これほどまでに、誰かを想ったことがあっただろうか。これほどまでに、一人のことを意識したことがあっただろうか。

 目線があっただけで、胸がぎゅっと締め付けられるようなことがあっただろうか。

 メールのやり取りが始まって一ヶ月が過ぎた今日。私はため息を吐きながら、勉強机に突っ伏して考えた。一体どうしてこうなったのだろうかと。

 最初のうちはただ純粋に、メールでのやり取りが楽しかった。相談の内容も軽いものだったから、気軽に答えられたし、なによりも趣味の事とか家での事とかを話すのはとてもおもしろかった。

 その頃は朱里ちゃんとの関係は何の変化もなかった。

 それが二週間くらい前からだろうか。雑談は相変わらず楽しかったけど、相談の内容が少しずつ重いものになってきた。

 私も真剣になって自分ならこうだと考えることが多くなり、私の好みに近い答えばかりになった。

 それでその答えを実験と称して私にやってくるのだ。私は段々と朱里ちゃんを意識するようになっていた。

 そして、一週間前に気づいてしまった。相談というのは建前で、本当は朱里ちゃんが私にアプローチするために、このやり取りをしているのだと。

 それからは、朱里ちゃんの前で平常心を保てなくなった。隣にいるだけで体温が急上昇するし、朱里ちゃんの一挙一動に心臓が高鳴り出す。いつもは真っすぐ見ていた目も、まともに見ることができなくなった。

 私はどうしていいのかわからなくなった。学校ではかっこいい王子様でいないといけないし、朱里ちゃんが見たいのもその私だ。

 でも、朱里ちゃんを前にするとそれができなくなってしまいそうになる。そうなったら、みんなが私から離れていってしまう。そうなるくらいなら、朱里ちゃんから一度離れて冷静になろう。

 そう考えた私は昨日から今に至るまで、朱里ちゃんを意図的に遠ざけた。あまり気は進まなかったし、悪い事をしているのも十分わかってはいた。

 それでも、一度落ち着きたかった。落ち着いて平常心を保てるようになってから、朱里ちゃんとは一緒にいたかった。

 だけど無理だった。距離を置いても、朱里ちゃんのことが頭から離れないし、傍にいないだけで、学校がとても寂しいものに感じてしまう。
 
 そしてなによりも、朱里ちゃんに会いたい気持ちは時間が経つごとに強くっていった。
 
 この二日間で、私が朱里ちゃんに恋をしているのは、はっきりと自覚できた。だけど、本当にこの想いを成就させていいのだろうか。
 
 朱里ちゃんが好きなのは学校での私で、今の私じゃないはずだ。そうでないなら、好きな先輩の設定を学校の私と同じにはしないはずだ。
 
 うぬぼれだけど、学校での私で告白をすれば確実に成功するだろう。間違いなく。
 
 問題はそこから先だ。私と付き合えばいつか必ず私の趣味に、本性に触れることになる。その時に朱里ちゃんのイメージを壊してしまう。
 
 そうなれば、朱里ちゃんは私を見放してしまうだろう。今までの人たちのように。
 
 朱里ちゃんから離れられたら、今の私は絶対に立ち直れない。これは間違いないだろう。今までの関係に戻れば、ばれることはないとは思う。

 だけど、今の私にはそれができない。
 
 私は朱里ちゃんを自分だけの子にしたい。朱里ちゃんが欲しい。そんな想いが、私の頭の中を常にぐるぐると駆け巡っている。
 
 一体どうすればいいのだろうか。私は、ベッドの片隅でうずくまっていた。
 
 それからしばらくして、ブルブルとスマートフォンが震えた。電源をつけて、何の通知なのかを確認してみると、一件メールを受信していた。

 もしやと思い、私はメールボックスを開く。送り主はやっぱり朱里ちゃんだった。
 
 メールが来たうれしさと、どんな内容なのかという不安で手が震える。そのせいで上手く操作できず、中々開くことができなかった。やっとの思いでメールを開くと、こう書かれていた。



“あした十時いつもの店に 絶対に来てください”



 
 私は黙って、わかったと返事を返した。
 
 ここが分岐点になるんだろうな。私の直観が静かにそう語った。





 翌日。私は待ち合わせの二十分前に店に着いた。美奈さんにどうしても相談をしておきたかったからだ。美奈さんが、スパッと何かいい答えをくれるかはわからない。それでも、この悩みを相談しておきたかった。
 
 幸い店には誰もいないようで、美奈さんは退屈そうにレジに座っている。私は決意を決めて、美奈さんに話しかけることにした。

「あの、美奈さん!」

「どうしたのかな? 顔を真っ赤にして」

 美奈さんに言われて、緊張していることに気づいた。わかってしまったせいで、心拍数がぐんぐん上昇していく。そのせいで中々次の言葉が出てこない。

 そんな私を美奈さんはキョトンと見つめている。そのまま時間も過ぎていく。
 
 早く、早く次の言葉を。次の言葉を言わないと。このままじゃ絶対に後悔する。私は唾をのみ込み、お腹の中から言葉を絞り出した。

「そ、相談したいことがあるんですが、いいですか?」

「ほう。相談ね……」

 相談という言葉を聞いて、美奈さんの表情が少し固くなっていた。ちゃんと真剣に聞いてくれるみたいで、少し安心できた。

 そこから私は、現状と私の悩みを話していった。所々たどたどしくはなったけど、上手く伝えられたのではないかと思う。

「なるほど。恋のお悩みねえ」

 美奈さんは考え込むように手を顎に当て、黙り込んだ。しばらくすると、うんうんと頷き顔をあげた。もしかすると、何か答えを出してくれたのかもしれない。

 そんな期待に胸を躍らせながらも、何を言われるのかという不安も少しずつ姿を現してきた。

「話をまとめると、女性同士で付き合うってことに悩んでいるんじゃないんだね」

「はい。そこはわかっていますし、何かされたり言われたりするかもっていう覚悟もできています」

 この答えを聞いて、美奈さんはなぜかクスっと笑っていた。

「それはご立派な覚悟だねえ。でも、そんな覚悟を持つ人間にしては、とてもくだらないことで悩んでいるみたいだね」

 くだらない……? 

 私は怒りに震えた。そのことでずっと苦しみ、悩んできた。それをくだらないの一言で片づけてしまうのが、許せなかった。

「おっと。そんなにらまない、にらまない。こんなこと言われて怒るのは私にだってわかる」

 だったら言わないでよっ! 奥歯を噛んで心の中で叫んだ。

「けどさ、私が朱里ちゃんだったら、今の話を聞いたら絶対に怒ると思うよ」

「朱里ちゃんは関係ないです!」

 語尾が荒々しくなる。今の私には、美奈さん言葉全てに敵意をむき出しにしてしまう。美奈さんはそんなのお構いなしに、涼しい顔を浮かべていた。

「でも君の好きな朱里ちゃんは、自分の理想と違っていたら手のひら返すように態度を変える、最低な人なんだよね。自分がそうされるかもしれないのに、よくそんな人を好きになれたね。びっくりするよ」

 美奈さんはまるで私を馬鹿にするかのようにあざ笑う。それを見た瞬間、私の中で何かがプツンと切れた。

「おっと危ない」

 美奈さんは襲い掛かる私の右手を左手で軽く払いのけると、私を挑発するように、ニヤリと笑っていた。

「こうやって手を出しちゃうってことは、違うって言いたいの?」

「朱里ちゃんは、そんなひどい人じゃない!」

「やっぱりそう思ってるんじゃないか。でも、君の話を聞いてたら、朱里ちゃんはそういう人にしか思えないんだけど。それはどうなの?」

「……っ?!」

 美奈さんの問いかけに、私はハッとさせられた。

「もしかすると、本当に朱里ちゃんはそういう人なのかもしれない。だけど、告白する前から相手をそうやって決めつけていいの? そうやって逃げてどうするの?」

 私はただ黙って下を向いて、美奈さんの言葉を聞くことしかできなかった。

「違うって思ってるんでしょ? だから私をぶとうとしたんでしょ? だったらそう信じて告白してみなよ」

 美奈さんは私の右手を、包み込むように握ってくれた。それはまるで、私に勇気をくれているようだった。

 美奈さんは私に一歩を踏み出して欲しいから、挑発的な行動を取ったんだと思う。それは十分にわかる。だけどまだ、前に進める勇気が湧かなかった。

 それは、怖いからだ。自分がそう信じていても、本当に朱里ちゃんが私の全てを受け入れてくれるかはわからない。そう思うと、どうしても前に踏み出そうと思えなかった。

 そんな私の心の中を悟っているのか、美奈さんは右手を優しく擦りだした。

「私も社会人になるまでは、今の君みたいに自分の趣味とかそういうのを隠してたし、ばれないように振舞っていたもんだ」

 私は驚いた。いつもさばさばしている美奈さんが、私のように悩んでいたなんて、とても信じられなかった。

「まあ信じられないだろう。でも、私もそうやって悩んだ時期があったんだ。それで、高校生の頃かな。好きな同性の子がいたんだ。寝ても覚めてその子のことずっと考えてるくらいにね」

「それで、その人とは……」

 私の問いかけに、美奈さんは静かに首を横に振った。

「その子が好きなのは学校の自分だから、ばれたら振られちゃう。そしたら私は立ち直れないって思って、友達として付き合うことにしたよ。そのおかげで、その子とは今でも大親友だよ。…………だけど、私は今でも、告白しなかったこと後悔しているよ」

 私の手を擦り続けていた手がピタッと止まった。突然のことで何事かと思い、美奈さんを見ると、何とも言えない表情をしていた。

「捨てきれないんだ。今でも好きだって気持ちが。今でも、もし告白できていたらって、考えさせられるくらいに。しかも、その気持ちが時々胸を痛めつけてくるんだ。その子と会った後なんてそれはもう、ひどい痛みだよ。そんなになっても、私は捨てられないし、捨てさせてもらえないんだ」

「なんで、捨てさせてもらえないんですか」

 私の疑問に、美奈さんは乾いた笑い声で答えた。その様子はまるで、自分自身をあざ笑っているかのようだった。

「友達としてって決めた後に色んな人とデートしたり、遊んだりしてみたんだ。男女関係なくね。でも、その人以外本気で好きになれる人ができなかったんだ。ミスコンにいそうな美人さんでも、ドラマで主演やってそうなイケメンでもダメだったし、その人に似てる人でもそうなれなかった。じゃあ、仕事とか趣味で忘れようって思ったけど、それもダメだった。そのせいで、今もその想いを忘れられないんだ」

 そう語った美奈さんからは、後悔と哀しみとあきらめと、とにかく色んな感情が漂っていた。私は何も言えなくなった。それから少し間を空けて、美奈さんが口を開いた。

「動かなきゃ傷つけられる心配はないさ。でも、何もしなかったらしなかったで結局は同じくらい、もしかしたらそれ以上の痛みを負うもんなんだ。それなら動いてみた方が、ダメージは少なくいはずさ。だから、一歩踏み出してきな。逃げて後悔して私みたいになるのは、やめてくれ。もしそれで傷ついたなら、その時は私が癒してあげるさ」

 美奈さんの話が終わると同時に、カランと戸が開く音がした。どうやら、朱里ちゃんが来たようだ。美奈さんはそれを察したかのように、グッと手を握ってくれた。

「さあ、いっておいで」

 美奈さんは優しく微笑んだ。私はためらいも迷いもなく、朱里ちゃんの方へ歩みを進めた。

「頑張ってね、奈々ちゃん」
 
 美奈さんが微かに呟いた言葉は、母親のように優しい声だった。