嘘をついた。貴方との関係を良好なものにしたくて。そして嘘をついたことを隠すために再度嘘を重ねる。
バレたくないと思いながらも私の嘘を暴いて欲しいとも願っている。

深夜0時。両親はもう寝てる。私は物音を立てないように気をつけながら着替える。
格好は高校の制服で良い。私が持っている下手な私服より余程オシャレだ。
外は寒い。ベージュのコートと赤のマフラーも巻く。
電気もつけずに靴を履き慎重に玄関のドアを開く。
外に出た瞬間に開放的な気分になる。
私は迷わず歩き出す。
会えるだろうか。会えないだろうか。
期待しない方がいい。そう分かっていても、もしかしたらと思わずにはいられない。
高鳴る鼓動を静めるように胸の上に手を置く。
それでもテンションが上がり次第に早足になっていく。こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。目的の公園にたどり着き辺りをキョロキョロと見渡す。
公園のベンチに座っている1人の男性に目が止まる。いた。直感的にそう思った。薄暗い中でも私は一目で彼だと分かった。私が尊敬している天才小説家、時雨(しぐれ)
ことの発端は彼が発信しているSNS。「最近夜中に出かける」のコメントと一緒に投稿された写真。見覚えがあった。まさかとは思った。でも昼のうちに確認した。私の家の近くの公園だった。
もしかしたら彼に会えるのかも。そう思ったら最後。私は早速夜中に家を抜け出した。
元々時雨は顔を出して仕事をしていた。握手会やトークショー、雑誌の取材全ての仕事をNGなくこなしていた。しかし時雨の容姿は一部の読者から批判を買った。ダークブラウンの髪に二重で切れ長の目、高い鼻筋、凛々しい顔立ち。対して笑った時に残るあどけなさ。一部のメディアが彼をイケメン小説家として売り出した。小説の紹介よりも時雨の顔立ちをよく見せることを優先した。結果「小説が売れるのも顔のおかげ」「書店員には色気を使って自分の本を優先的に売らせている」などの誹謗中傷を受け、以後顔出しをしていない。今では時雨の顔を覚えている人の方が少ないだろう。私を除いて。
「こんばんは」
SNSから場所を特定して会いに来るなんてストーカーだと思われても仕方がない。偶然を装い話しかける。それでも緊張して声が震えた。
「……こんばんは」
こんな夜中に声を掛ける人物を訝しんでいる様子が見受けられた。私はスペースを空けて同じベンチに座る。流石に図々しいことは分かっている。それでも彼と話したかった。
「こんな夜中に話しかけられるなんて思ってもみませんでしたよ」
言外に迷惑だと伝わってくる。自然と体が縮こまる。
「すみません」
小さな声で謝罪した。
「いや、いいんですけどね」
縮こまる私に気遣うように言葉をかけてくれた。無愛想だけども優しい人ではないかと思う。
「いつもこの時間に出かけるの」
沈黙が気まずくなったのかあちらから話しかけてくれた。
「いえ、ただ家にいると息が詰まりそうで」
嘘はついていない。この公園に来た明確な理由を告げていないだけだ。
「ああ、分かる」
短い肯定。それだけのことが嬉しく感じる。
「家、嫌いなの」
軽い感じで聞かれた質問。でもどこか心配してくれていることも伝わる。
「はい。ここ最近じゃ名前すら呼ばれないし」
「ん?家ではなんて呼ばれてるの」
「嫌われ者とかいじめられっ子とか」
「うざ」
感情剥き出しの悪口。メディアに出てた頃の彼は絶対にこんなことを言わなかった。
「ちなみに貴女の名前は」
初対面で名前を訊かれるのはよくあることだ。それでも俺はちゃんと名前で呼ぶよって言ってくれているようで嬉しい。
美月(みつき)です」
名前だけを伝える。家族が嫌いな人は名字で呼ばれることも嫌いなことが多い。
「美月ちゃんね」
名字を聞かれることなく名前を呼んでくれた。
「貴方は」
慎也(しんや)
「慎也さん」
特に意味もなく名前を呼べば彼は「ん」とだけ返事をした。私は頭の中で様々な疑問が浮かぶ。時雨はペンネームなんだろうか。今教えてくれた名前は本名?それとも偽名?
「言いたくないならいいんだけど」
慎也さんの言葉で私の考え事は中断する。
「学校いじめられているの」
「はい」
「そっか」
再び訪れる沈黙。何かしらの会話を続けたくて私は無駄なことを話す。
「なんか私の声が気に食わないみたいで」
私の声は不自然なほど甲高い。いわゆるアニメ声みたいで「声作ってるの」とか「キモい」とか言われる。地声にそんなこと言われても困る。
「俺も昔いじめられてたわ」
なんとなくそんな気はしてた。時雨の小説は順風満帆な人生を送っている人には書けない。
「なんでですか」
「作文コンクールで優勝したの。それが気に食わないとかそんな理由だったかなー」
昔を懐かしむような口調でのんびり語られる。
「ストレスが溜まってしょうがない時、慎也さんはどうしてましたか」
同じ、いじめられた経験があるからこそ聞いてみたかった。
「漫画や小説を読んでた。物語に没頭している間だけは忘れられるんだよな」
「私は物語読んでる時も忘れないです。なんて言うか主人公に自分を重ねてるから」
「そんなに物語に共感できるんだ。何読んでるの」
迷う。正直に告げるべきか。それとも嘘をつくか。
「消えない記憶」
目の前にいる天才小説家が出した最新作。
「面白い?」
平坦な口調で問われる。
「はい。もう3回は読み直しました。好きすぎて今日も持ち歩いてるんです」
鼻で笑われた。
「なんで。真っ暗な公園で本なんて読めないでしょ」
「なんて言うか大好きな本だからお守りになるかなーって」
「なるわけないでしょ」
即答で切り捨てられた。冷たい口調で続けられる。
「大体その物語、俺も知ってるけどなんか暗くない」
一瞬だけ答えに迷った。目の前にいるこの人が小説を書いていることを私は知っている。
「確かに暗い物語だけど私は好きです。なんか胸に刺さるし」
「消えない記憶」は事故でクラスメイトを殺してしまうところから始まる。
主人公は壮絶ないじめを受けていた。その様子は繊細に書かれていて読んでいて本当に辛かった。
ある日、我慢できずにクラスメイトを突き飛ばしたら頭をぶつけて死んでしまう。
殺意はなかった。ただの事故だ。それでも人を殺してしまったショックで彼は逃げ出す。唯一心を許せた彼女を連れて。
「人殺しの小説が好きなんて趣味悪いね」
「あの小説をそんな言葉で表さないでもらっていいですか」
意識する前に言葉が口から出てた。「消えない記憶」は賛否分かれる小説だ。沢山の批判もあった。作者も読者も性格が悪いとか陰キャが好きそうとかのコメントが後を立たない。
それでも私が大好きな作品には変わりない。
「ごめん」
あまり強い口調で言ったからだろう。慎也さんが小さく謝罪する
「いいえ」
作者本人に文句言ってどうするんだろう。少し冷静になった私は恥ずかしくなる。
「そろそろ遅いし帰ろっかな」
気まずい空気に耐えられなくなったのか慎也さんが急に言った。
「あ」
せっかく憧れの作家に会えたのにこれで別れか。
「帰らないの」
どこか気遣うような声。根は優しいんだろうな。引き止めたい。でもなんて声をかけるべきかなんて分からない。
「もう遅いよ」
「えっと、今何時ですか」
呆れたように笑われた。
「小説より時計を持ち歩きなよ」
嫌味を言いながらもアップルウォッチを私に見せてくれる。深夜1時。
「また会えますか」
こんなこと言われても困るだろうな。そう思いながらも聞かずにはいられなかった。
「俺と会えてもどうにもならないでしょ」
そんなことない。憧れの天才作家なんだから。でもそう伝えていいのか迷う。何故だか慎也さんは自分が書いた作品を好きではなさそうだし。
「私と話してくれる人、いなくて」
慎也さんは小説の話をしている時以外は私に気遣ってくれていた。こういう言い方をしてしまえば断られないのではという打算があった。
「嫌ならいいんですけど」
しおらしく言葉を付け加える。嘘ばかりの自分が嫌になる。
「ここ最近俺は毎日夜中に散歩してるよ。大抵この時間にこの公園にいる」
「私も来ていいですか」
祈るような気持ちで聞いた。切実な願いを込める。
「好きにしたらいい」
優しい声だった。
「では慎也さん、温温した日々を」
慎也さんはしばらく無言で前を見つめていた。
「……温温した日々を」
ボソボソと囁くような口調ではあるけれど返してくれた。

「平井さんっているでしょ」
「っえ、ああ……うん」
リビングで水を飲んでいるとテレビを見ていた母親から話しかけられた。声をかけられることは滅多にないので驚いて反応が遅れた。
「平井さんのお子さんがテレビに出てるのよ」
昼のバラエティ番組に5人組のアイドルグループが出演していた。そのうちの1人を指さす。
「へぇー、凄い」
平井さんと母は同じホットヨガ教室に通っている。私とは全く接点はない。母との関係が良好だった時に何度が平井さんが会話に登場しているので名前だけは知っていた。
「でもすっごいぶりっ子よね」
吐き捨てるような口調だった。
「まあね……」
彼女らは確かにみんなぶりっ子キャラだった。
「そういえば写真集も出したんだって。平井さんがくれた」
床に乱雑に置かれた写真集に母は目を向ける。「欲しいなんて言ってないのにね」と呟きながらパラパラとページを巻くる。
「平井さんの子供はアイドルで私の子供はいじめられっ子かぁ」
深いため息を吐かれた。小言はまだまだ続く。
「平井さんってば誇らしい顔して自分の子供のこと喋るのよ」
「……」
「そもそもアンタは少しは考えてるの。どこの大学行くか、将来どんな仕事をするのか」
手に持っていた写真集を乱雑に床に投げ捨てる。
「平井さんのお子さんは自分で所属する事務所を決めてオーディションにも応募したのよ」
いちいち平井さんのお子さんと比較するのは辞めて欲しい。
「ちゃんと考えるよ」
それだけ言って自室に逃げた。

部屋で1人になった瞬間に一気に疲れが押し寄せてきた。ベッドに寝転ぶ。
母親が私に求めるもの。
成績の良さ、部活動の功績、クラスでの人望。要は周りに自分の子供を自慢できるか否か。
「はぁー」
自然とため息が出た。それでも母が言っていることは一部正しい。どの大学に行くか。将来どんな職業に就きたいか私は何も決めていない。
考えてみても何も分からない。自分のやりたいことなんて見つけられない。
私は毎日ダラダラと過ごしている。気づいたら一日が過ぎ、1ヶ月、1年が過ぎる。歳だけ重ねて何も変わらなかったと落ち込む。きっとこういう日々がずっと続くんだろうなって思う。考えれば考えるほど気持ちは沈んでいく。
「もういいや」
思考放棄をする為に時雨の小説を開く。私のしていることはただの現実逃避だ。辛いことから目を背けて物語の世界へ逃げ込んでいるだけ。
それでも私には物語が必要だった。つまらないだけの現実で生きていけない。物語は救いだ。
それに、夜になれば慎也さんと会える。そう思えば
どんなことでも耐えられる気がした。

深夜0時。両親が寝たことを確認して私は着替える。
そして昨日と同じように公園へと向かう。
「こんばんは」
昨日と同じようにベンチに座っていた慎也さんに声をかける。
「こんばんは、これ良かったらどうぞ」
何かを差し出された。薄暗い中、物を判別は出来なかった。
「防犯ブザー」
私の疑問を感じ取ったのか教えてくれる。
「この辺り治安悪いし持っておいた方がいいよ。女の子が夜遅くに出歩くって危ないし」
「あ、ありがとうございます」
こういう気遣いに慣れてなくて上手く返事ができない。私は周りから女の子として扱われていない。それどころか同じ人間だとすら思われていない。気恥ずかしいような、それでいて嬉しいような不思議な気分だ。
「そういえばさ」
どこか不自然な様子で切り出される。意識して自然な感じを装っているような違和感を拭えない。
「『消えない記憶』読み直したよ」
「そうなんですか」
慎重に答える。慎也さんの前で小説を褒めると何故か空気が険悪になる。
「でもやっぱり暗いなーって思った。美月ちゃんはなんで好きなの」
日常会話をするような話のトーン。でもどこか緊張している。
私は黙って考えた。ただ好きな物。自分の感性で良いと感じたもの。その理由を語源化するのは難しい。
「1番は共感できるからだと思います。綺麗事だけじゃない。だからこそ胸に刺さる小説」
「でもこんなの読んでると根暗って思われるよ」
小説のレビューを書き込むサイトにも類似する言葉が沢山書かれていた。それでも私は『消えない記憶』が好きだ。
「誰にでも書ける正しいだけの小説なんてありふれているじゃないですか。でもこの小説は時雨しか書けない」
「皆んなが皆んなこんな小説書けたら終わってるよ。小説家って性格悪い人しかいないってことじゃん」
私は首を傾げた。おかしなことを言う。
「私の周りで性格がいい人ってあんまりいないからな」
唯一の例外が慎也さんだ。本人は決して納得しないだろうけどいつも私を気遣ってくれる。
私が夜、出歩くことを心配はする。防犯グッズを渡してくれる。でも夜中に公園に来ることを咎めたりはしない。私の話し相手にもなってくれる。
これが親なら未成年が夜中に出かけるなと怒る。正論だけをぶつけ、私が感じている息苦しさには目を向けない。そのくせ「危ないから」とか「心配だから」とかさも私の為みたいな言葉を使う。
私はそういう気遣いは偽善だと思っている。慎也さんはただ私のことを思ってくれている。
上手く伝えられるか分からないけどポツポツと言葉を紡ぐ。
「私はこの小説に救われたんです」
「救われた?」
「なんて言うか親にも名前すら呼ばれなくなって学校でも上手くいかなくて」
小説と全然関係ない所から話してしまう。それでも慎也さんは相槌を挟みながら聞いてくれる
「段々周りと話すの嫌になってどんどん自分の殻の中に閉じこもるようになったんです」
「なんとなく分かるな」
慎也さんはしみじみと呟いた。
「そのうち私は無気力になっていって何もする気がしなくて。それでも何かしなくちゃと思って音楽聞いたり小説読んだんです。でも何も感じなくて」
以前は好きだった音楽も「綺麗事ばかりだな」とか「友情とか馬鹿みたい」ってケチをつけるようになった。小説も漫画も前はあんなに夢中になれたのに何も感じれなくなった。
「それでも時雨の小説だけは読んでいて号泣したんです」
最初に読んだ時雨の小説は『王の娘』だった。世界を賑わした宗教団体ムーラ。彼らは非信者を救わなくてはいけないとか訳の分からない理由のもと無差別殺人を実行する。首謀者は捕まったがしばらく世間は宗教団体を非難し続けた。そして非難の矛先は首謀者の娘である麗美(れみ)にも向けられる。その当時麗美はまだ6歳の少女だった。
あまりにも理不尽な物語だった。悲しくて悲しくて涙が出た。創作物だと知ってなお怒りが止まらなかった。麗美を追い詰めるなと何度も何度も憤った。
「時雨の小説を読むまで私って感情が抜け落ちてしまったのかなって思ったんですよ」
はははって馬鹿みたいに笑ってみる。でもあの時の私は機械みたいだった。
「私ってまだ泣けるんだな、怒れるんだなって思ったんですよ」
それから時雨の小説を読み続けた。ある時は時雨の小説を元に曲が生まれた。その曲は何度も聴いた。小説とリンクした曲は素晴らしいとしか言いようがなくて大好きだった。しばらくしたら他の小説や音楽でもノリがいいな、とかテンション上がるなと感じられるようになった。けれど日々無感動だった私に再び感情を与えてくれたのは時雨の小説だ。だからこそ私にとって時雨の小説は救いだった。
その日から慎也さんは帰りに家まで送ってくれるようになった。
「近いから大丈夫です」というと「少し歩きたいんだよ」と返されたの。
「家ここです。ありがとうございます」
「いーえ、じゃあ温温した日々を」
慎也さんから交わされる挨拶が嬉しくて顔がにやける。口元を手で隠しながら私も挨拶を返した。
「温温した日々を」

今日も又、深夜0時に家を抜け出す。公園に着き辺りを見渡す。今日は慎也さんがいない。
「はぁ」
1人でいつも座っているベンチに腰をかけた。のんびりと夜空を見上げる。
「わ」
頬に温かい感触がして驚いて声を上げる。
「よかったらどうぞ」
振り返ると慎也さんがいた。ペットボトルの温かいお茶を差し出される。
「ありがとうございます」
今日も慎也さんに会えた。そのことがまず嬉しい。
「美月ちゃんがまだいてよかった」
慎也さんもベンチに座る。
「テレビ見てたら寝ちゃっててさ。気づいたら0時過ぎてたから焦った」
笑いながら話す。疲れてるのかと心配になる。
「約束しているわけでもないし、気にしなくていいんですよ」
会えない夜は寂しい。でも慎也さんの重荷や負担になりたいわけではない。
「俺が美月ちゃんと会いたかったんだよ」
「……」
予想外のことを言われるとどんなに嬉しい言葉でも返事ができない。私は口をポカンと開いたまま固まった。きっと私は今、とんでもなく間抜けな顔をしている。夜の暗さが私の顔を隠してくれるといいなと切に願う。
「ねぇもしよかったらさ」
慎也さんはこういう前置きを大事にする人だ。相手の嫌がることはしない。
「連絡先教えてほしい」
「え、もちろん。是非」
慎也さんと連絡先を交換できるなんて夢みたいだ。私は急いで鞄からスマホを取り出す。
教えあったのは電話番号。電話番号を知っていればショートメールも送れる。
「ありがとうございます」
スマホの連絡先に慎也さんの名前があることが嬉しい。眺めるだけで顔がにやけてしまう。
「こちらこそありがとう」
それからは小説の話をした。
「美月ちゃんは時雨以外の本は読むの」
「読みますよ。ミナとか」
慎也さんがミナを知っている前提で話す。なにしろ時雨とミナは2人で一冊の本を出している。
「ミナって時雨とは反対の小説を書く人だよね」
「そうですね。『昼の笑顔、夜の素顔』がまさしくそんな感じ」
「昼の笑顔、夜の素顔」は時雨とミナの共同作品だ。
最初に簡潔に書かれたプロローグ。次でミナが書いた「昼の笑顔」最後に時雨が書いた「夜の素顔」が載っている。物語は主人公が2人の男性を同時に好きになってしまう話。ミナは(かける)と付き合った話、時雨は優吾(ゆうご)と付き合った話を書いている。
同じ主人公にも関わらず「昼の笑顔」は一途の純愛。「夜の素顔」は複雑で泥沼な恋愛が描かれている。
「あの作品、『昼の笑顔』だけ読めばいい。『夜の素顔』は読む価値なしって意見が多いだろう」
「それって一部の意見ですよね」
現に作家のミナは今回の共同作品を通して時雨の大ファンになったと公言している。最初は一緒に作品を出した時雨へのお世辞かと思った。けどミナのSNSには凄い勢いで時雨に関する投稿が増え、今まで時雨が出した本は全て読破したらしい。ミナだけではなくミナのファンも「昼の笑顔、夜の素顔」をきっかけに時雨のファンになった人が何人もいる。
「小説家って不幸な職業らしいよ。作品を褒めてくれる人がいてもたった1人貶す人がいたら不安になる」
伝聞のような言い方をするが慎也さんが語る本音。
「でも私は好きです。特に優吾が好き」
私1人の意見なんて何も響かないかもしれない。それでも伝える。
「なんで?かなり批判されたキャラなのに」
「だって凄く一生懸命、精一杯生きているって感じがするから」
慎也さんは照れたように笑う。
「エネルギッシュだよね。実は俺も好き。俺にはない部分をたくさん持っているから」
慎也さんが作り出しそして愛したキャラクター。
「特に夜中、学校に忍びこむシーンが大好きです」
「ああ、分かる。開放的なシーンだよね。優吾の人物像に迫れるっていうか」
「はい。あのシーン読んだら優吾のこと好きになっちゃいますよ」
「だよねー」
慎也さんは自分の小説を本当は愛してるんだ。「暗い」とか「根暗」とかネットの意見を自分の意見のように振る舞っているけど本当は大切にしてる。
普段落ち着いてる慎也さんが楽しそうに語る姿は貴重で尊い。
「はぁ」
さっきまであんなに楽しそうにしてたのに急にため息を吐かれた。
「そういえば時雨って優しい、光や希望に満ちた作品を望まれているらしいよ」
再び深いため息を漏らす。そして「ミナみたいな」と付け加える。
「望まれてるって誰にですか」
「編集者」
私は時雨のSNSや小説を随時チェックしている。それでもそんな話は初耳だった。公な話ではないんだろう。
「時雨はどう思ってるんですかね」
「さぁ。でも時雨に書けるわけないだろ」
イラつきを含んだ乱暴な口調。
「そうなんですか」
「そうでしょ」
慎也さんは「はは」と自虐するように笑う。それから冷静な口調に戻して続ける。
「あんな根暗作家に」
「でも時雨の小説ってどこかに光や優しさが紛れてますよね」
彼の作品は読んでいてとても辛い。苦しい。誰か助けてあげてって叫びたくなる。でもそれだけじゃない。希望もある。
「もし時雨が光に満ちた物語を書いたら美月ちゃんは読みたい」
「はい。時雨が書いた物語なら本物だと思うから」
「本物」
なんて説明するべきか迷う。
「なんか小説読んでると思うんです。どんせこんなんが好きなんでしょって感じで書かれている本が多いって」
ありふれた設定。展開。読んだことのない小説を読んでいるのにまたかって感じてしまうこと。
「まぁしょうがないんじゃない。読者が好きそうな設定ってありきたりだし」
小説家の慎也さんは私と違う視点を持つ。
「でも時雨の小説って常に何かを訴えてる感じがします。本気で時雨が書きたい物を書いてる」
「……そうかもね」
何か考え込むように慎也さんは黙る。しばらくしてからゆっくりとした口調では話す。
「時雨はいい加減に小説を書いたことなんて一度もない。自分が納得いくまで何度も書き直す」
どれ程自分の小説が嫌いなように振る舞っても創作で手を抜いたことなんて一度もなかったんだろう。
「だからこそ彼の小説に救われる人がいるんでしょうね」
たとえ今までと違う系統の小説を書いたとしたも時雨の小説は素晴らしい。そう断言できる。
「美月ちゃんがミナを好きになる理由も分かったわ」
「え」
「ミナの小説って俺と違ってどこまでも優しさだけが書かれている。でもミナもありないほどの情熱を小説に注いでいる」
「そうですね。ミナの小説も読んでいて心が動かされます」
「初めてだわ」
慎也さんが吹っ切れたように笑う。
「何がですか」
「ミナのこと認められたの」
「え」
慎也さんは恥ずかしそうに顔を掻く。
「いや、ミナの小説ってなんか輝かしすぎて好きになれなかったんだよね。ミナが悪いわけじゃなくて、時雨とは違いすぎるからっていうか」
「昼の笑顔、夜の素顔」は2つの作品を比べる意見が多かった。レビューサイトでは優劣をつけたがるコメントが溢れていた。2人で協力して1つの作品を出しているのにいつの間にか一部の読者の間ではミナ派、時雨派に別れ争っていた。
「ミナが凄い小説家ってことは分かってんだけどね。時雨なんかよりずっと売れてるし」
慎也さんって自分が時雨であることを隠す気はあるのだろうか。もしあるとしたら嘘がつけない性格なんだろうな。
「初めて素直な気持ちになれたよ。ありがとう」
「私は何もしてないですよ」
慎也さんは困ったように頭を掻く。
「そうかもね。でも美月ちゃんと話してたら時雨の小説って面白いのかもって思えてきて」
話の流れがよく分からないが時雨の小説が面白いことは確かだ。私は何度も頷く。
「俺も昔は時雨の小説好きだったんだ。でも段々自信なくなってきてさ」
「心ないレビューのせいですか」
「まぁね、でも美月ちゃんのお陰で自信持てたわ。そしたらなんか心にゆとりができた」
「ならよかったです」
時雨の小説はいつでも私を支えてくれた。少しでも恩返しできたならこれ以上嬉しいことはない。
「今日ミナの小説読み返したら違う感想抱けるのかな」
「どういう意味ですか」
慎也さんは言葉を探すように腕を組む。
「なんていうか小説を読むって鏡を見るようなことだと思うの」
「鏡、ですか」
そんなこと考えたことなかった。
「全く同じ小説を読んでもその時の自分のテンション、悩み事によって全く受け取り方が違う」
「ああ、分かります」
小説に限らず音楽、景色、色んなことに共通していえることだ。
「今まではミナの小説見るとこんな綺麗な小説を書ける感性を持ってる人へ嫉妬する自分を自覚したんだよね」
「今日読めば変わりそうですか」
「どうだろう。でも変わる気がする」
一旦話しが途切れたタイミングで慎也さんが時計を確認する。「帰ろっか」と私に声をかけていつものように家まで送ってくれた。それから毎日夜中に慎也さんと会う日々が続いた。今日も深夜0時に私は家を抜け出す。
「こんばんは、美月ちゃん」
私を見つけて挨拶してくれる慎也さんは何処か緊張しているように見えた。
「こんばんは、慎也さん」
「実は聞いてほしいことがあるんだ」
改まって言われると緊張する。
「なんですか」
「美月ちゃんが好きな小説家、時雨っているでしょう」
「はい」
「あれ、実は俺なんだ」
「……」
なんて返せば分からず黙っていると慎也さんが私の顔を覗き込んできた。
「黙っていたこと怒っている」
恐る恐るといった感じで尋ねてくる。
「いえ、というか知ってました」
「え、そうなの」
普段よりも大きめな声が慎也の驚きを表している。
「時雨のSNSでここの公園の写真がアップされてたから」
「ああ、なるほどね」
納得したように頷かれる。SNSから場所を特定したことを怒ってはいなそう。
「でも場所が特定できないような写真にしたと思うけど」
SNSにアップされた写真はこのベンチと砂利の地面。普通ならこの写真から特定なんてできないだろう。
「そのベンチに太陽のマーク彫ったの私なんです」
「なるほど」
太陽のマーク。「消えない記憶」に度々出てくるマークだ。主人公の葉月(はつき)は夜が好きだった。学校でいじめられていたことが原因で人間不信だった。だから人の活気で溢れる時間帯が苦手だった。外を出歩いても誰もいない時間が好きだった。静かな空間が好ましく思った。やがて太陽が昇り差し込む日差し、朝日と共に聞こえる小鳥の囀り、少しずつ騒がしくなっていく生活音。朝を象徴する全ての音や光景が嫌いになっていく。明けない夜はない、なんて当たり前の事実に絶望する。そんな時に彼女の理佐(りさ)が必死に葉月を励ます。「朝や昼の方が温かいよ。温温過ごせるよ」それから彼らの間で「夜以外の時間もいいことがありますように」「太陽が出る時間も頑張れますように」という願いを込めて「温温過ごせますように」と挨拶を交わすのが常習になる。そして綺麗な花を見つけた、お菓子美味しかったなど温かい気持ちになれた時は何処かに太陽のマークを記していた。
「消えない記憶」のファン達によって「温温過ごせますよう」という挨拶は語り継がれた。この挨拶は「消えない記憶」が大好きですという証明だった。
「ベンチにこのマークがあったから写真をあげたんだ。SNSのコメントを見る限り気づいた人はいなかったみたいだけど」
「だいぶ歪んだ太陽になりましたからね」
曲線を上手くいかず不恰好な形になってしまった。
「俺には一目で太陽だって分かったよ」
慎也さんは優しい手つきでマークを撫でる。
「怒ってますか。知らないふりして近づいたこと」
今度は私が慎也さんの顔色を伺う。私のしていることは単なるストーカーと対して変わらない。
「いいや、嘘をついていたことはお互い様だし」
安堵のため息が出た。
「嘘って慎也さんが時雨だって隠していたことですか」
「それもあるし、俺はずっと自分の小説を嫌いだって嘘ついていた」
「そうですね」
根暗な小説だと慎也さんは言い続けていた。
「自分の小説を大事にすればするほどネットに寄せられた誹謗中傷に傷つくんだよ」
私には想像できない小説家の悩み。
「どの作品も一生懸命書いたんだ。睡眠時間を削って締切ギリギリまで粘って何度も推敲と添削を繰り返した」
あり得ないほど感情を込められた言葉だった。慎也さんの気持ちを私は1ミリも理解できない。下手な相槌を打つことは憚られた。
「ようやく納得できる形にしたものを批判されるのは本当に辛い」
慎也さん拳を握る。その手は震えていて。
「だから段々言い訳するようになったんだ。俺だって別に自分の小説を好きなわけじゃないとか暗いこと位分かってるとか」
「そうしたら楽になったんですか」
物語を産み出す人の苦労なんて私には分からない。だからどんな方法であれ慎也さんが少しでも楽になるならそれでいい。
「楽になったよ。でもね、他の人が書いた小説を楽しめなくなった。妬んで粗探ししてね」
「今は違うんですか」
前にミナの小説を認められたと言ってた。
「うん。美月ちゃんのおかげで俺の小説も素晴らしいって思えたから」
「ミナの小説を妬まなくなったんですか」
「そう」
「今度、ミナとまた共同作品出すんだ」
「え」
唐突の告知に驚く。
「前からオファーはあったんだよ。ミナの作品に目を通したくなくて断ってたけど」
ミナが時雨と一緒に仕事をしたがってたことは私でも知っていた。SNSにそんな投稿が何度もされていたから。
「オファーを受けようと思えたのは美月ちゃんのおかげ。だからちゃんとお礼を伝えたくて」
「そんな、お礼なんて。それより共同作品楽しみ」
「詳しいことはまだ言えないんだけど、絶対美月ちゃんが好きって言ってくれるような作品を書くから」
作家からこんなことを言われるなんて読者冥利に尽きる。その日1日はあり得ないほど幸せだった。次の日にはミナ、時雨それぞれSNSで共同作品を書くことが投稿されていた。詳しいことは何も書かれていない。ただし1〜2ヶ月には作品の完成を目指しているみたいだ。
そんなわけだからか「しばらく夜の散歩は控えます」とメールが入っていた。約束しているわけではない。わざわざメールを入れなくてもいいのに。そう思いながら「了解です。小説楽しみにしです」と返信した。
慎也さんと会えない日が続くと私は今までより一層小説にのめり込んだ。小説しか私を救ってくれる物がなかった。時雨とミナのSNSは随時チェックした。
けれどミナのSNSに「今日は時雨と一緒に執筆」とオシャレなカフェの写真付きで投稿された時、私の心はざわついた。それからもミナのSNSには時雨に関する投稿が増えていく。「時雨に相談に乗ってもらった」「書きかけの時雨の作品読ませてもらった」「今日も時雨と仕事」これらの投稿に対して一部のファンから「2人ってお似合いなんじゃない」「付き合っちゃえば」なんてコメントも寄せられている。私は愚かにもミナに嫉妬をし始めた。それと同時に焦った。もし慎也さんとミナが付き合ったら今後2人っきりで会うことなんてないだろう。慎也さんは小説が完成して時間にゆとりが出来たら夜の公園で私と会ってくれるだろうか。それとももう夜中に公園なんて来ないだろうか。
2人の共同作品「昼の花、夜の花」が完成されるのを私は心待ちしていた。けれど同じくらい恐れた。小説の進捗状況と関係なく私とは会わない。そんな日が来てしまうような気がした。
元々私と慎也さんでは住む世界が違う。今まで毎日のように会えていたことがおかしい。それでも寂しくて寂しくて仕方なかった。
その日私は久しぶりに夜中家を抜け出した。寝ようとしても寝付けなかった。この時間はいつも慎也さんといたのにと考えてしまう。気分転換に散歩でもすることにした。
自然と公園に向かって歩き出す。1人でベンチに座る。前もこんなことあったなーって思い出す。1人で座っていたら後から慎也さんがやってきた。そして「美月ちゃんと話したかった」って言ってくれたんだっけ。思い出すだけでも胸が温まる。
「わっ、え」
頬に温かい感触がした。驚くと同時に前と同じだと思う。慌てて振り返ると慎也さんがいた。
「ごめん、そんなに驚くとは思わなかって」
勢いよく振り返り過ぎたせいだろう。慎也さんがバツの悪そうな顔をする。
「いえ、ごめんなさい。慎也さんに会えると思ってなくて」
「俺も美月ちゃんに会えるなんて思わなかったよ」慎也さんが持っていたチョコを2人でつまんだ。
「いつもチョコを持ち歩いてるんですか」って聞けば「物語を書いている時甘いものが食べたくなるんだよね」って笑った。
「小説、完成したんですか」
「したよ。脱稿したから俺らはしばらく暇かなー」
慎也さんは何処かのびのびとしていた。
「早く美月ちゃんにも読んでほしいや」
「自信作なんですか」
慎也さんが自分の作品をこんなに前向きに捉えることは今までなかった。
「うん。ミナとも何度も話し合って進めていったからね」
「『昼の笑顔、夜の素顔』みたいに2人で別々の小説を書くわけではないんですか」
気づけば嫉妬をしていた。だからミナと何度も話し合う必要性を問いてしまう。2人は仕事をしているだけなのに。
「別々の小説を書いてるよ。でもお互いがお互いにいい影響を与えたかったんだよ」
私が理解していないことを察したんだろう。慎也さんはなんて説明するべきか迷って「うーん」と1人うめく。
「闇があるから光が輝くっていうのかな。『昼の花』を読んでから『夜の花』を読めばより楽しめるような作品にしたかったんだよね」
今度は慎也さんの言うことを簡単に理解できた。以前出した「昼の笑顔、夜の素顔」も強烈な光と闇の作品だ。ただでさえ素敵な作品が更に輝かせ合う。2人の作品はお互いを支え合っていた。
「『昼の笑顔、夜の素顔』を書いた時も打ち合わせを何度も重ねたんですか」
何で私はわざわざ自分傷つくような質問をしてしまうんだろう。そもそもミナはかなり有名作家だ。小説を出せば増版がかかり、ドラマ化や映画化まで経験している。そんな相手に嫉妬するなんて馬鹿みたいだ。
「そうだね。特に『昼の笑顔、夜の素顔』は主人公が同じだったからね。名前から誕生日、血液型、家族構成、何から何まで細かく話し合ったよ」
「2人で生み出したキャラなんですね」
「そうだね」
私と慎也さんではどれだけ話し合っても何かを産み出すことなんて絶対にないな。そんな当たり前の事実に私は勝手に落ち込む。

小説の発売日、私は開店と同時に本屋に駆け込んだ。
目的の本は店頭に置かれていた。
買ってから近くのカフェに入り小説をテーブルの上に置いた。
淡い色彩で描かれた表紙を撫でる。本の表紙が好きだった。手触りが好きだった。表紙を捲り1ページ目を読む瞬間が好きだった。
物語の始まり。現実では味わえない世界へ私を導いてくれる。どれ程私が退屈な人生を送っていようが読書をしている時は関係ない。現実逃避をさせてくれる。
どんなお話なんだろう。胸が高鳴る。それでいて少しだけ苦しい。ゆっくりとページを捲り綴られた文章に目を落とす。
「人生は幸福に満ちている」
目立つように書かれた1行。この後数行も空けられている。この文章を読んだ瞬間、何故か私には合わないと感じた。たった1行なのに。
それからも物語を読み続けた。ミナによって書かれた純愛物語。幸せなや希望に満ちた世界。私は全く共感できずにいた。「愛があるからこそ全てが上手くいく」そんなことを謳った小説に反感を抱き続けた。好きな人が出来て可愛くなりたいと思った。今まで友達も出来なかったが積極的に話しかけてみた。校内で開催されているイベントにも参加した。貴方がいたから世界はこんなに輝く。そんな感じの物語りだ。
そんな出会いあるわけない。冷めた気持ちで思う。いくらフィクションとはいえここまで都合が良すぎると共感できない。がっかりした気持ちで私は本のレビューを調べる。
一香(いちか)可愛い」「最高の物語」「この物語に出会えてよかった」「幸せな読書タイムでした」
多くの人がこの物語を称賛した。さらに「この物語に救われました」
大袈裟にも思える感想。でも物語が誰かの救いになることを私は知っている。体験している。
いつしかの慎也さんの言葉を思い出す。物語を読む行為は鏡を見ることだと。そして悟った。私はきっとミナが嫌いになってしまったんだ。会ったこともない。相手は私のことなんて知りもしない。そんな相手に嫉妬して結果物語まで純粋な気持ちで読めなくなってしまったんだ。私はそれでも「昼の花」を読み終え、続いて「夜の花」を読み始める。
ページを捲る手が震えた。恐怖に慄いた。かつて好きな作者が嫌いになっていく感覚。それは恐ろしかった。時雨の小説すらも楽しめなくなっていたらどうしよう。過去に自分を救ってくれた作家の物語すら色褪せて見えたらどうしよう。怖くて仕方ないけれど物語を読まずにはいられない。それが使命感なのかそれとも期待なのか分からないまま私はページを捲る。
「人生は苦しみに満ちている」
最初の1行を読んで思わず笑ってしまった。「昼の花」とは本当に真逆な物語りだ。これまた同じように最初の1行からは数行空けて物語が始まる。
「愛によって全てを失う」そんなことをテーマにして書かれた物語だった。盲目的なまでに1人の人を愛し、そして破滅していく物語。主人公、知佳(ちか)の嫉妬していく様子、色んな人を妬んではそんな自分に嫌悪する様子にこれ以上なく共感した。とても辛いけど物語を読み進めずにはいられない。結末を知りたくてどんどんページを捲っていく。時を経つのも忘れるほど物語に没頭していく。読み終えた後には心地の良い疲労感さえ感じた。怒涛の人生を自分が本当に味わったような錯覚さえ覚えた。走り抜けたような爽快感があった。不意に泣きそうになり目に力を入れる。
私は興奮のまま、対して考えもせずに慎也さんにメールをした
「小説読みました。最高でしたね!」
メールの返事はすぐに来た。
「美月ちゃんに気に入ってもらえてよかった。自信作ではあったけど少し不安だったんだ」
「凄かったですよ。文章だけでこんなにも人の人生を描けるのかって思いました」
「ありがとう。ミナと一緒に何度も話したんだ。『昼の花』も『夜の花』も説得力のある物語にしたくて」
ミナの名前が出た瞬間、今まで感じていた興奮が一気に冷めた。かわりに胸の辺りがモヤモヤして不快な気分に襲われる。
「『昼の花』も『夜の花』も最高でしたよ(笑顔の絵文字)」
私は嘘の感想を慎也さんに告げた。絵文字もつけてテンションの高さを演出して見せる。
「ありがとう。ミナにも伝えとくね(キラキラした絵文字)」
文章を見た瞬間がっくりと項垂れた。伝えなくていいよ。初めて慎也さんに対して否定的な感情を抱く。そしてこの感情が私の身勝手さから出るものだということも分かっている。慎也さんは何一つ悪くない。私はその後沢山のレビューサイトを覗いた。「昼の花」のレビューをいくつも読み込み、自分の中でまとめていく。今日、夜中に公園に行けば慎也さんに会えるだろう。その時にきっと小説の話になる。私は慎也さんにまた嘘を告げる。「昼の花」も最高に面白かったと。正直な感想を告げることも考えた。でも話の流れから私が勝手に一方的にミナに嫉妬していると知られることが怖かった。慎也さんに抱いている分布相応ではない恋心も伝える勇気はなかった。

夜、いつもと同じように家を抜け出す。色んな感情がごちゃ混ぜになり緊張しながら公園に向かった。慎也さんと会えることへの喜び。そして好きな人に会うことに対する緊張。「夜の花」の感想を伝えたいという喜び。作者に感想を伝えるなんて稀有な体験に対する高揚。そして話題が「昼の花」に移れば嘘をつくことになるという罪悪感。
色んな感情を抱えていたとしても私は結局慎也さんに会いたくて早足で公園に向かっていた。家から徒歩10分の公園も5分足らずで着いてしまう。
「こんばんは」
いつものように挨拶する。
「こんばんは」
いつものように慎也さんと同じベンチに腰掛ける。
「これ、どうぞ」
唐突に渡されたプレゼント。ラッピングされた紙袋。慎也さんは慎重な人に見えて思いつきで行動することがよくある。
「ありがとうございます。でも、急にどうしたんですか」
「小説を買ってくれたお礼」
照れたように笑う。
「そんな、こっちこそ素敵な小説を書いてくれたお礼をしたいくらいなのに」
この言葉に嘘はない。たった一回、1000円ちょっとお金を払えば素敵な物語をずっと手元に置いておける。物語には値段以上の価値がある。私はきっとこの物語を何度だって読み直し、その度に救われる。
「ありがとう。でも感謝しているのは本当なんだよ。綺麗事でもなんでもなくて読者がいて初めて小説家は成り立つから」
慎也さんが本心から言ってることはすぐにわかった。
彼は読者のことを常に気にかけている。だからこそ見なければいいだけの誹謗中傷も全て受け止めてしまうんだろ。
「私も慎也さんに感謝しています。大事な宝物がまた一つ増えたのだから」
これから先、進学や就職をして環境が変わっても、引っ越しをしても絶対に手元に残し続ける。そう断言できる小説を得たのだ。
「でもこの近くの書店ってサイン本扱っていないんですよね」
思わず愚痴をこぼす。私が小説を買ってからすぐ時雨が小説にサインを入れている写真を投稿したからだ。
サイン本は一部の書店でしか扱っておらず、取り寄せも出来ない。
「サイン本?欲しいの」
驚いたような顔をされた。そんな顔をされるとは心外だ。
「欲しいですよ。そりゃ」
「言ってくれればいくらでも書いたのに。あ、ミナのサインが欲しいって話?」
「昼の花、夜の花」は2人の共同作品だ。よって時雨、ミナそれぞれのサインが小説に記される。ミナだって時雨と同じタイミングでサイン本をSNSにあげていた。
「ミナのサインも頂けたら最高ですけどね。でも私からしたら時雨も神だし」
意識してテンションを上げる。ミナの名前が出て僅かにでも私の心が乱されるなんて知られたくない。
「俺、神なの」
可笑しそうに慎也さんが笑う。
「神ですよ。私からしたら影響力半端ないですもの」
普段だったら本人を前にして神なんて言葉は使わない。無理やりあげたテンションのせいで言葉選びが下手になっている。
「今日も小説持ってきているの」
「はい。今日はこっちを」
いつも持ち歩いている「消えない記憶」は家に置いてきた。変わりに「昼の花、夜の花」を鞄に入れている。
「ペンは持ってる」
「持ってないです」
なんで私は筆記用具を持ち歩いてないんだってこんなに後悔した日はない。せっかく慎也さんがサインを入れてくれそうだったのに。
「残念。でもいつでも書くよ」
落ち込む私に優しく声をかけてくれる。軽く頭をポンポンって数回叩かれた。途端に顔が熱を持つ。
「あの、図々しいかもしれないんですけど……」
「んー、何」
どこか間延びした声。リラックスしている時、慎也さんはのびのびとした調子で話す。
「全部の小説に書いて欲しいんです」
下を俯きながら話す。一冊の本にサインを入れてもらえるだけでもありがたいのに。図々しいことは分かっている。
「別にいいよ」
「ありがとうございます」
「美月ちゃんって安上がり」
また可笑しそうに笑われた。

ただでさえ大切な宝物。今までだって十分大切にしてきた。それなのに。
自室の机には「王の娘」「消えない記憶」「昼の笑顔、夜の素顔」「昼の花、夜の花」が並べて置いてある。全て時雨のサイン付きだ。
「ふふふ」
自然と顔がにやけた。その横には綺麗な瓶に入れられたキャンディが置いてある。以前、慎也さんからプレゼントしてもらったものだ。
1人で浸る幸せな時間はスマホのバイブによって遮られた。慎也さんからメッセージが来ていた。
「今度ミナとご飯食べるんだけど、美月ちゃんもどう?」
メッセージを見て固まる。何故?そんか疑問が浮かぶ。
「私が参加して大丈夫なんでしょうか」
「うん。ミナのファンなんだよって話したら会いたいって」
文章を読んで盛大なため息が出た。嘘は不便だ。今更ながら実感する。一度嘘をつけば、バレないように嘘を重ねる。嘘を真実のように振る舞い続けなくてはいけなくなる。
断ろうか。そう思った。けれど二人が一緒にご飯を食べる時どんな会話をするのか気になった。どれくらい仲が良いのか。
「お邪魔じゃなければ是非」
気づけばそう返事を送っていた。

初めて会ったミナはとても綺麗な人だった。
お洒落なカフェで私達は食事を食べる。席についた段階で軽い自己紹介が始まった。
「初めまして。ミナです」
高めのテンションで挨拶された。何処かあどけなさが残る容姿のせいで可愛らしい印象になる。
「初めまして。美月です」
にっこりと愛想笑いを浮かべて挨拶を返す。
「ここ、ご飯がとっても美味しいの。特にカルボナーラが絶品。ね」
最後の「ね」は慎也さんに向けられたものだった。2人がよくここに来ていることは簡単に推察できた。
「そうだね。後ケーキも美味しいよ」
「そうなんですね、楽しみ」
私は更に笑顔を深めた。お勧めされたらカルボナーラを食べるしかないじゃん、なんて些細なことでイラつく。
注文を終えたら小説の話になった。
「私達の小説買ってくれたんだってね。ありがとう」
「いえ、本当に素敵な小説だったので」
少しだけ前のめりになり興奮した様子を表す。
「嬉しいな。読者の声を聞ける機会ってあまりないしね」
ミナは何故か慎也さんの肩にボディタッチをする。
「そうだな」と答える慎也さんは気にした素振りを見せない。
私の不快感を隠すようなグッドタイミングで店員が料理を運んできた。
「わぁ美味しそう」
手を合わせてミナが喜ぶ。大袈裟なリアクションがあざとく見える。
「本当、美味しそうですね」
料理に夢中なフリをして下を向く。それから「いただきます」ってカルボナーラに口をつける。
「お腹空いてたの」
慎也さんはクスクスと笑う。
「はい。もうペコペコで」
「ミナもお腹ペコペコ。ねぇ食べよ」
またしても繰り返されるボディタッチ。もしかしてこの2人は既に付き合ってるのだろうか。
「美月ちゃん、『昼の花』どうだった」
ご飯を平らげたタイミングで聞かれた。私はレビューに寄せられた数々のコメントを瞬時に思い出す。
「最高でしたよ。まず一香が可愛いです」「一途ですよね」「恋ってやっぱり素敵だなぁって思っちゃいました」身振り手振りを加えて熱っぽく話す。
「一香ってミナに似てるよね」
そう感想を漏らしたのは慎也さんだった。
「そうかなぁ」
「うん、似てると思うよ。明るいところとか」
あざといところとか。私は心の中で卑屈な言葉を呟いた。そろそろお開きにしようって時にミナが急に私の名を呼ぶ。
「美月ちゃん」
何処か焦っている様子のミナにも思わず身構える。
「あの、今日、ありがとね」
「いえ、私は何も」
「ううん、私達小説家は美月ちゃんみたいな読者に救われるの」
「えっと」
「今回の小説ね、中々納得いかなくて睡眠時間だって削りまくったの」
「クマ酷かったよね、ミナ」
苦笑いしながら慎也さんが会話に加わる。
「3日間、完徹とかしたからね」
ふにゃりと冗談でも言うように笑う。
「3日間」
思わず繰り返し呟く。私には絶対真似できない。
「正直、なんで小説書いてんだろうって思う時もあるよ。眠いし、辛いし」
最後の方に語気が強まる。心の底からの愚痴だった。
「でも喜んでくれる読者が、美月ちゃんみたいな人がいたら疲れなんて一瞬で吹っ飛ぶ」
ミナの目は輝いていた。慎也さんに嫌われたくないなんて理由で嘘ばかりつく自分が恥ずかしい。
「私は別に……」
「ううん。ありがとう」家に帰ってから私は小説を開く。「昼の花、夜の花」祈るような気持ちでページを捲っていく。どうか、この物語を楽しいって思えますように。ミナに告げた言葉の数々が全て嘘になりませんように。
けれど必死に祈れば祈るほど物語の世界に没頭することはできず、ただ文字を追うだけの読書時間を過ごす。
時間を空けて「昼の笑顔、夜の素顔」を読み始める。かつて好きだった小説。ミナのファンになったきっかけの一冊。それなのに、やっぱり今では物語が文字の羅列にしか見えない。登場人物の心情が自分の中に入ってこない。とても共感したり、物語のキャラを応援する気持ちにはなれなかった。
何もする気持ちになれず、たたボンヤリとベッドで横になった。こんなメール不要かなとは思ったけど一応、慎也さんにメールを送っておく。
「今日は夜、家にいます」
慎也さんの返信はすぐに来た。
「分かった。温温した日々を」
誰もいない部屋で小さく「温温した日々を」と口に出してみる。この挨拶が私は好きだった。
いつか。
いつか、なんらかの理由で時雨の小説すら好きじゃなくなる時がくるのだろうか。
あんなに好きだったミナの小説に何も感じなくなったように。
私は物語の人物に沢山感情輸入した。物語を通して彼らの人生を追体験した。怒って、泣いて、喜びに満ちて、最後に少しだけ希望を見出し笑う。
だからこそ時雨が生み出した数々のキャラを架空の存在なんて風に考えたことはなかった。
もしかしたらどこかに存在するのかもしれない。だって小説の中で彼らはこんなにも必死に生きているんだから。そんなことを本気で今でも思っている。
でもいつか小説が沢山の文字が並べられているだけの紙の集まりに見えるのだろうか。
そんな日は来ないで欲しい。
でももっともっと慎也さんを好きになってしまったらあり得る話かもしれない。
小説家としての時雨ではなく私の話を聞いてくれる慎也さんを誰よりも好きになってしまったら。
そんな慎也さんがミナと付き合ったら。
なるべく早く2人の存在を忘れたくて、彼らが書いた小説も遠ざけるかもしれない。
そんな未来、来ないで欲しい。
その為に私は何をするべきなんだろう。時雨の小説を胸に抱きしめ考える。
一日中考え、ようやく1つの答えを出した。

「こんばんは」
夜の公園。いつものように座っている慎也さんに声をかける。
「こんばんは」
挨拶が終われば私もベンチに座る。
「何、話したいことって」
単刀直入に聞かれた。思ったことをそのまま口にする人だ。
「私、慎也さんのことが好きです」
なんの前触れもない告白。真夜中の公園。周りには誰もいなくて2人きり。告白するシュチュエーションとしては少し寂しい。
「それは小説家として」
慎也さんが私の頬を触る。胸が早鐘を打つ。顔が熱い。
「小説家としても好きです。1人の男性としても」
「……」
言葉を返してくれないことが不安になる。私達は真っ暗闇の中、見つめ合っていた。
「ありがとう」
やっと、とでも言うべきか慎也さんは私の頬から手を離した。
「でもごめんね。返事は少しだけ待ってて欲しいの」
「へ」
振られる気満々だっから驚きが隠せない。
「なるべく急ぐからさ」
「はぁ」
気のない返事をしてしまった。告白した日、慎也さんに今まで通り接して欲しい。出来たら公園で話したいと言われていた。
告白の返事は有耶無耶なまま私達はほぼ毎日夜中に会っていた。小説の話、音楽の話、テレビやアニメ、学校の話、色んな話をした。慎也さんは聞き上手でいつも穏やかに相槌を打ってくれる。
気になって「慎也さんってモテますよね」って聞いたら驚いたように「モテないよ」って返された。
「夜型ってだけで人付き合いは上手くいかないんだよ」
想像できずに首を傾げる。聞けば慎也さんは朝7時に寝て昼の1時に起きる生活をしているらしい。
「開園と同時に行く遊園地とか勘弁してって思うよ」
「徹夜になりますね」
夜型な人だとは思っていたけどここまで昼夜逆転しているとは思わなかった。
「小説家のいい所は夜型でも成り立つ所だよ」
何故か誇らしげな慎也さんが可笑しくて笑う。
「私も将来、昼夜逆転できる仕事につきたいな」
学校は苦痛だ。人間関係とかクラスの雰囲気とか色々な原因がある。そして原因の一つに朝方こそ正しいみたいな教え方があげられる。
「ほとんどの仕事は夜の方が給料いいよ」
「聞いたことあります、それ」
私はアルバイトをしていない。仮に始めたとしても高校生は夜10時以降、働けない。夜の給料にはそんなに詳しくなかった。
たわいない話をし続けて1ヶ月くらい経った日だった。
「今日、来れる?」
一件のメッセージ。私達はメッセージで確認するまでもなく同じ時間に公園で会う。それでもあらかじめ確認の連絡が来る時は何か話したいことがある時だ。
「行けますよ」
告白の返事だろうか。緊張しながら返信した。慎也さんからの返信はすぐに来た。
「良かった」
やっぱり振られるのだろうか。「良くないよ」と八つ当たり気味に呟く。私の独り言は当然誰からの返事もなかった。

「こんばんは」
いつもと同じ挨拶をまた繰り返す。
「こんばんは」
挨拶を返されたのを確認してからベンチに座る。
「これ」
渡されたのは一冊の本だった。
「なんですか」
慎也さんが唐突に私に何かくれるのはよくあることだ。それでも何故急に本をくれるのか理由は知りたい。
「俺の新作」
「え!」
驚きのあまり立ち上がっていた。
「嘘」
薄暗い中、目を凝らして本のタイトルを読む。
「貴女1人に送る物語」
「まだ発売されていないんだ。だから、小説の感想やネタバレをネットに投稿するのは控えて欲しい」
「それは気をつけますけど、私が読んで大丈夫ですか」
出版業界の関係者でもないんだ。発売前に小説を読んでいいのか不安になった。
「大丈夫だよ。ちゃんと担当編集者に許可取ったから」
それでも不安がる私に慎也さんは告げる。
「この小説は1番に美月ちゃんに読んで欲しい」
真剣な声色だった。思わず私は頷く。
「といっても既に担当編集者や出版業界の人が読んでるんだけどね」
冗談ぽく笑って言う。シリアスな雰囲気は霧散し穏やかな空気が流れた。
「どんな小説なんですか」
「読んでからのお楽しみ」それからも慎也さんは小説の話題を避け続けた。私達はまたたわいない話を1時間ほどして家に帰った。
家に着き、時計を見る。時刻は慎也2時過ぎ。もう寝ようと思ったけれどせっかくだから慎也さんからもらった小説を少しだけ読んで見る。さわりだけ読んだら寝るつもりだった。
気づいたら数時間が経過している。一気に読み終えていた。
読み終わって悶えた。だってこれって私へのラブレターだ。
主人公(よる)。高校1年生。スクールカーストで底辺にいる男の子。コミニケーション能力が低く周りも上手く馴染めない。学校も楽しいとは思えない。夜は学校が楽しそうな人、クラスの人気者に強い憧れを持つ。ある時美月に出会う。ただ本が好きな女の子。それだけで幸せだと笑う。自分の芯を持っている美月にやがて惹かれ始める。
夜は何処か闇がある人物だ。でも物語は明るい雰囲気で構成されている純愛ラブストーリーだ。時雨が描く光や優しさに満ちた愛の物語。

深夜0時。いつものように家を抜け出す。歩き慣れた公園へと向かう。
「こんばんは」
「こんばんは」
自然と同じベンチに腰を掛ける。最初の頃は荷物一つ分空けていたが段々と距離は縮まってきた。
「小説、読みましたよ」
「……どうだった」
「面白かったです!」
食い気味に反応してから、一旦落ち着くように息を吸う。
「あの、この小説って、告白の返事だと考えて大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」
私の頭を優しく撫でてくれる。
「にしても美月ちゃんは偉大だよ」
「え」
「だって俺が純愛小説書こうって思えたんだよ。美月ちゃんに出会えたからだよ」
その言葉が嬉しくていつまでも胸の中に残っていた。
しばらくして「貴女1人に送る物語」の告知が始まった。発売はまだだけど書店でもポスターを見かけるようになった。
多くの人に読んでもらいたい。時雨が書く純愛物語。
そう思っているのは私だけではなかったみたいだ。
やがて迎えた発売日、平積み重ねられた「貴女1人に送る物語」はかなり目立つ位置にあった。書店員さんが手書きで書いたオススメポップは目を引くものだった。
その日の夜、いつもと同じように公園へと向かう。
「今日が小説の発売日ですね」
「そうだね。読んでくれた人がどんな反応するか緊張するよ」
慎也さんの手が僅かに震えていた気がした。自分の手を重ねる。
「私は素敵な物語だから多くの人に読んで欲しいです」
慎也さんが私の手避け、改めて指を絡ませて手を繋ぐ。恋人握りだ。
「小説を出す時はいっつも色んな感情がごちゃ混ぜになるんだよ。期待していてでも怖くて」
「……」
返す言葉が分からないから無言になってしまう。慎也さんの不安は何一つ取り除けない。だから関係ないけど今日伝えたかった話をする。
「慎也さん」
「ん」
「私、将来出版業界に就職したいです」
慎也さんは驚いたように瞬きをする。
「それは本が好きだから」
「それもあるけど、私嬉しかったんです」
慎也さんが首を傾げる。
「『貴女に送る物語』を作るキッカケに少しでも私が関われたことが」
「少しじゃないよ。美月ちゃんがいたから書けた小説だよ」
空いてる方の手で私の頭を撫でる。くすぐったくて「ふふふ」と忍び笑いを漏らす。
「私、ずっと生きる価値がないって思ってたんです。親にもクラスメイトにも嫌われていたから」
嫌われるしか能がない、そう思っていた。
慎也さんは黙って優しい手つきで私の頭を撫で続けてくれる。
「でも初めて生きていてよかったって思えたんです」
恋人繋ぎをしている手に力を込める。慎也さんも合わせて握り返してくれる。
「この小説、本当に素敵だから。現実で嫌なことがあっても小説読めば忘れられる、救われるって人私以外にも絶対にいるから」
言葉を切って慎也さんの瞳を見つめる。
「だから私が小説に関われたことが本当に嬉しい」
「それで将来、小説に関わる仕事をしたいの」
「はい」
「ならいつか、美月ちゃんが俺の担当になってよ」
どこまで本気か分からない言葉に頷いた。

——5年後。
慎也さんと私は同棲をしていた。相変わらず夜型の慎也さんに合わせてお昼に軽めのご飯を作る。コーヒーを淹れて2人で飲んだ。
「次の小説、プロット作ったよ」
「相変わらず仕事早いですね」
私は出版業回に就職し、今では時雨の担当をさせてもらっている。さっと目プロットに目を通す。途端に脳内に色んな場面が浮かんできて興奮した。
「絶対名作になるじゃないですか」
「そうかな、なら良かった。でもこのシーン、悩んでいるんだよね」
「確かに、これじゃあ読者に伝わりずらいかもしれないですね」
2人で頭を悩ませながらあれこれ意見を出し合う。
「なら思い切ってこのシーンはカットして、変わりに……」
「それいいかも」
いい作品がもっと良くなる予感がして段々話し合いに熱が籠る。
「最後はプロポーズの場面で締めたいな」
「ロマンティックですね」
「美月ちゃんの憧れのシュチュエーションとかある」
少しだけ逡巡する。
「特には。何気ない日常の中で急にされるイメージかな」
「例えば今日みたいな日とか」
「ええ」
私は小説の話し合いの延長みたいな気分でいた。だから慎也さんが一旦席を外し、婚約指輪を持って戻ってきた時は心底驚いた。
「俺と結婚してくれませんか」
慎也さんが床に膝をつき、婚約指輪を見せる。
「え、は、はい」
驚きのあまり噛みまくりながらも返事をした。
私の薬指に指輪をはめてくれる。銀色に輝く指輪を見ると満ち足りた気分になる。嬉しくて幸せで自然と涙が溢れた。
「これからもよろしくね」
「はい」
最高のラブストーリーを私達2人で紡いでいこう。