「………………さ、さぁ……黒龍様。わ、わたくしめを、お喰べ下さい………………‼︎」

 直ぐに裸体となれる様麻の布を体に巻き付け、帯で結んだだけの衣服を纏った美麗な少女は、眼前の異形に対し、震えた声でそう言った。

「う……………………うぅ……………………」

 少女は黒龍様と呼ばれた異形に平伏しながら、汗と涙を流した。
 脳裏に過ぎるは、私を必死に引き留めようとする父母と祖父の姿。
 慟哭しながら、少女の手や腕、袖を掴んで必死に絶叫する、家族の姿。
 嫌だ。
 死にたくない。
 何万回も、何億回も、その言葉は再生された。

 その(こと)に、黒龍様は先ず声の主の方へ振り返った。
 鋼鉄の如き硬度を誇る鈍色(にびいろ)の肌。
 人の頭部大の爪牙。
 その背には剛健な背鰭と双翼。
 少女の三倍はあるであろう巨体が動く度、洞窟の天井が軋んでいる気がする。
 あくまでも気がするのみ。
 実際はそんな事起こってはおらぬのだが、これから死に行く少女にとっては些事であった。

「………………はぁ………………」

 黒龍様の口から白煙が立ち上る。
 まるでため息の様なその動作に、少女は怯えた。
 手が震える。
 気を抜いた瞬間、気を失ってしまいそうだ。
 黒龍様は、少女に向かい口を開けた。
 涎が地へと垂れて行く。

「余は主を喰らうつもりなど毛頭無い」

 突然、とても掠れた声が、洞窟内に響いた。
 威風堂々たる老爺の様な声であった。
 少女がその声が黒龍様のものであると気付くのは、黒龍様が声を放って暫く後であった。
 少女はばっと顔を上げ、その涙ぐんだ瞳で、黒龍様の澄んだ目を眺めた。

「…………喰べ無いのですか?」
「喰べん」
「何故でしょう?」
「喰らいたく無いものは喰らわん。お主とて、食いたく無いものの一つや二つはあるだろう?」
「…………虫は苦手です」
「一緒だ。我も、人は喰べとう無い」

 存外黒龍様とは人間染みているのだと、少女は拍子抜けだった。
 もっと、血生臭く、野生的で、私を見るなりその汚い歯で貪るのだろうと思っていた。
 だが黒龍様の歯は純白の輝きを誇っており、一切野生的では無い。
 寧ろ知的な生き物の様に感じられた。

「…………とうとうか。我も……」

 今の状況を整理していた時、黒龍様はそう呟いた。
 その声を聞き、少女が前に目をやると。

 黒龍様の体は崩壊していった。

 まるで骨が抜けてゆく様に、その皮膚は徐々に折り畳まれていった。
 いや、収縮していると表現した方が正しい。
 そしてその鈍色(にびいろ)の皮膚は薄橙に変貌し。
 それは人の子の体躯を形成した。

「…………やはり………………か」

 気付くとそこにいたのは、黒龍様が変貌した、裸体の女性。
 少女よりかは幾ばか年嵩であろうが、それでも少女の域を出てはいない。
 だがその女性の清廉な雰囲気が、少女を大人たらしめているのだ。

「…………え、……えーっと――――」

 少女が困惑している間。
 少女の事など気にせず、元黒龍様は洞窟の奥へと足を運んだ。
 何も言わずにそうしたものなので、地に蹲っていた少女は急いで立ち上がり、元黒龍様の後を付いて行った。
 元黒龍様の目には、澄んだ涙が浮かんでいた。


 元黒龍様が向かった先は、今まで歩いてきた大路の壁面に多々ある洞穴の内の一つ。
 黒龍様曰く、それは部屋らしい。
 少女は興味本意で中を覗く。
 それを見て、少女も初めは目を疑った。
 その部屋の中には、数多の衣服が綺麗に整列していたのだ。
 洞窟の中に、まさかこれ程までの衣服があったとは。
 それに驚いている間。元黒龍様はその部屋に入っていた。
 一切恥じらいもせず堂々と歩く元黒龍様の背を見て、やはりこの女性は黒龍様であったのかと再認識する。
 しかし少女はただ飄々と歩いた。

「少しここで待っていてくれ」

 少女は元黒龍様に部屋の前でそう言われた。

「黒龍様は…………黒龍様で宜しいのでしょうか……?」
「ああ、我は黒龍で構わない。そちらのほうが、主も判りやすかろう?」
「はい…………」

 そう言って黒龍様は部屋の中へと消えて行った。

 暫時経ち。

「済まない。入ってくれ」

 黒龍様が部屋の中から声が響いた。
 勿論少女はすぐさま部屋に入った。
 そこには、未だ裸体で、床には大量の衣服が散乱していた。
 それを見て、少女は思案する。
 或いは黒龍様は服の着方を存じてはおらなんだのか、と。

「済まない。永く黒龍でいる内に着衣の仕方を失念してしまって。教えてはくれないだろうか」

 思った通り、そうせがまれた。
 尤も、断る理由など無い。
 そうして着方を教え、黒龍様は床に散乱した衣服を着ようとするが。
 どれもサイズが合わなかった。
 そうして幾度も幾度も部屋にある大量の衣服を着続けて十数分。
 遂にピッタリサイズの服が見つかった。
 
「申し訳ない。時間をかけてしまった」

 そう言いながら、黒龍様は立ち上がった。
 やはり黒龍様の端正な顔立ちには、思わず見とれてしまう。
 
「少し、話をしたい」

 歩く場所も無いほどに散らかった部屋の中、黒龍様はそう言った。

「ここで…………ですか?」
「そうだな、少し場所を変えようか。まともにおもてなしもしていないしな」

 そう言って黒龍様は、部屋を先に出た。

 先の部屋の向かい。
 その部屋は言わば居間のようになっていた。
 勿論壁や床、天井に至るまで、なんせ洞窟なので岩で形成されているが、その部屋の中央にある机や椅子に於いてもここで削り出したであろう岩で作られていた。
 なので椅子や机は重いし、何より座り心地はあまり良くなかった。

「初めてこうして座ったが、存外悪くはないようだ」

 ぼそっと黒龍様はそう呟いたが、どうも理解し難い。

「普段は床に寝転ぶか、床に座り壁に凭れていたものだから、こうして普通の椅子に座るのは久方ぶりなのだ」

 少し不思議がる少女の顔を見て、黒龍様はそう補足した。

「この椅子や机は、我が暇つぶしに作ったものなのだ」

 そう言いながら黒龍様は、過去を懐かしむ様な、柔らかな表情を見せた。

「黒龍様は、いつからここへ?」
「もう百年近くは経った」
「その間も、ずっとお一人で?」
「ああ、ここへ来てからずっと独りだ」

 黒龍様の瞳からは寂寥感が滲み出ている様に感じられた。
 少女には、今まで信じていた村の人達との別れで悲しんでいた自分がちっぽけに見えた。
 決して少女の寂寥感は決して卑小ではないのだが、少女は優しかった。
 
「…………いや、それ程俯かなくて良い。今はもう淋しくない。主がここへ来訪してくれたから」

 黒龍様はそう言いつつ、優しく笑んだ。

 村では、こう教えられた。
 『山の麓の洞窟の最奥に御座(おわ)す黒龍様に決して近づく事勿れ。其れを許されしは英雄の贄のみとす。英雄の贄とは、つまり村の守護神なり。其の身を以て、村に平和と安寧を齎さん』と。
 英雄の贄は百年に一度、村の十八歳未満の少女を黒龍様に捧げるのだと。
 そうすることで、この村は黒龍様に蹂躙されず、数千年の安寧を譲受したのだと。
 まさか自分が贄となるとは一切思わなんだが、黒龍様と逢って、決して他を慮らぬ御人だとは俄かに信じ難い。

「英雄の贄ってご存知ですか?」
「………………知ってるが」
「どう思いますか?」

 黒龍様からして、自らに捧げ続けられる贄についてどう思うのか。
 少女は少し気になった。
 黒龍様は、村の伽話にも登場する。
 きっと寿命など無いのだろう。
 ならば過去にも幾人もの贄を捧げられたものだろう。
 その人達とも、こうして話したのだろうか。

「いいや、何も」

 その言葉に、少女は突然突き放された様な疎外感を感じた。

「…………済まない。言い方が悪かったな。勿論、可哀想だとは思う」

 それで補足したつもりなのだろうが、それでも他人事としか思っていないその言い草に、少女は憤りさえ感じた。

「突然、家族と、友達と、村の大人たちと、死別しろと言われるのだから。その贄の寂寥感は、我如きには量りかねる」
「その贄を、黒龍様は如何なさったのですか?」
「…………いいや、何も」

 先程と同じ返答。
 ふざけているのかと、如何しても思ってしまう。
 そんな御人では無いとさっき思案したばかりだというのに。

「いや、此方も答え方が悪かった。そもそも我に捧げられた贄は主一人だけだ」

 その言を理解するのに、少女は暫時を要した。

「そして我も、百年前に黒龍様へと捧げられた、言わば主より前代の英雄の贄という訳だ」

 少女は、益々訳が解らなくなってきた。

「済まない。順を追って説明しよう」

 黒龍様が言うには。

 つまり黒龍とは、捧げられた贄がその姿を変貌されて生まれたものだと。
 そして黒龍の継承は、前代黒龍の死を以て完了するのだと。
 黒龍が生まれ、人々は贄を捧げ、その黒龍は死に、贄が黒龍となる。
 その百年後、再び贄が捧げられた、その贄は黒龍となる。
 これが幾度となく繰り返され、今に至るのだと。

 目の前の黒龍様は少女と同じ贄であり、その次代黒龍は、贄である私なのだ、と。
 その過程で、一つ気づいた。

「…………黒龍様は、死ぬんですか?」

 次代黒龍が黒龍となった時、また前代黒龍は息絶えんと。
 そうならば、何れ黒龍様は少女と入れ替わりで死ぬと言う事。

「ああ、死ぬ。だが、一年以上先の話だ。今はあまり考えなくても良い」
「…………怖くないのですか?」

 黒龍様の腕に、鳥肌が立った。

「怖いさ。だが、黒龍として独りで生きて行くか、主と共に一年だけ生きるかと言われたら、我は間違い無く後者を選ぶ」

 何の迷いも無く、黒龍様はそう断言した。
 黒龍様は、自ら生と少女を天秤にかけた時、少女の方へと傾いてくれたのだ。
 死んでも、それでも少女と共に生きる道を。
 その事実が、少女を嬉々とさせた。

「あれっ?」

 少女の瞳から、一粒、二粒と大きな雫が、地面につくなりぼとりと音を立てる。
 自らが泣いている事に少女が気付いたのは、黒龍様より暫く後の事だった。

「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」

 そう言いながら止まる事を知らぬ少女の瞳は、ずっと、ずっと、目の中で暴れた。
 それを見た黒龍様は、その暴れを鎮めるかの様に、優しく、少女を抱擁した。
 少女の頭を胸に抱き、優しく撫でる。
 大丈夫、大丈夫、よく頑張ったね。
 そう少女の心に囁いた。何度も、何度も。

 この日少女は、黒龍様の胸の中で、静かに咽び泣いた。


 ◇


 その日から少女と黒龍様は、洞窟の最奥で共に暮らす事となった。
 少女が村に戻っても生き辛いだけである上、村以外に安寧の地は無い。
 ならばここで共に過ごそうと、黒龍様が提案してくれた。
 実際黒龍様も、前代黒龍様とここで共に過ごした様だし。
 そもそも何れ黒龍となるものは、村には戻れないのだ。
 黒龍と(まみ)え、黒龍がその任を全うした瞬間から、贄は何れ黒龍となる。
 そんな爆発物をここ以外には置いておけないのだ。

「朝食は如何なさいますか?」

 少女は台所に立ち、黒龍様に問う。
 この洞窟には、山肌に降った雨が地に浸透し洞窟に垂れて形成された池と、黒龍の作っていた畑があった。
 食糧庫にはその畑から採れた作物と、洞窟の直ぐ外の森林にある木の実や野草が沢山置かれてあった。
 一見不自由そうな洞窟だが、少女の村よりも食材のバリエーションが豊富なのは少し皮肉なものだ。
 
「主に任せる」

 そう言いながら黒龍様は自作の椅子の上で寛いでいた。
 余程気に入っているようだ。
 黒龍様の偉そうな言い草だったが、少女は特に憤りなどしない。
 黒龍様に朝食を任されただけで、少女は嬉しかった。

「そう云えば、未だ主の名を訊いてはおらなんだな」

 椅子が傾く程大きく背凭れに凭れ掛かる黒龍様は、そう少女に問うた。

「私の名ですか?」
「ああ、これから暫く共に過ごすのに、いつまでも“主”と呼ぶのは些か不躾であろうと思ってな」

 少女の名。
 つい二週間前まで呼ばれていた我が名が、昨日の今日で、とても遠い存在になってしまった様にも感ぜられた。

「…………ヒロ……です」
「ヒロ……か」
「母親曰く、心の広い人間になって欲しかったとか。後単純にヒーローとかけた、とか…………。娘の名前であまり遊ばないで欲しいのが本音ですけど」
「はは、面白い母様ではないか」

 ただ、自分の事は必死に愛してくれた母親だとは思っている。
 別れ際の母親を思い出して、ヒロはそう思った。

「黒龍様も、以前は贄としてここへ来訪したのですよね?」
「そうだが」
「黒龍様のお名前もお聞かせ願いたいのですが」
「…………我の名か? そんなもの、とうに忘れてしまった」

 そんな事……と思ったが、実際自身の名前を呼ばれる事も無く百年も過ごせば、忘れてもおかしくは無いとヒロは考察した。

「……ここへ来た当時は、我が名なぞ、忘れたくて仕方が無かった。名を思い出し、親を思い出すのが嫌だったのだ」
「親御様が、嫌いだったのですか?」
「馬鹿言え、大好きだった。だから、思い出したく無かった。思い出すと、帰りたくなったから」

 黒龍様の瞳には、昨日のものとはまた違った寂寥感が浮かんでいた。

「だがこうしていざ忘れてみると、淋しいものだな。今となっては、親が遺してくれた、唯一の形見だったのだから」

 黒龍様は、ほんの少し、口角を上げた。
 だがそれは笑んでいるのではなく、この遣る瀬無い気持ちをどうにか誤魔化そうとしている様であった。

「だからヒロも、その名を忘れぬ様に。きっと過去の己を悔いる事となる」

 その笑みを消し、瞳を貫き焼き切らん程に真っ直ぐ、黒龍様はヒロの両眼を見た。
 その言葉は、黒龍様の優しさなのか。
 はたまた、ただの気まぐれか。
 その時丁度、朝食が完成した。


 ◇


 緑葉が徐々に紅く染まり。
 世界がゆっくりと腐敗して行く季節。
 黒龍様と過ごして、十ヶ月が経過しようとしていた。
 私がこの洞窟へ来た時と全く同じ風景が、洞窟の外では繰り広げられていた。
 まるでその様は。
 その様は…………

「黒龍様。お身体如何ですか?」

 段々と弱り行く。

「ああ、大丈夫だ。ありがとう」

 黒龍様の如く。

「本当に…………ありがとう」

 葉々が腐り行く様に、黒龍様もまた、衰弱していた。
 だが一年経つには二ヶ月ある。
 黒龍様も、衰弱しているとはいえ、未だ元気そうだった。

「お水お持ちしますね」

 そう言い部屋を出ようとすると。

「待て」

 黒龍様から静止の命が下った。
 前へ進む足を止め、黒龍様の仰向けに寝ているベッドの隣にある椅子に、腰掛けた。

「…………ヒロに、一つお願いがあるのだ」

 会った時には、この方がこの様な弱々しい声を発するとは一切思わなかった。

「…………聞いてくれるか?」

 内容による……が、黒龍様は私の恩人。
 勿論。
 
「はい」

 黒龍様は一呼吸置いて、最期の願いを語った。

「村の人達に、黒龍の真実を伝えて欲しいのだ」

 力無い声で、黒龍様は切望した。

「黒龍となり、孤独に苛まれ寂寥感を抱く者が、居なくなって欲しい。ヒロには申し訳ないが、ヒロで最後にしたい」

 自分ではもう為せぬ夢を掴みたいと思い、黒龍様は天井の虚空を右手で掴んだ。
 決して苦しそうな様子では無い。
 だが私には、そんな黒龍様が酷く苦しんでいる様に見えた。
 黒龍様は、優しかった。
 そして、不幸が嫌いだった。
 人の苦しむ姿が、嫌いだった。

「だから、どうか、我の代わりに、私の宿願を成就させて欲しい。お願いだ、ヒロ」

 黒龍様の瞳から、涙がつーっと流れた。
 果たして、自らの手で宿願を果たせぬ悔しさか。
 或いは…………

「勿論です。必ず、果たしましょう」

 そう言うと、黒龍様はこれまでで一番の笑みを見せた。

「ありがとう」

 甘い声色で、私の心に、そう囁いた。


 ◇


 次の日。
 私は遂に、洞窟を発った。
 黒龍様は、如何しても送りたいと、少し蹌踉めきながら私を見送ってくれた。
 洞窟から村までは約二週間。
 急いで戻ってくれば、一年には間に合う。
 黒龍様が息を引き取る側には、私が居なければ。
 黒龍様をお独りで逝かせるのは、今までのご恩を仇で返すという事。
 何としてでも、間に合わせてやる。

「行ってきます」

 約十日分の食料を持って、私は黒龍様の下を発った。


 ◇


 出来るだけ食料を温存出来るように、少しずつ、少しずつ、消費していった。
 だが後三日程でやはり食料は尽きてしまった。
 するとここで食料を調達する他無くなる。
 しかし私には野草の知識がある。
 黒龍様に教えて貰ったのだ。
 一緒に洞窟の外へ出て、森を周り、色んなことを教えて貰ったのは良い思い出だ。
 懐かしい。


 ◇


 そして三日後。
 私は村に到着した。
 十一ヶ月振りの故郷。
 雰囲気は些か変わらぬ様だが、さて。

 村の周囲には、万一の時のため、木材で防護壁が建てられてあった。
 一つだけある柵の隙間には、門兵が常駐している。
 門兵の人とは、仲が良かった。
 気さくなおじさんだった。
 私が暇な時、いつも遊んでくれた。

 私と会ったらどんな反応をしてくれるのだろう。
 驚いてくれるのかな?
 喜んでくれるのかな?
 もしかしたら、泣き崩れてしまったりして。
 内心ウキウキしながら、私は門へと歩いた。

 そして今。
 眼前には門。
 その両脇には、昔と変わらぬ門兵が居た。
 さぁ、もう少しで会える。
 なんて声を掛けたら良いのだろう。
 そんな事を考えるだけでも楽しい。

「う…………っ!!」

 その時。
 突然胸に激痛が迸った。

「がぁ…………グッあぁ」

 両手で胸を押さえながら、地面に倒れる。
 痛い、痛い、痛い!

「ああああああ!!!!!!」

 激痛に閉じていた瞼をゆっくりと開くと、そこにあったのは、薄橙から鈍色(にびいろ)へと変色してゆく自分の体。
 それと同時に私の体躯はどんどん、どんどん大きくなり、元の身長の約三倍近い大きさへとなった。
 背には双翼が生え、聳える背鰭は本当に我が物であるのかすら疑わしい程に剛健であった。
 付近にあった木々はメキメキと軋みながら折れ、大量の鳥が空へと羽ばたいた。

 痛みが治った。
 だが、痛い。
 痛い。
 黒龍様の言葉を思い出した。

『次代黒龍が黒龍となった時、また前代黒龍は息絶えんと』

 すると、黒龍様はもう。

「……………………っ!!!」

 今すぐに慟哭したい。
 叫んで、叫んで。
 喉が切れるまで叫んで。
 吐血しようが、喉が痛もうが。
 ずっと叫んでいたい。

 痛い。
 痛い。
 ずっと、ずっと。
 胸が痛んだ。

 その時。

「いやぁぁぁぁぁ!!!!!」

 村の方から、悲鳴が轟いた。
 見つかってしまった。
 もう、黒龍様の宿願は、果たされなくなってしまった。

 申し訳ありません黒龍様。
 貴女様の宿願。果たせそうにありません。
 どうかお許し下さい。
 申し訳ありません。
 ………………ごめんなさい。


「ああああああ!!!!」


 また別の女性の叫び声が、足元から響いた。
 その途端、脹脛(ふくらはぎ)から激痛が迸った。
 直立状態を保てなくなり、私は再び地に倒れる。
 脹脛を手で押さえると、そこからどぷどぷと血が溢れているのが分かった。
 誰が…………?
 そう思い叫び声の主をみると。

「…………お母さん…………?」

 その手には昔私に料理を作ってくれた時に使っていた包丁があった。
 その刃には、私の血が付着している。
 私の呟きにも、何も反応しない。
 聞こえていないのか?

「あああああ!!!」

 今度は私の腹部目掛けて刃をめり込ませた。

「ガァァァァ!!!」

 あまりの痛みに絶叫する。

「よくも! よくもヒロを! 殺してやる、殺してやる!!」

 そう叫びながら、お母さんは何度も、何度も、私の腹を刺した。

「やめて………………やめてぇ…………」

 何とかそう訴えるが、お母さんには聞こえない。

「死ね! 死ね!!」

 (やが)て、声を出す気力も無くなった。
 ただ、お腹が熱い。
 痛くは無い。
 目の前が霞んで見えた。
 返り血に塗れたお母さんが、ただの紅い固まりに見える。
 その間にも、絶叫は耳へと入り込み、腹は抉られた。
 その間段々と鈍色(にびいろ)の肌は薄橙となり。
 体は縮み、双翼も背鰭も消え去った。
 そこには、母親の愛した一人の娘の骸があった。

 黒龍様。
 お母さん。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。



 ――――ごめんなさい。



 その後段々と薄橙の肌は蒼白となり。
 裸体の骸は唯、真紅に染まりし腹を抑え。
 殺人の業を背負う母は。

 哀哭する事さえ、愛情が許さなかった。



























 ◆
























 ―――一年後

其方(そなた)英雄の贄となりて、この村に平和と安寧を齎し給え」

 そこかしこで、歔欷の声が聞こえる。

「母さん、父さん。私行ってくるよ」

 ある少女は、父母に抱擁されながら、別れを惜しんだ。
 だがこれは仕方が無い事だと。
 名誉ある事なのだと開き直ろうとするが、そうもいかぬ。
 その涙に釣られ、少女を知る皆も、同じく涙を流した。

「一年前。黒龍様はこの村に天誅を下さった。幸い死傷者は一人も出なかったが、その様な惨禍が繰り返されぬ様、祈りましょう」

 村人は皆、これから贄としての責務を全うする幼き少女へ、祈りを捧げた。
 その光景を背に、少女は黒龍の棲む洞窟へと旅立った。


 それからも百年に一度。
 英雄の贄は村に安寧を齎す為、使命を全うした。