篠村は私を自転車の後ろに乗せて、走り出した。
 三時半。真夜中の出発。誰もいない、暗い夜。でも、ほんの少しだけ朝の匂いがして、少しだけ触れた篠村の背中はあたたかかった。
「篠村、どこに向かってるの」
「中学」
「え、中学? どこの?」
「俺らの」
 自転車で来たから遠出でもするのかと思っていたら。自転車で十五分程の母校に行くらしい。
「棚上、ごめん」
 篠村が一言そう言った。
「ううん」
 私はそう返すだけにした。なんで嘘ついたの? 渦巻く思いは消えていた。もう怖くはなかった。篠村は理由もなく私を傷つけたりはしない。私が信じたい篠村を信じる。
 お互い黙ったまま自転車はしばらく走っていたけど、突如スピードがダウンする。急な坂道になったからだ、母校は小高い丘にある。この坂を越えたら学校につく。
「降りようか?」
「今の俺なら、棚上のこと乗せていけるから」
「今の俺?」
「うん」
 篠村は立ちこぎに変わった。ぐうんぐうんと上に進んでいく。そうして私たちの母校に到着した。
 裏門の方に回ると、篠村は自転車を適当に止めた。そして門の横にある植え込みから学校の中に入っていく。
「懐かしい。いっつも朝練の時、ここから入ってた」
「だよなあ……」
 私が言うと、篠村は息を整えながら微笑んだ。
「大丈夫? 結構きつかったんじゃない?」
「全然大丈夫。こっちきて」
 裏門から入ると、大きなグラウンドが広がっていて石段をのぼっていくと校舎がある。一番上まで上ると石段に篠村が座るから、私も隣に座ることにした。
「ここ、私好きだったなあ」
「俺も」
 この石段に座ると上から町がよく見えた。今は暗くてぼんやりとしか見えないけど、晴れた日の見晴らしは最高で中学時代、一番お気に入りのスポットだった。
「棚上、ごめん」
 篠村は静かに言った。それは嘘を指している。
「篠村はお昼、起きてるんだね」
「うん」
「なんで、嘘ついたの」
 言葉が揺れる。篠村の顔がうまく見れない。
「ごめん。俺、今は昼夜逆転じゃない。だけど、中学生の頃、昼夜逆転症候群だった。これは本当」
「あ……」
 それで『昼夜逆転症候群』も『真夜中ルーム』も知っていたんだ。
 ……そうか、篠村は同情してくれたんだ。同じ症状の同級生がいて、苦しみがわかるから声をかけてくれたんだ。篠村は優しいから。善意でやってくれたことだと思うのに、同情だと思うと胸がふさがっていくような感覚がした。
「俺、中学に入ってすぐにいじめられて。それでこの町に引っ越してきたんだ」
「そ、そうだったの」
 篠村がいじめ? 想像がつかなくて聞き返してしまう。知らなかった。
「今は背も伸びたけど、中一の頃は小学生より小さくて。身体も細かったから、やり返すこともできなくて。結局いじめはなくならなくて。見かねた親が引っ越しを提案してくれたんだ」
「……」
 なんと言っていいかわからずに私は篠村の顔を見た。篠村は、町をまっすぐ見つめていた。口調や表情に翳りはなく、吹っ切れたような明るい顔をしていた。
「夏休みがあけた二学期から編入することになったけど。新しい中学に通うのも怖くて。そしたら昼夜逆転症候群になってた。朝が来るのが怖かったんだ」
「そうだったんだね」
「秋から昼夜逆転するのって最悪だよ。どんどん日は短くなっていくから焦るし」
 そういえば以前、そんな話を篠村とした気もする。篠村は秋と冬を経験していたんだ。
「『真夜中ルーム』にも俺はなじめなくて。毎日孤一人で夜を過ごしてた。そんな時に――あ、見て。朝が近づいてきた」
 話を止めて篠村は目の前を見るから、私も前を向いた。
「わあ……」
 暗いカーテンの下から漏れるように、光が溢れはじめた。空はグラデーションのように黒から紺に近づいていき、紺とオレンジが混じっていく。
「日の出って、夕焼けみたいだね」
 今の私にとっては夕焼けが朝だった。
 ――燃えるような球体が奥から顔を出した。太陽だ。
 揺らめく太陽が上にあがっていくにつれて、オレンジは白く輝き、青を水色に染めていく。そして水面が広がっていくように、黒までもが青に変化していく。
 私たちはしばらく何も言わずに、空がうつりかわっていくのをただ見ていた。
「眩しいね」
 私の目から涙が落ちた。眩しい。眩しすぎるからだ。「目が痛いくらい」
「明けない夜はないから、大丈夫」
 篠村は静かに言った。それはきれいごとだ、きっと昨日までの私なら素直に受け取れなかった。夜に沈んだままの私に朝なんて来ないんだから。
 でも、目の前の景色が証明してくる。「明けない夜なんてない」と。
「明けない夜はないから大丈夫。朝はみんな平等に来るんだよ」
 篠村は更に言葉を紡いだ。
「いい言葉だね、何かの歌詞?」
 私は涙を拭きながら笑ってみせると
「いや、歌詞じゃない。昼夜逆転症候群で悩んでる俺に棚上が言ってくれた言葉。ここで、こんな風に日の出を見ながら」
 太陽に照らされた篠村がおかしそうに笑った。
「え!? 私が、篠村に?」
 私から素直に驚きの声が出た。
「覚えてないかあ」
「え、いつの話?」
「中一の話」
 私は記憶を手繰り寄せてみるが、中学時代にこんな時間に外を出歩いた覚えはない。
「人違いじゃなくて……? こんな時間に外出ないよ」
「冬の話だから。朝練に来た棚上と、俺の話」
「あ……」
 そうか。冬ならこんなに日の出は早くないし、まだ薄暗い時間に学校に来たこともある。当時の私は張り切っていて、先輩よりも誰よりも早く朝練に向かっていたんだった。そしてこの石段で何度も日の出を見た。
「小学生と、日の出見たの覚えてない?」
「あ……!」
 そう言われて思いだした。ある朝、いつものように朝練に行こうとして、道端にしゃがみこんで泣いている男の子を。おせっかいだった私は男の子を励まそうと、自転車の後ろに乗せて、中学のグラウンドに連れて行ったことを。
「俺、小さかったから。棚上は小学生だと勘違いしてたなあ」
「……それは失礼しました」
「俺がずっと夜にいる、朝がこないって泣いてたら棚上が言ってくれたんだよ」
 朝日に照らされた篠村の顔が、あの日の小学生と重なる。
「旭って名前、きれいだね……?」
 私は頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「お、完全に思い出したな? そうそう、それも言ってくれた」
 篠村は嬉しそうな声を出すと、また空を見た。朝日が見える。
「ずっと夜から連れ出してほしかった。あの日、棚上が夜から俺を連れ出してくれて。ずっと俺は棚上みたいになりたくて、頑張ってたんだよ」
「そうだったの……」
 線香花火の日に篠村が話していた人の正体に気づいて、身体が熱くなる。身体に太陽が入り込んでしまったのかと思うくらいに。
 私が、篠村を、過去に救っていた、なんて。
 そしてその時の言葉に今、私が救われている、なんて。
「頭そんな良くなかったけど棚上と同じ学校入れるように頑張ったし、高校デビューも頑張った。今の自分なら話せるかもって、夏休みに花火大会誘おうと思ってたら、急に棚上休み始めて。先生に聞いても濁すから。もしかして、と思って『真夜中ルーム』に何回か行ってみたんだ」
「待って。それって篠村、ずっと私のこと気にかけてくれてたの」
 私の質問に頷く篠村の顔は朝日みたいに赤い。
「俺知ってるから。一人の夜のしんどさを。何かできないかとおもって。でも、昼の人間とは過ごしてくれないと思って……嘘ついてごめん」
 私は首を振った。篠村の予想通りだからだ。あのときの私は全てが卑屈で、同情なんていらないときっと断っていた。たとえそれが過去に昼夜逆転を経験した人でも。昼と夜の住人は違うと思って。
「でも詰めが甘いよ。私の友達、サッカー部の彼女なんだから」
「うわーそこからバレたか。なんで俺の話を。――もしかして棚上が俺の話してくれたの?」
「あはは、してない。篠村、自分が思っているより何倍も今人気者なんだよ」
「え?」
 篠村は不思議そうな顔をしているから私はまた笑った。
「篠村、一緒に夜を過ごしてくれてありがとう。……明けない夜はないかあ。過去の私に、少し救われるとはなあ」
 空はだいぶ明るくなってきていて、もうオレンジは見えなくなっていた。薄い水色が広がっている。
 学校は、社会は、これからもずっと怖くて手探りで進むしかない。人とコミュニケーションを取るのは、何が正解かはずっとわからない。何百回も言葉は飲み込んでしまうだろうし、悩んだ末の言葉でも誰かを傷つけてしまうかもしれない。
 だけど、朝はこんなに美しいんだ。
「私、昼夜逆転治るのかなあ。篠村はいつ治ったの?」
「二年生になる春休み」
「半年くらいかかったのかあ。そうすぐには治んないかもしれないよね」
 篠村は義務教育の中学生だったけど、単位のある高校生活は困ることもありそうだ。もし半年も休んだらどんな影響があるのか結構怖い。でも現実的なことを考えられるようになっただけで、一歩前進だ。
「そうかもな」
「でも、朝をこれからも見たいな」
 私は立ち上がってうーんと伸びをした。篠村も立ちあがって真似をする。私よりずっと高くなった背。
「棚上がよければ、これからも一緒に夜を過ごしたいんだけど。どうかな?」
「約束の海、行きたいな」
 本音をこぼすと、篠村の「行こう!」と嬉しそうな声が返ってきた。
「でもいつか、昼にも行って、思いっきり泳ぎたい!」
「行けるよ。行こう」
「篠村と、行きたい」
 明るくなった空を見つめて、深呼吸する。夏の朝の匂いだ。