいの」
楓は誇らしそうにしていた。そっか。楓は私との今を本当に楽しいと思ってくれていたのか。ならばよかった。そのまま楓の言う様に過去の事をどうでもいいと思えるくらい、楽しくさせよう。そう改めて決めた。
それにしたって楓は強い子だ。あんな事をされたのに、今前をちゃんと向けている。しっかりと生きている。私も見習わなくちゃいけないな。
その後、楓のお父さんと楓からこの話は秘密にしておく様にと言われた。まあ知られたくないだろうし、私は言う気はない。本人が言わない限り、おそらく墓場まで持っていくだろう。
そう言えば楓の過去の話で忘れかけていたが、今日の料理はハンバーグオムライスと言っていたと思う。
ハンバーグとオムライスと言う組み合わせだから間違いなく美味しいに決まっている。私はワクワクしながら料理を待った。
少しすると、お皿が運ばれてきた。そこには小さく盛られたチキンライスが見える。あれ? オムライスと聞いてたが、チキンライスだけとはどう言う事だろうか?
「あっ、ハンバーグとオムライスはこれから乗せますね」
そう言って、楓はキッチンの方からフライパンを持ってきた。その中には熱々のハンバーグが入っていた。それを楓はチキンライスの上にそっと乗っける。これだけでも中々いい眺めだ。
「オムの部分は今から作りますね」
そう言ってそのフライパンをキッチンへと持っていく。2分ほど経ち、こちらに戻ってくる。もしや、動画サイトとかでよく見るあのパッカーンと開くタイプのオムなのだろうか? そう思いながら、フライパンを見る。その通りの様だ。
楕円形に丸められた卵は美しく、美味しそうに見える。これ作るの相当腕がないと無理なはずだ。
丸めるのも難しいが、破らない事も難しい。そのどちらもこなさないといけないのだから、相当難しいのだ。
毎日料理をしている私でもできない芸当だ。それをやってのけるのだから、楓は相当な腕利きだ。
スッと迷いなくオムをハンバーグの上に乗せる。見事綺麗に乗る。そして、ナイフを取り出して、パッカーンとオムを開く。開かれた中はトロトロといかにも美味しいですよと言う雰囲気を醸し出している。
その皿をキッチンに持っていく。これ以上何をするのか。その答えはすぐにわかった。特製のデミグラスソースを周りに掛けていたのだ。これは美味しそう以外の言葉が見つからない。そして、食べるのが惜しいくらい美しい見た目だ。
「ねえ、楓! 写真撮っていい?」
「ええ。いいですよ」
楓に言われると何枚も色んな角度から写真を撮った。これを残しておかないのはもったい無い。心置きなく写真を撮った後はいよいよ実食。まあ食べなくたって美味しいとは思うが、食べよう。
パクっとデミグラスソースの掛かったオムとハンバーグ、チキンライスを口に入れる。
これは、想像通りと言うかそれ以上に美味い。こんな料理を高校生が作れていいのだろうか? そんなレベルだ。
卵の火加減はバッチリでトロトロ感が半端ない。ハンバーグも肉汁が溢れてきて口の中を美味いで支配する。チキンライスはそれらを邪魔せず、かと言って消える事なくちゃんとケチャップの味を主張させる。
それらをまとめ上げるのがデミグラスソース。主役達をちゃんと輝かせるバランスの良い味だ。こんなの食べたら元の料理に戻れなくなってしまう。私は美味しいの空間に吸い込まれていってしまった。
「楓……。これ美味しすぎるよ。高校生レベルじゃない。プロだよプロ。文化祭でこんなの出したら人だかりができちゃうよ。間違いなく」
私は楓を褒めちぎる。楓は照れ照れと言う感じだ。
「そ、そうですか。けど一人で何十人分も作れないですし、全員がこれを出来るとは思えないのでもっと簡易的なものになりますが……。もちろんレシピにして料理担当の人には配ります」
楓はそう提案する。まあその通りだろう。これを全員が作れるなら、地球上に料理下手はいない。だから簡易的なものにするのは賛成だ。あと、レシピを配るのも。楓の味を再現出来るならそうした方がいいだろう。
「いいわね。そうするわ。じゃあ、明日からレシピを作らないとね」
「そうですね。と言っても、私の持っている料理ノートをコピーするだけで済みそうですが」
料理ノート⁈ そんなものまで作ってたとは……。楓恐るべし。だからそんなに料理が美味いのかもしれない。私はそう思った。