暗闇の中で、雲朔が金蜥蜴の後を追っていた。たったそれだけの映像なのに、命懸けの脱出に成功したことがわかる。断片的な過去を映し出しているにも関わらず、まるでその場にいたかのように、その時の状況、雲朔の気持ちなども体に流れ込んでくるように理解することができた。

(なにこれ、凄い)

 私は興奮して、食い入るように鏡の映像を見続けた。
 雲朔は皇居を出ると、金蜥蜴の後を追い、崑崙山(こんろんざん)を登っていた。どうして山なのかは雲朔自身にもわかっていないようだけれど、金蜥蜴を追いかけると決めたので、とにかく必死で追いかけているらしい。数日かけて険しい山を登った雲朔は途中で力尽きて倒れてしまった。

(えぇ、どうなるの⁉ ていうか、そこまでして金蜥蜴を追う必要ある⁉)

 鏡の中の少年時代の雲朔にそう言いたいが、あいにくこれは過去の映像だ。伝わるわけもない。
 雲朔が目を覚ますと、簡素な山小屋の中にいた。暖かな暖炉があり、古びた布団もかけてもらっている。
 そこには白髪で目を黒布で覆っている初老の男性が暖炉に火をくべていた。盲目のようだが、まるで見えているかのように不便なく動いている。さらに、毛皮の短衣の上からも筋肉隆々で鍛え上げられた体だったので、只者ではないことが一目でわかった。

 その後雲朔は、その老人から厳しい訓練を受けている映像が映し出された。その老人は、まるで仙人のような不思議な術を使っていた。人間とは思えない身のこなしに、雲朔は何度手合わせしても打ち負かされる。
 そして数年が経ち、雲朔はすっかり精悍な青年へと成長した。小柄で細身だった体型は、背がぐんと伸び、腹筋も割れている。
 すぐに負けていた老人との手合わせも、互角に戦えるようになっていた。

 そして雲朔は老人に別れを告げ、崑崙山を下りた。それから少しずつ仲間を集め、兵力を強めていった。
 簒奪帝の政治に不満を持つ者を集め、玉璽を見せると人々は雲朔を神のように崇めた。そうやって短期間で大きな戦力を得た雲朔はついに国を攻める。
 私利私欲に溺れすっかり怠け切った国の戦力は弱体化していて、雲朔たちの奇襲に呆気なく敗れた。

 もう負けが確定した簒奪帝は、宮殿に逃げ込むと臣下に自害を命じ、女官や後宮妃もろとも火で焼き尽くした。
 雲朔は人々を救おうと尽力していたが、救えなかった者たちも大勢いた。
 雲朔が殺したと巷で言われていたが、実際は簒奪帝によって道連れにされていたのだった。
 そして新皇帝となった雲朔は最愛人を探す旅に出たのだった――

 真眩鏡に映し出された過去の映像が消えた。
 まるでその場にいたかのような臨場感だったので、私はしばらく驚きに包まれ言葉を発することができなかった。気持ちを必死で整えようとしている私に、雲朔が穏やかな口調で映像の補足を告げる。

「この真眩鏡は、山を下りる時に師匠から貰ったものなんだ。本当に不思議な人だった。師匠との出会いがなければ、今の俺は存在しない」

 雲朔は懐かしそうに真眩鏡をなでた。
 雲朔の過去は、にわかには信じられないような出来事に満ちていた。でも、作り話だとは思えなかった。雲朔は天に認められた人物なのだ。仙人のようなあの老人との出会いが、それを物語っている。まさか雲朔が皇帝になるなんて、と思っていたけれど、今では納得できる。雲朔は知力、体力ともに、誰よりも優れた人物だった。皇帝になるべくして産まれた男だったのかもしれない。
 そして、罪のない多くの女官や後宮妃を殺したのが雲朔ではなくて良かったと心から安堵した。雲朔は皆を必死で救おうとしていた。それがわかっただけで、雲朔への恐怖心が消えていく。雲朔は、優しい雲朔のままだった。

「雲朔は、敵でさえも救おうとしたのね。それなのに私は、雲朔が数万の命を奪ったのだと思っていたわ。ごめんなさい」

 私が謝ると、雲朔は少し悲し気な表情を浮かべた。

「実際にあの戦いで亡くなったのは、数万ではなく数千人ほどだったと思う。ただ、噂は大きくなって広まるのが常だし、俺が戦いを挑まなければ失わなくて済んだ命もあるから、噂を否定せずにいたんだ」

「事実をちゃんと伝えた方がいいわ。皆は雲朔を誤解している。……私のように」

 私が申し訳なさそうに俯くと、雲朔は優しい微笑みで、昔のように私の頭をなでた。

「そうだね、これからはそうするよ」

 昔のような微笑みで、昔のように頭をなでられたのに、どうしてか昔とは違う感覚になる。
 昔は、頭をなでられたら嬉しくて、もっと褒められたいと思った。
 でも今は、その感情とは違う。現在の雲朔の手はとても大きくて、否応なしに男性という意識が勝ってしまって、ふれられると身構えてしまう。
 生理的に嫌だという感情はまったくない。以前のような恐怖心もない。むしろ胸が高揚して頬が赤くなってしまう。

(変わったのは、雲朔ではなく、私かもしれない)

 八年の月日は長い。子どもが大人へと成長するには十分な年月だ。

「俺の望みは華蓮だけだ。昔から、今も……」

 雲朔は私をじっと見つめた。

(こんな顔をする雲朔を、私は知らない)

 私も雲朔を見つめ返した。二人の間の空気が甘く刺激的なものへと変わる。

「俺が怖い?」

 雲朔は指先で私の頬をなでた。指先が触れられただけなのに、ピリリと甘い刺激が私の体を伝う。この反応こそ、私がもう大人の女性へと変わったことの証だ。

「……いいえ」

 私の返事は、二人がこの先へ進むことを許可する合図だった。
 欲しがるような雲朔の魅惑的な目の鋭さが、その意味を理解したことを物語っていた。そして、その好機を逃すほど、雲朔は子どもではないことを私は知っている。
 雲朔はゆっくりと私の顔に近づき、柔らかな唇を重ねた。今度の口付けは額ではなかった。
そして私を強く抱きしめると、何度も何度も深い口付けをする。
 私たちは、大人になっていた。

 後宮に戻ると、外はすっかり朝になっていた。
 紅閨宮まで私を送り届けると、雲朔はすぐに外廷へと仕事に向かった。
 私が寝台に横たわると、猛烈な勢いで亘々が部屋に入ってきた。

「お嬢様、大丈夫ですか⁉」

「ええ、生きているわ」

 私は布団をかぶり、大きなあくびをしながら億劫そうに返事をした。

「気がついたら紅閨宮にいないので心配しましたよ! どこに行っていたのですか?」

「皇帝の宸室よ」

「えっ……」

 亘々の反応から、宸室と聞いてどういう想像をしたのかがわかった。

「違うわよ、なにもなかったわ。ただ、不思議なものを見せてもらったの」

 厳密にいえば唇を重ねているので、なにもなかったわけではないのだが、そこは恥ずかしいので隠してしまった。

「不思議なものとは?」

「う~ん、話すと長くなるから、後でいい? 昨夜は一睡もしていないから眠くて」

 亘々は今すぐに聞きたい気持ちをぐっと堪えた。

「わかりました。すみません、押しかけて」

 しょんぼりしながら部屋を出て行く亘々を見て、少し罪悪感が芽生えた。眠いけれど、話した方がいいだろうかと思っていると……。

「起きたらすぐに呼んでくださいよ!」

 と去り際に念を押されたので、逆に罪悪感は消えた。

「はいはい」

 宮廷に戻ってから、どちらが年上かわからないくらい亘々は明るくなった。きっと今の姿が本来の亘々で、今までは私を守るために必死だったのだろう。

(今の亘々の方が一緒にいて楽しいわ)

 私は微笑みながら眠りについた。今日は久しぶりになんの不安もなく眠れそうだった。

 目が覚めると、もう昼過ぎだった。
 遅めの昼餉を食べながら、亘々と二人だけで話をする。
 ちなみに亘々は、山盛りの饅頭(まんじゅう)を持ってきた。もちろん亘々が食べる用である。そして亘々は数刻前にしっかりと昼餉を食べている。

「亘々、こちらに来てから食欲が暴走していない?」

「私は元々大食漢です」

 亘々は饅頭を頬張りながら言った。

(そうだったのね。いつも私に食べ物をくれるから小食なのかと思っていたわ)

 長年の我慢の糸が切れたらしい。苦労をかけてしまったなと思った。

「それより、昨夜見た不思議なものってなんですか?」

「ええ、それが……」

 私は真眩鏡に映し出された雲朔の過去を全て話した。
 亘々は驚きの眼差しで、真剣に私の話を聞いた。
 全てを聞き終えた亘々は、複雑そうな表情を浮かべていた。

「……先入観って怖いですね。数万人の罪なき人々を殺したと思っていたので、過剰に雲朔様を恐れてしまっていました。たしかに雲朔様の雰囲気は変わったけれど、中身はお優しい雲朔様のままだったのですね」

 亘々はしょんぼりと項垂れて、遠くを見つめながら、お饅頭をぽいと口に入れた。もぐもぐもぐ、と緊張感のない顔で咀嚼(そしゃく)する。

(反省の弁を口にしているけれど、全然心を痛めていなさそう)

「そ、そうね。真面目で実直だから怖そうに見えるだけだったみたい」

「まあ、そうと分かっていても、もう二度と二人きりになるのはごめんですけどね」

 よほどこの前のことが堪えているらしい。亘々らしくて笑ってしまった。

「雲朔は不器用なだけなのよ」

 愛おしそうに呟いた私の変化に、亘々は素早く気がついた。

「おや、お嬢様。ついに恋する乙女の顔になりましたね」

 亘々がにやにやしながら言うので、私は恥ずかしくなって頬を赤らめながら否定した。

「ち、違うわよ!」

「違うのですか?」

 わざとらしい顔でとぼけて見せる亘々。
 昨夜の口付けを思い出し、私は肩をすくめる。

「違わないとも言いきれないけど……」

 ほぼ肯定する言葉が出てきて、亘々は両手を挙げて万歳した。

「いや~、めでたい! 十日後に好きかどうかわからなくなった相手と結婚しなければいけないなんて不憫だと心を痛めておりましたが、一番いい形に収まりましたね!」

 私もこんな気持ちのまま雲朔と結婚することは気が進まなかったので、亘々と一緒になって笑顔になるも、一点だけ気になる言葉が出てきた。

「え、十日後?」

「はい、知らなかったんですか?」

「聞いてないわよ。どうして私が知らなくて亘々が知っているのよ」

「いや、まさか本人が知らないとは思わないじゃないですか」

(えぇ……そうかもしれないけど)

 まったく悪びれることなく言われたので、言い返す言葉もなかった。

「いいじゃないですか、今さら。すでに宮も与えられて夜渡りもある。ただ形式上の儀式をするだけですよ」

 亘々はお饅頭をひょいと口に入れた。

(それも、そうね。今夜雲朔に会ったら、儀式のことを聞いてみよう)

 私は今夜も当然、雲朔が訪れると思っていた。
 甘い口付けをしたあとだ。少し気恥ずかしい気持ちはあるけれど、今までとは違って会うことが楽しみだった。
けれど、雲朔は来なかった。
 疲れて眠っているのだろうと思ったけれど、その次の日も来なかった。その次も、その次の日も来なかった。
 そうして次に雲朔と顔を合わせたのは、婚姻の儀式の間だった。

  ◆

 皇帝と皇后の結婚式は、私の想像をはるかに上回る豪華さだった。
 形式上だけだけれど、輿入りは二度目の私。妃嬪(ひひん)は結婚式を挙げないので、初めての儀式だ。
 通常、結婚式までにある六礼といわれる、新婦側へ贈り物をする納采(のうさい)や、新婦を花車に乗せ新郎の家まで運ぶ親迎(しんげい)は行われなかった。
 私の両親は亡くなっているし、すでに後宮入りしているので、六礼をしなかったというより、できなかったという方が正しい。
 石畳には赤い敷物が敷かれ、宮殿前はお供え物やお酒、そして美しい花々で彩られている。赤い敷物の横には、文武百官が立ち並び儀仗(ぎじょう)していた。

 宮殿の最上段に皇帝と皇后が座るところがあるので、そこに鎮座し、神官が祝詞(のりと)奏上(そうじょう)し、神々に捧げられる音楽が鳴り響く。そうして数時間に渡る儀式は粛々と進行していった。

 雲朔と言葉を交わすことなく、一切の儀式が滞りなく終わった。

翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の赤い寝台の上で、赤い花嫁衣裳を身に纏い、紅蓋頭(ホンガイトゥ)と呼ばれる赤い頭巾を頭から被って新郎を待つ。
 皇帝の訪れを知らせる鈴の音が鳴り、部屋に誰かが入ってきた気配がするのを感じた。頭巾を被っているので見ることはできないし、慣例上声を出すこともいけない。
 寝台に座りながら、静かにその時を待つ。

 そして、頭巾は上げられた。伏し目で待っていた目を上げると、そこには涼やかな眼差しの雲朔がいた。
 雲朔は、黒色の袍に、赤い前掛けをかけていた。結婚式とは違い、冕冠(べんかん)や金糸で織られた龍の刺繍の入った上着などは脱いでいる。
 流れるような黒髪に、息を飲むほど整った顔立ちで、真っ直ぐに私を見つめる雲朔。溢れ出る気品の中に、修行で培った野性的な雰囲気が混在している。

 昔のようなひ弱で線の細い小柄な男の子の影はない。
 あれほど切望した雲朔との結婚の夢が叶ったのが不思議な気持ちだった。
 私たちは黙って見つめ合い、そして雲朔が口付けしようと顔を近づけた。
 唇が触れようとする、まさにその時。私はついに口を開いた。

「待って」

 驚いて顔を離した雲朔に、睨みながら私は言う。

「ちょっと、あなた。口付けする前になにか私に言うべきことがあるのではなくて?」

「え?」

 まさかこんな展開になると思っていなかったのだろう雲朔は、あきらかに戸惑っている様子だった。
雲朔は目をパチパチさせながらうろたえた。

「……どうして怒っているの?」

 雲朔は、言ってはならない言葉を口にした。雲朔としては、それ以外に言いようがないのかもしれない。いや、そんなことはない。もっとなにかあるでしょうよ!
雲朔の鈍感具合は、私の怒りに火をつけた。

「どうしてじゃないでしょう! あなたね、結婚式まで一度も顔を見せに来ないし、連絡もないし、なにがあったのか心配するじゃない!」

 雲朔は、なぜ私が怒っているのか理由がわかると、困ったように目を泳がせた。

「いや、それは、その……」

 言い淀む雲朔に、私は怒りをぶつける。

「どうして来ないんだろう、嫌われてしまったのかとか毎日思い悩んでいたのよ、私!」

「え⁉ いや、そんなわけない。俺はずっとこの日を待ち望んでいたんだ」

「じゃあ、どうして急に来なくなるのよ!」

 怒っていた私の目が潤んでいるのを見て、雲朔はとんでもないことをしてしまっていたのだと、ようやく事の重大さに気がついたようだ。

「それは、その……会ってしまったら我慢できなくなると思ったんだ」

 雲朔は気まずい表情をしながら打ち明けた。

「我慢?」

「うん、口付けだけじゃ抑えられる自信がなかった。でも結婚式までは抑えなければと思って、会いにいけなかった」

 予想もしていなかった言葉に、私の怒りは急激に萎んでいった。

「え、そんな理由で?」

 私の言葉に、今度は雲朔が怒った。

「華蓮にとってはそんな理由かもしれないけど、俺にとっては重大なんだ」

 抑えようと思っていても、抑えられなくなる可能性がある。結婚式前に最後に会った夜、雲朔が大人の男性に成長していたことを実感したのを思い出す。

「それなら、一言、そう言ってくれればいいのに……」

 すっかり形勢逆転してしまった私は、気まずそうに項垂れて言った。

「じゃあ、その一言を伝えるために会いに行って、我慢しきれずに押し倒してしまっても華蓮は構わなかったってこと?」

 ぐいと顔を近づけてきた雲朔。

「そ、れは……」

 目を泳がせる私に、雲朔はぷっと笑いを吹き出した。

「ごめん、ごめん。ちょっと意地悪だったね」

雲朔は笑いながら私の頭をなでた。

「怒った顔の華蓮を久しぶりに見た気がするよ。そうそう、華蓮はこんな子だった」

「こんな子ってどんな子?」

 私は不満顔で雲朔を上目遣いで見た。

「自分の気持ちに素直で、お転婆で、とびきり魅力的な女の子ってことだよ」

 雲朔は私の顎を指先で持ち上げ、唇を塞いだ。
 突然口付けられ、抗議の声を上げようにも雲朔の唇で塞がれてしまったので、手をバタバタとさせる。
 雲朔はそのままドサリと寝台に私を押し倒した。
 唇が離されたけれど、今度は覆いかぶさるように体の上に乗っかられている。
 雲朔の真剣な瞳に、言葉が出なかった。

「怖い?」

 射るような眼差しと違い、雲朔の声は優しかった。
 怖くないと言ったら嘘になる。でも、覚悟はできていた。
 なにも言わず、雲朔を見つめる。

「嫌だって言っても、止められないから」

 優しい雲朔らしからぬ発言に驚いたけれど、小さくコクリと頷いた。
 雲朔は私の手に指を絡め、口付けを落とした。


 目を覚ますと、朝日が眩しく部屋全体を明るく照らしていた。
 広い寝台に一人で寝ていた私は、おもむろに起き上がった。

(しまった、寝すぎたわ)

 雲朔は朝日が昇る前に朝廷に出かけていった。皇帝は神事を司っているので朝から忙しいのだ。
 昨夜はたっぷり雲朔に愛されたので、雲朔を見送ったあと二度寝してしまったらしい。
 雲朔は名残惜しそうに、何度も私を抱きしめ、なかなか出立しなかった。駄々っ子のように出勤を嫌がる雲朔を優しく(いさ)めた。

(雲朔はほとんど寝ていないというのに私ときたら……)

 寝台の横にある小卓に置いてある呼び鈴を鳴らした。
 するとすぐに亘々が部屋に入ってきた。

「おはようございます、娘々(にゃんにゃん)

 やけに威勢のいい声で、溌剌(はつらつ)とした様子だ。しかもいつもより身なりを整えて上品な出で立ちになっている。

「娘々?」

 訝し気な表情で亘々を見る。亘々以外の女官は、私を娘々と呼ぶが、亘々までも皇后の尊称で呼ぶのはおかしな気がする。

「そうです。もうお嬢様と呼ぶのはおかしいでしょう。私も皇后付きの女官なのですから、これからは責任を持って接してまいります」

 今までお饅頭をポイポイ食べて、やることといったら私の話し相手くらいで堕落した生活を送っていた者とは思えない発言だ。

(まあ、確かに、私も皇后として自覚を持たないと)

 皇后は妃嬪とは違うのだ。皇帝を喜ばせ、子を持つだけが仕事ではない。後宮を束ね、国の未来を考える存在であらねばならない。着飾って、お菓子を食べて日中過ごすだけでいいわけはない。
 数人がかりで入念に化粧を施し、幾重にも重ねた豪華な衣装を身に纏う。
 正直、重いし面倒くさい。これが毎日かと思うとげんなりする。
 とはいえ、愛する人が皇帝となったのだ。しかもお嫁さんにしてほしいと頼んだのは私だ。雲朔が簒奪帝を倒し、新皇帝とならなかったら、今でも国は簒奪帝の私利私欲のために湯水のように税金が使われ民が苦しむことになっていた。

(お父様がずっと守ってきたこの国を、今度は私が守るのよ)

「ところで、皇后の具体的な仕事ってなにかしら?」

 やたらと意欲満々な亘々に問う。
 すると、亘々はしばらく考え込んだのちに口を開いた。

「さあ、なんでしょうね」

 ……前途多難な幕開けだ。


 雲朔直々に選出した有能な女官たちに皇后の仕事とはなにかを聞いてまわることになった。そこからか、と頭を抱えそうになるが、知らないものは仕方ない。なにせ、ほんの少し前まで孤立した田舎の集落で暮らしていたのだから。
 どうやら皇后の仕事というのは、後宮の行事や管理、さらに宮廷儀式や挨拶まわりなど多岐に渡るが、その時代の皇帝や皇后によって違うらしく、決められたものはないらしい。
 しかも今は新皇帝となって宮中も慌ただしく、復興することで精一杯らしい。

「つまり、私が今やらなければいけないことは、後宮の復興ってことね」

 私が結論を下すと、亘々が困ったように頭を掻いた。

「復興って、具体的になにをやればいいんですかね? 後宮を復興した皇后の話なんて聞いたことないですよ」

「仕方ないじゃない。教えてくださる先代の皇后は亡くなられてしまったし、後宮にいたほとんどの者が殺されたのよ。私たちが一から立て直さないと」

「それはそうですが、そもそも鴛家は一夫一婦制の鴛鴦を祖とするので、側室は持たないじゃないですか。後宮の意味あります?」
「それは……」

 なかなか痛いところを突いてくる。しかも、私は雲朔に妾はつくるなと約束させているし、もし浮気でもしようものなら大泣きして暴れるつもりだった。
 後宮って一体なんだろうか。昔から当たり前にある存在すぎて考えたこともなかった。

「いっそこのまま皇后権限で後宮を潰してしまうっていうのもどうですか?」

 亘々はニヤリと不敵に笑った。

「後宮を潰して外廷に引っ越すってこと? じゃあこの場所は何に使うのよ」

「それはまあ、色々活用法があるんじゃないですか?」

 色々ってなんだ、と私は思った。そもそも思いつきで後宮を潰すなんてよくない。もしもいらないものならば、賢帝であった先代がすでになくしていると思う。とはいえ、なにも知らない状態でアレコレ考えてもよくない。私は、しばらく考えたのちに急に立ち上がった。

「よし、後宮を散策するわよ!」

 そうして、私と亘々は、まずは後宮内を歩いて見てみることにした。二人だけでは心もとないので、後宮を統べる宦官の長である局丞(きょくじょう)郭解(かくかい)に案内役を頼んだ。

「後宮をなくす? こんなに広い土地を与えられたのに自ら放棄しようなんて、面白い考えをするのですね、亘々様は」

 郭解は五十か六十代くらいの背の低い宦官だった。髭のない女性のようなつるりとした肌に、顎肉が落ち、皺の寄った外見をしている。去勢した者は早く老け込むことが多いので、その影響だろう。
 郭解は、元々は外廷の有能な官吏だったそうだが、簒奪帝に無理やり宦官にさせられた。雲朔と簒奪帝の戦いで、簒奪帝に道連れにされ殺されるところを雲朔に助けられた経緯があり、今では雲朔を支える忠実な臣下だ。

「妃を迎える予定がないのに、後宮があっても仕方ないと思ったのです……」

 亘々は気まずそうに肩をすくませて言った。良い考えだと思ったのに、一笑に伏せられたので自分の考えに自信がなくなったようだ。

「確かにこの規模は必要ないでしょうね。ただ後宮をなくしても娘々がお住みになるところを外廷に作ったら、そこが後宮になるでしょう」

「どういうことですか?」

 私が問うと、郭解は私たちの前を歩きながら答えた。

「外廷には男たちがたくさんいます。そんな危険な場所を大人数の付き添いなしに歩くことはできません。結局、娘々を守るための広大な土地が必要になるでしょう」

「なるほど、安易に引っ越すと余計な国費がかかるということですね」

 私の返事に郭解は大きく頷いた。

「そうです。それに戦などから守る意味もあります。簒奪帝はそれを悪用し、後宮妃や女官もろとも皆殺しにしましたが、普通は敵であろうとも、女子供を殺そうとする非道な奴はそういません」

 簒奪帝がいかに非道で残酷な人間であったかがわかる話だ。
 後宮という場所は必要であるならば、縮小してなにか他のことに使える道はないだろうかと考え、見てまわった。
 八年前とはずいぶん変わっている印象だった。建物も多く、たくさんの後宮妃が入内してきたのだろう。綺麗にはなっているが、所々焼け焦げた跡がある。

「この焼け跡は八年前のもの?」

 私は歩きながら聞いた。
八年前に後宮に火をつけたのは雲朔だ。私が逃げたことをわからなくするためと、女人の死体を劉辱する輩もいるために燃やした。真眩鏡にその様子は映し出されていたので知っている。

「いいえ、あの大火事のあと、大規模な後宮再編が行われました。新しい殿舎が次々と建ち、絢爛豪華で栄華を極めたような後宮でした。妃や女官も大勢おり、簒奪帝は美女たちと酒池肉林の毎日を過ごされていました」

 想像しただけで吐き気がする。自らの私利私欲のために大勢を殺した簒奪帝。死んだ今でも憎しみは消えない。

「簒奪帝が戦に負け、臣下と共に逃げ込んだのは後宮の宮殿です。後宮は外廷から侵入しにくくなっているので、集団自決するのに都合が良かったのでしょう」

「げ……」

 亘々が思わず青ざめて言った。私も外廷の宮殿だと思っていた。

「娘々の住まいから一番遠い場所ですよ。後宮の一番端。ほら、あそこです」

 郭解が指さした方向を見ると、焼け落ちた大きな廃墟が残されていた。真っ黒になっていて、その焼け焦げた壁には、かすかに昔の栄光を偲ばせる彫刻が残っていた。

「外廷の官吏は大家のおかげで救われた者も多くいましたが、後宮にいた者たちは道連れとなってしまいました。私はあの戦があった時、外廷にいたから助かったのです。後宮の妃や女官、そして多くの宦官があの戦で死にました。あの戦は、実際の戦いで亡くなった者は少なく、実は犠牲になった多くが、後宮にいた者たちや簒奪帝の重臣たちだったのです」

 怖ろしい話だ。この後宮で弱き者たちが道連れにされた。さぞ無念だっただろうと私は思いを馳せた。

「ここで何千人もの命が奪われたと思うと怖いっすね」

 亘々は両手を組み、体をぶるっと震わせた。
 不気味な気味悪さが辺りをたちこめている。

「ここは、後宮内でもひと際絢爛豪華で大きな宮殿だったのですよ。毎夜宴が催され、簒奪帝は政治などお構いなしに色欲に溺れておりました」

 郭解は昔を思い出しているのか、じっと廃墟と化した建物を見つめていた。

「罰が当たったんですよ、天罰です」

 亘々は吐き捨てるように言った。

「ええ、そうでしょうね」

私はここを見てあることを決めた。
 後宮を復興するには、まずはここからだと思った。

「亡くなった多くの人々を弔わなければいけないわ。ここには霊廟(れいびょう)を作りましょう。二度とこのようなことが起きないように」

「なるほど、それはいいですね!」

 亘々も賛成した。

「郭解はどう思う?」

 華蓮が問うと、郭解は困ったような顔を浮かべた。

「とても素晴らしい案かと思います。しかし、その案を実行するには、一つだけ大きな問題があります」

「なにかしら?」

「お金がありません」

 郭解の言葉に、私と亘々は目をしばたいた。

「簒奪帝はこの八年間で豪遊しすぎました。国費は空っぽです。いや、空っぽどころか借金だらけです」

「しゃ、借金……」

 国の借金はすなわち、皇帝の借金でもある。皇帝に嫁いだのだから、一蓮托生だ。
 皇后となったが、どうやらとんでもない借金持ちからの新婚生活のようだ。

「お嬢様、とんでもないところに嫁入りしてしまったようですね」

 亘々はつい昔の呼び名で私を呼んだ。
 波乱の幕開けの結婚であった。