街頭に照らされた公園ではボールが跳ねる音が響いている。公園の中に進むと今夜も海人はボールを手にバスケットゴールと向き合っていた。海人は毎日この公園にいるわけではなかったけど、今夜はここにいると思っていた。
 だって明日から遂に県大会が始まる。きっと、今日は一番智也先輩とは会いたくないだろうから。
「海人、話があるの」
 後ろ姿に話しかけると、海人は驚いた風でもなく振り返る。まるで海人も私が来ることが分かっていたような気がした。
「こんなところに来てる場合じゃないんじゃないか?」
「私の出番は三日目だから、まだ余裕」
 陸上競技の県予選は四日間にわたって開催される。智也先輩の100mや4継は二日目、私が出る3,000mは三日目だから明日は応援に専念することになる。
 前回公園で会った時と違い海人はボールを握ったまま私と向き合っている。私も海人も胸の内ではずっとわかっていたのだ。いい加減、正面から向き合わなければいけないことに。
「調子は戻った?」
「前よりは少しマシ……って感じ」
 沙良から気合を入れられて気の持ち様は変わったけど、身体はすぐには追いついてこなかった。結局、最後の最後まで練習では沙良の前に出ることもできていない。だけど、少しずつ風を切る感覚は戻ってきている。あと一押し、何かがあれば春先と同じように走れる予感があった。
「それならなおさら俺になんか会いに来てる場合じゃなくて、しっかり準備するべきだろ」
「ううん」
 海人の言葉を首を振ってはっきりと否定する。
「そのために海人に会いにきた」
 海人は何か言いたそうに私の顔をじっと見て、何も言わずに街灯の下のベンチに腰掛けた。一人分くらいの間を空けて隣に座る。海人は膝のあたりに抱えたボールに視線を向けていた。海人、と名前を呼ぶとゆっくりと顔を上げる。
「私ね。海人と別れたこと、今でも少し迷ってた」
 海人の前が困ったように見開かれる。口がパクパクと開かれるけどそこから言葉は出てこなかった。
 海人と付き合い始めたのはちょうど一年程前。きっかけはすごいひょんなことで、初めは私も海人も本気じゃなかった。だけど一緒に過ごしていくうちになんかいいなって思い始めて、海人の隣を走っても恥ずかしくない様に練習に打ち込んで――そうやって秋から冬の初めを過ごしてきた。誰かと付き合うのなんて初めてで、果たして陸上漬けの日々が正解かはわからなかったけど、周囲を置き去りにして走る海人はかっこよくて細かいことは悩まなかった。
 そんな海人が今は私の隣でぎゅっと目を閉じて、ゆっくり長く息を吐く。
「朱音にフラれてさ、自分でもビックリするくらい動揺したんだ。俺、自分では陸上がブレなきゃ大丈夫だと思ってたんだけど」
 そして海人がポツリと零す。
 海人に惹かれれば惹かれるほど、私と海人の温度差は大きくなっていった。私は少しでも海人と一緒に成長できればと思っていたけど、海人はあまりそういうのは関係なくてとにかく速く走ることに執念をかけていた。わかっていたけど海人の中で最優先なのは速く走ること――兄である智也先輩よりも―――だった。一つ一つのチグハグは大きなものではなかったけど、そんなものが積み重なっていくうちにだんだんと噛み合わなくなっていった。
「一番ダメージだったのは、俺と別れた朱音がすぐに兄貴とくっついたことだったけどな」
 海人の言葉に息がぐっと詰まる。
 海人は人にアドバイスをするようなタイプでもなくて、陸上の悩みとか相談は海人とのつながりもあって智也先輩にすることが増えていった。そのうちに海人との関係を相談することも増えていって、智也先輩はそんな相談に真摯に対応してくれた。
 そんなことが増えていくにつれて、徐々に智也先輩に惹かれてしまった。駄目だと思った時には手遅れだった。海人とのチグハグな関係の穴埋めなんかではなくて、気づいた時には真っすぐに智也先輩を見るようになってしまった。智也先輩に気持ちを告げてしまって、それも受け入れてくれた智也先輩に私は甘えた。
 そうして数か月前の春先、私は海人と別れた。
「でもまあ、俺が一番ダサいのか。兄貴に朱音をとられたみたいに感じて、せめて走りだけは絶対負けねえって空回りして。ちょっと無理した途端、あっさり怪我した」
 海人はベンチの背もたれにどっかりと背中を預けるとぐっと夜空に向かって手を伸ばした。バスケットボールが膝から落ちて転がっていくけど、それには目もくれない。
 春先、海人と別れた直後から海人の練習のスタンスがガラリと変わった。それまでも無茶をすることはあったけど無理をすることはなかった海人が智也先輩に意地になる様に食らいついて走っていた。
 速いけど、それは決して海人の走りではなくて。周りが止めるのも聞かずに走り続けた海人の脚が限界を迎えたのは意外なほど早かった。そして、私はそれに無関心ではいられなかった。海人が怪我をした原因は私にあるのに私だけ走っていいのだろうかという思いがどこまでいっても付きまとっていた。
「やっぱり、俺は何も考えずに走るしかなかったんだ。だけど、今はもうそんな風に走るのなんて無理なんだ。走る度にあれこれ雑念が沸いてきて……結局、走ることさえできなくなった」
 こんな風に弱った海人の声を聞くのはもちろん初めてで。海人をこうさせてしまった私が何か手を差し伸べなければいけないんじゃないかって気持ちが胸の中で渦巻いている。だけど、海人がもう一度前を向くために必要なものは私ではなくて、海人の一番すぐ傍にあるもののはずだ。
 だから、正直な気持ちは全部ここに置いていく。
「でもね、私は何も考えずにただ速く走りたいって走ってる海人のことが好きだった」
 海人の目が小さく見開かれる。
「なんだよそれ。もし俺がまた走り出したらまだ俺にもチャンスあるの?」
 海人の声色はぶっきらぼうでどこか冗談めかしていたけど、瞳だけは笑っていなかった。本気の海人がこちらを見ている。付き合っていた頃によく見ていた真っすぐすぎるほど真っすぐな眼の色に胸の鼓動が加速していく。
「ないよ」
 早まっていく鼓動を打ち消すように、それだけははっきりと告げる。
 まだ海人に対する好きの気持ちは残っていたけど、付き合いたいという思いはなかった。
 もしかしたら私は海人に恋をしていたのではなく、ただきらきらと眩しいものにあこがれていただけなのかも。よくわからないけど、いまはわからないままでいい。
「ない。ないし、この四日間はそういったの全部忘れる。ただ速く走ることだけに注ぎ込むから」
 沙良と約束したんだ。今だけは何も考えずに走るって。ゴチャゴチャと考えるは全部終わってからでいい。
 それはもしかしたら、私がチグハグを感じた海人と同じなのかもしれない。だけど、絶対後悔しないように走ると決めたから。
「……頑張れよ」
 海人は笑っていた。全部振り切ったように立ち上がると私に向かって手を差し出す。
「今更応援なんて行けないからさ、ここで応援しとく。頑張れ、朱音。お前は速いよ」
 パシッと強気にその手をとった。海人の顔が一瞬驚いたようになって、またすぐにニッと頬を上げる。
 海人と付き合っていた頃も含めて、もしかしたら今この瞬間が一番真っすぐに向き合えているのかもしれない。