1

 雪が今にも落ちてきそうな鈍色の空を見上げながら、(きく)は屋敷への道をほたほたと、力ない足取りで戻っていた。小脇に抱えた籠には、よく肥えた大根や葉の締まった白菜、コロンとしたふきのとうなどの野菜が乗っている。

「ちょっと、菊! なんでこんなところにいるのよっ!」
「きゃあッ!」

 あまりに突然のことで、菊は振り返る暇もなく砂利道に倒れ込んだ。
 背中を強く押されたのか、ジンジンとした痛みがある。背中で結っていた三つ編みもはずみで解けたようで、夜色をした長い髪は地面に広がって白く汚れていた。

「――ッレ、レイカ姉様……」

 驚きに振り返れば、そこにいたのは、この世で菊が一番恐れている従姉のレイカであった。
 彼女は不機嫌極まりないと、肩口で柔らかくまとまる内巻の髪を鼻息と共に手ではらい、猫のように吊り上がった目を、さらにつり上げてこちらを見下ろしている。従姉妹であるため菊と似た顔立ちをしているのだが、まとう雰囲気は真逆で、一度も似ていると言われたことがなかった。
 その隣では、年若の男が裾がはだけて露わになった菊の白い足を、ニヤニヤとやに下がった顔で眺めていた。

「ひっ……!」

 たちまち菊の顔が蒼ざめる。裾を引っぱり足を隠し、身を守るように小さくする。

「よう、菊ちゃん。この間は楽しかったよなあ?」

 男は菊の顔を覗き込み、ニヤけた顔を近づけてねっとりと語尾を上げ、意味深な言葉を吐く。

「なぁに、一平(いっぺい)。菊にもちょっかい出してんの? あたしだけじゃなく……」
「ったく、違ぇって。この間、たまたま夜にここら辺を歩いてるのを見てね。ちょいとばかし遊んでやったんだよ」

 なあ、と男が菊に同意を求めるも、菊はビクリと身を震わせるばかり。

「へえ……遊んだねぇ? こんな汚い女に随分とお優しいことじゃない」
「おいおい、拗ねるなよレイカ。俺が忌み子なんかを本気で相手にするわきゃないだろう」

 レイカがふいっとそっぽを向くと、男はレイカの機嫌を取るように肩を抱き頭に口を寄せた。

「レイカだけだって」
「んもう……」

 頭上から聞こえるレイカの甘ったるい声を無感情に聞いていたら、突然彼女に「菊!」と呼ばれた。
 弾かれたように顔を上げると、彼女は勝ち誇った顔でこちらを見ており、自分との差を見せつけるかのように男の胸にすり寄っている。
 すると、先ほどまでの猫撫で声はどこへやら。凄みのきいた声が降ってくる。

「そういえば、あんた。誰の許しを得てこんな真っ昼間から家の外に出てんのよ」

 菊は視線を逸らすようにして、道に散らばってしまった野菜や籠に見遣る。

「ツル子さんが、畑から野菜をとってくるようにと」
「チッ、あのババア。使用人のクセして怠け者ったらありゃしないわね。帰ったらお母さんに言いつけてやる」

 使用人が怒鳴られた後、怒りの矛先は自分へと向くだろうと、菊は耐えるようにグッと拳を握った。

「いい? あのババアがなんと言おうと、日が高いうちはあんたは家の中の仕事だけやってなさい。分かった!?」
「……はい、レイカ姉様」

 従順な返事があったことで、ようやくレイカの怒りも収まったようだ。「ふぅー」と、彼女が長めの息を吐けば、ヒリついていた空気も少しはましになる。

「従姉妹だからって、どうしてこんな忌み子の面倒を古柴家(うち)で見なきゃなんないのよ。ていうか、こんなのと血が繋がってるだなんて、嫌過ぎるんだけど。本っ当、目ざわりだわ!」
「申し訳ございません」

 レイカは、足元で砂まみれになってしゃがみ込んでいるみすぼらしい菊を一瞥すると、ふんっと鼻を鳴らし、さっさと古柴家の屋敷へと帰っていった。
 レイカの姿が見えなくなれば、菊はのろのろと動き始め、拾った野菜を再び籠にのせていく。そうして、籠を抱えて立ち上がろうとした時、草履がずるりと滑った。

「あ、鼻緒が」

 ただでさえボロボロの草履の鼻緒が千切れていた。転んだ拍子に切れてしまったのだろう。
 辺りを見回し、何か結べそうなものはないかと探す。そこで菊は、周囲には村人達もいたのだと初めて気付いた。
 皆、ひそひそと遠巻きにするだけで、ひとりとして菊に近寄ろうとも声を掛けようともしない。村には何百人と村人がいるのに、それでも菊はひとりぼっちだった。
 菊は壊れた草履を脱いで手に持つと、村人達の目から逃げるように屋敷へと戻るのであった。



        ◆



 古柴家の半地下に築かれた四畳半程度の座敷牢。
 そこだけが、ここ界背村(かいせむら)で菊が安心して息がつける場所だった。
 日が昇っている間は屋敷の外に出ることは許されず、古柴家の親類だいうのに、その親類であるレイカ達親子からの扱いは使用人以下。村人には忌み子と呼ばれ、同じ村に住んでいるというのに、存在を認められることはなかった。
 しかしそれに関しては、菊は仕方ないことと諦めている。
 事実、菊は他の村人とは違うのだから。
 界背村の者達は皆、村生まれの両親を持ち村で生まれた、界背村だけの血を持つ者達である。それに対し、菊は村の血を半分しか持たず、生まれたのもこの村ではない。
 菊は、彼女の母親が村外の男との間につくった掟破りの子――〝()み子〟であった。



 外国(とつくに)の文化が入ってきて久しいというのに、村人達の格好は着物に草履や下駄。建物は歴史を感じさせる木造家屋で、場所によっては茅葺きも残っている。
 決して村の人口が少ないわけでもなく、老人ばかりということでもない。
 それでもなぜこの村が、時を止めたように人世の色に染まらないか。
 それは、界背村が人世とは少々異なる性質をもった村だからだった。
 界背村にはいくつかの掟がある。
 そのひとつが、『村外の者と子供を作ってはならぬ』というもの。
 何故、村人同時でしか婚姻が認められないのか、それはひとえに村の生業にあった。

 帝国一番の賑わいを見せる帝都。そこから遠くに見える山陰のひとつに界背村はある。
 入り組んだ山間部に存在し、村人か、村をよく知る取次役である案内人がいなければ、決してたどり着けない界背村の生業は〝祓魔(ふつま)〟であった。
 かつて、現世(うつしよ)常世(とこよ)との境界がまだ曖昧だった時代、しがない悪戯ばかりする魑魅魍魎(ちみもうりょう)の数は多く、現世だけでなく、常世さえも手を焼く存在であった。
 そこで、常世は一つの決断を下す。
 常世の治安を司るとある(あやかし)一族に、現世と常世と両方の魑魅魍魎を退治するようにと命じたのだ。
 しかし、常世だけでなく現世までとなると、とてもその一族だけでは手が足りない。一族の長は、現世の者達に力を分け与え、現世の魑魅魍魎は現世の者に退治させることにした。この時に祓魔の力を与えられた者達のひとつが、界背村だったと伝わっている。
 おかげで祓魔の血を守るために、このような掟が課されたのだ。

 しかし、菊の母親は掟を破った。
 止める両親をふりきって村を飛び出し、村外の男との間に子供をもうけたのだ。そして菊が三歳の頃、突然ふらりと村にやってきて叔母に菊を頼むとだけ言い残し、また姿を消したという。
 叔母から菊に向けられる冷たい目は、本来は母に向けられたものなのだろう。
 いつも「お前のせいで!」と言って叔母は菊を叩く。
 菊の祖父母――つまり母と叔母の両親は、母が村を出て掟を破ったことにより、村人からの目に耐えられず病んで早逝したという。
 掟破りの子を出した家というのは、菊に対する風当たりの強さからも考えても、余程肩身の狭い思いをしたことだろう。叔母に対しては、母が村外に出た時には既に村でも大きな古柴家に嫁いでいたということもあって、表だった批難はなかったようだが、それでもやはり相応の目は向けられてきたのだと思う。
 事実、菊が母に捨てられたときも、村長は身内の恥は身内で解決しろと叔母に一切手を差し伸べなかったのだから。
 そう思えば、こうして無事に生きていられるだけで幸運なのかもしれない。
 だから、たとえ日々をつらく思っても、それを口にしてはいけない。

「仕方ないもの……私は本来生まれてはいけない忌み子なんだから」

 菊は諦めが滲んだ声で呟きながら、ひとり、屋敷裏に広がる雑木林の中を歩いていた。
 空には半分になった青白い月が輝き、葉っぱが落ち枝だけになった木々の上から、煌々と足元を照らしてくれる。おかげで、雑然とした木々の中だというのに夜でも転ばずに歩けていた。
 昼間切れた鼻緒は、着れなくなった自分の着物のハギレを使って修理した。おかげで左右で鼻緒の色がちぐはぐになってしまっている。
 ちぐはぐな鼻緒を見ながら、菊は『まるで自分のようだ』と小さく嘆息した。
 人が起きている昼ではなく、寝静まった夜にしかこうして外を歩けない、普通の人とは違うちぐはぐな自分のようだと。
 古柴家から菊に与えられた自由は、夜だけだった。
 座敷牢に鍵は掛けられておらず、こうしていつでも出ることができる。
 昼間、屋敷の外に出ないように言われているのは村人達の目を避けるためであり、古柴家にとって、菊はいなるのを願いこそすれ、家に置いておきたくない存在なのだ。

「叔母様達は、きっと私に消えてほしいんでしょうけど……」

 皆が寝静まった夜であれば、もし菊が消えても古柴家は責任を負う必要はない。

「消えられるものなら消えたいわ」

 しかし、それは自殺とかわりない。
 村にやって来た三つの頃から、はや十五年。菊はこの村以外で生きる術など何も知らなかった。

「でも、死ぬ勇気なんて私にはないのよ」

 そう、ぽつりと呟いた時だった。

「きゃっ!?」

 突如、先の方でバサバサと枯れ葉が踏まれたような騒がしい音がして、菊は思わず腰を抜かしてしまう。
 以前、夜に村の中を歩いていたら、昼間に会った一平という男と出くわして、嫌な目にあったことがあった。だから、今夜は人が来ないような雑木林を選んだというのに。
 思わず身を守るように、ギュッと両手で腕を抱きしめる。

「ど、どなたでしょうか……!?」

 菊は震えながら声を上げたが、しかし、音がする場所からの返答はない。
 不思議に思い恐る恐る近寄ってみると、暗闇にいたのは人ではなかった。

(からす)? ……って、まあ、羽根を怪我しているじゃない」

 枯れ葉に埋もれるようにしていたのは、片羽根から血を流した烏だった。
 暗がりの中向けられた目は、揺らぎつつも威嚇しているかのように逸らされない。そのまま菊から逃げるように、後ろへひょこひょこと下がろうとしているのだが、上手く歩けないでいる。

「大丈夫よ。痛いことはしないから大人しくしていて」

 菊は自分の着物の裾に歯を立てて細長く引きちぎり、血が出ている部分を優しく包んだ。
 最初は菊の手から逃げようとしていた烏も、菊に危害をくわえる意思がないと分かると、途端に大人しくなる。

「あなた、珍しい色の羽根と目をしているのね」

 月明かりの元でまじまじと見れば、烏の羽根はよくある黒ではなく羽先の方だけ淡い紫色に染まっており、くりっとした丸い目も紫色だと分かる。

「とっても綺麗な色だわ」

 烏はまるで言葉を理解したかのように、菊の顔をじっと見つめてきた。
 紫水晶のような瞳はとても澄んでいて、まるでそのまま内側に引き込まれてしまいそうに感じた。
 村人達が菊に向ける目はいつも濁った感情がはびこっており、目を背けたくなるようなものばかり。だから、生まれて初めて向けられた悪意も何もない純粋な眼差しというものが、菊にとってはとても新鮮だった。
 紫と黒の瞳が見つめ合う。
 菊は烏の意思をくみ取ろうとじっと見つめ続け、そしてひとつの結論に思いいたる。

「あ、そうよね。その羽根じゃ食べ物を探しに行けないものね」

 菊は「待ってて」と言うと、近くにあったコナラの木の麓をかき分けてどんぐりを拾い集めると、それを烏の前へと置いた。

「はい、これで足りるかしら? 足りなかったらごめんなさいね。そろそろ私もお屋敷に戻らないといけなくて……」

 正直、あまり戻りたくないのだが。
 菊は烏の背をひと撫ですると、寂しそうに微笑んだ。

「また明日、様子を見に来るから、その時には色々持ってきてあげる」

 じっと見つめてくる烏を、名残惜しそうにチラチラと振り返りながら、菊は屋敷へと戻ったのだった。




        2



 
「あー、あたしもやっと来月で二十歳(はたち)なのよねえ」

 昼も終わり、座敷でレイカ達の食膳の片付けをしていたら、横の座卓で茶を飲んでいたレイカがわざとらしい声で言う。

「これで堂々と好きな男と結婚できるわ。一平ったら、早くあたしを自分のものにしたくて仕方ないみたいなのよ。本当困ったわあ」

 一平というのは、レイカとよく一緒にいるあの男のことだろう。
 村の若手では一番の男前で、古柴家と同じく村の顔役をしておりそれなりに大きな力もある、と常日頃声高らかにレイカが自慢していた覚えがある。
 しかし、菊にとっては苦々しい思いのある男だった。
 顔を思い出せばおぞましい記憶が蘇り、慌てて追い出すようにして菊は頭を横に振る。

「それは良かったです、レイカ姉様」

 控えめに笑いながら言えば、なぜかレイカは鼻で笑った。

「ははっ、本心で言ってる?」
「え……もちろんですが」

 レイカは片口だけをつり上げ、再びハッと鼻で一笑する。
 彼女が結婚してくれたら、一平という男からのちょっかいもなくなるだろうと、本心で良かったと言ったのだが。どこが彼女の癇にさわってしまったのか。
 レイカの気持ちが分からず、戸惑いがちに視線を落としていれば、突然、横から胸元を強い力で引っ張られた。

「――っ!?」

 菊は抗う暇もなく引きずられるようにして畳に倒れ込み、衝撃で床に置いていた盆の中の食器が、ガチャガチャとうるさくぶつかりあう。

「本当は羨ましいんでしょ?」

 ぎりぎりと締め上げるように菊の胸元を引っ張りながら、レイカは半笑いの顔を近づけてくる。しかし彼女の目はまるで笑っていない。

「ゴホッ……そ、んな……っ、私は本当に……」
「何が良かったよ、白々しい……あたしの男に色目を使っておいて。知ってるのよ、一平があんたにも手を出したってことは」

 サッと菊の顔から血の気が失せた。

「でも残念だったわね。一平があんたなんかを本気で相手にするわけないでしょ。あ、もしかして本気にしちゃってた? 自分のほうが一平に選ばれるって……」
「――ぐぅッ!」

 胸元を掴むレイカの力が一段と強まり、ますます締め付けられた喉が苦しくなる。

「そんなわけないでしょ! 村の掟で、花御寮候補の間は表立って手を出せないから、あたしと顔が似てるあんたで遊んでやっただけ! ただの気まぐれなのよ!」

「調子に乗るんじゃないわよ」と、レイカは最後にもう一度菊の胸元を締め上げると、押し飛ばすようにして手を離した。

「だって、花御寮に……化け物の嫁としても必要とされないあんたを、人間の男が好きになるはずがないじゃないの」

〝花御寮〟――それも村の掟のひとつである。

 人世と隔絶したような山奥の村でも貧しさに嘆くことなく成り立っているのは、ひとえに妖一族から祓魔という力を与えられたからだ。
 しかし、何かを得るには相応の代償はつきもの。
 妖一族は界背村に力を分け与える条件として、『一族に新たな黒王(こくおう)が立つ時、王の嫁となる花御寮を差し出すこと』という約束を結ばせた。
 この時の妖一族こそが〝(からす)〟と呼ばれる一族であり、最初に約束を交わした村長以外、誰一人としてその姿を知らない。
 おそらくはその名のとおり、烏の妖だろうというのが村人達の認識である。

 おかげで常日頃レイカは、『王って言っても烏なんだし、きっと陰湿で粗暴で汚い目をしたおぞましい化け物に決まってるわ』と顔をしかめて言っている。
 もちろんそのように認識しているのは、レイカだけでなく他の村人達も同じで、中には花御寮とは人を食べるための建前であり、本当はただの生け贄だと言う者もいた。花御寮として嫁いだ者のその後は一切分からず、それがまた恐怖に拍車をかけている。

「あー本当忌々しい……っ! 役に立たないなら化け物の嫁にでもなってればいいのに」

 花御寮候補になる娘の歳は十四から十九と決まっており、その間は純潔を守らねばならない。
 ゆえに、村の娘達は十四になるのを泣いて嫌がり、十九が明けるのを泣いて喜ぶ。
 今現在、菊は十八であり、レイカは十九であった。
 しかし、忌み子である菊にその資格はなく、レイカが十四になった時からずっと『忌み子のくせして、どうしてあんたのほうが良い思いしてんのよ! この、役立たず!』と、事あるごとに折檻を受けてきた。
 しかしそれもあと少しだ。
 彼女が来月の誕生日を迎え二十歳になれば、怒りも多少はマシになるだろう。

「まあでも、あたしももう候補から外れるからいいけど。ただ……他の女の子達はいつ花御寮に選ばれるか怯えて過ごしてるってのに、あんただけのうのうと生きてんのは腹立つのよね」

 すっくと立ち上がったレイカは、畳の上で咳き込んで丸くなっている菊を上から睨み付け、くっと口角をつり上げた。

「ああ、そうだわ。あたしと一平が結婚したら、あんたも使用人として一緒に連れて行ってあげる」
「そ……っ!」

 そんなのは嫌だ、と言えたらどれだけ良かっただろうか。
 しかし、レイカや叔母達がいるから生きていけている菊は、唇を噛み言葉を飲み込むほかなかった。

 ――私は、生まれてきてはいけなかった忌み子だもの……。

 畳の上で握られた菊の拳が小刻みに震えているのを見て、レイカが菊の耳にそっと口を寄せる。

「勘違いしないでねぇ、菊。姉としての優しさなんだから。愛される喜びを知らないあんたに、愛されることがどれだけ幸せかを教えてあげようって姉心なのよ」

 柔らかい声で言っていたが、その内容にぞっとした。
 それはつまり、愛されることはない自分との違いを、一生見せつけられ続けるということ。
 そして、レイカは菊に呪いにも似た言葉を吐いた。

「どうせ、一生あんたはひとりぼっちなんだから」

 レイカは「あははははは」ととても愉快そうに笑いながら、部屋を出て行ってしまった。あとにひとり残された菊は、俯いたまましばらく立てなかった。



        ◆



「……はぁ……はぁ……っ」

 夜になり、菊は屋敷を抜け出し雑木林の中をずんずん進んでいく。
 こすりすぎた目尻が冷気にあたってヒリヒリと痛んだ。
 月は雲間に隠れ、昨夜と違って足元がおぼつかない。それでも菊は、できるだけ人けのない寒い方へ寒い方へと進んでいく。
 頭の中では、昼間にレイカから言われた『一生ひとりぼっち』という言葉がぐるぐると渦巻いていた。

「……っそんなの分かってるわ」

 覚悟していたことだ。
 しかし、誰かの口から改めて言われると、言葉が示す将来に心が凍えそうだった。身体を抱きしめ、その場でうずくまる。しかし、いくら肌をさすろうとも身体は温かさを感じなかった。
 突然、バサバサッと頭上で大きな音がして驚きに顔を上げれば、星が輝く黒い夜空の中に一段と濃い黒があった。目を凝らして見ていれば、それは突如両腕を広げたように大きくなり、先ほど聞いたものと同じ音をたてて菊の前に舞い降りる。
 ちょうどその時、雲間から顔を出した月が薄光を地上に落とした。

「あなたは昨日の……」

 目の前にいたのは、羽先と瞳が紫色の特徴的な烏。

「あ、そうだったわ。これを持ってきたの」

 菊は懐から、赤や茶の木の実や干し柿を取り出し、烏の前に並べていく。

「と言っても、もう充分に飛べるようだし必要ないかもしれないけど……」

 木の上から舞い降りてくる姿はとても雄々しく、怪我をしているとは思えないほどだった。
 きっと人が用意したものより、もう自分で食べたいものを獲れるのだろう。こんなことでも自分はやはりなんの役にも立てないな、と菊は苦笑したが、烏は赤い実をひとつくわえると、コクンと食べて見せたのだ。
 まるで、礼を言うように。
 烏の行動に、菊は目を丸くして瞬かせ、ふっと小さく噴き出した。

「ありがとう、優しいのね」

 しかしそれも一瞬。膝を抱いた腕に顔をうずめ、小さな嗚咽を漏らす。

「…………っ」

 烏の行動に優しさを見出してしまった自分は、それほど人世では優しさと無縁なのだなと思い知らされてしまった。
 きっとこの先も、自分は一生誰かの温かさを知ることはないのだろう。
 それでも、それが忌み子である自分の宿命。

「私は一生……ひとりぼっちだわ……」

 寒くて凍えそうな夜、一羽の烏だけが菊の寂しさをじっと見つめていた。





        3



 菊が紫色の烏と出会って半月、寒々しかった木々に緑が芽吹きはじめ、落ち葉の下から新たな命が顔を出しはじめた早春の頃。
 界背村の集会所は、異様な緊張感に包まれていた。
 場に集まったのは村長の他、顔役と言われる村でも大きな有力家の面々。その中にはレイカの父親も含まれており、彼は今し方村長が言った言葉に、苦々しい顔で腕組みをした。

「本当ですか、村長……新たな黒王が立ったというのは」
「ああ。先日、使者がわしの枕元に立ちおった」
「その使者が偽物ということは……っ!」
「お主は、人語を話す烏を見たことがあるか?」

 ジロリ、と村長の横目を向けられ、レイカの父親は出かかっていた言葉を飲み込む。
 しかし当然、戸惑いを胸に抱いたのはレイカの父親だけのはずがなく、彼ひとりが黙ろうと、車座になったあちらこちらからザワザワと声が上がっていた。次第にざわめきも大きくなり、そしていよいよ場に不安が充満しようとした時、村長が煙管(キセル)を灰落としの(ふち)に「カンッ!」と打ち付け、静寂を取り戻した。

「嘘か真かなどどうでもいい。とにかく向こうは花御寮を欲していて、こちらは契約通り、誰かひとり村娘を差し出さねばならぬということだ」

 顔役達が一斉に俯いた。膝の上で拳を握るものもいれば、顔を両手で覆ったり額を抑えたりして呻いているものもいる。
 彼らには年頃の娘がおり、それはレイカの父親も例外ではない。

「なぜ、今なんだ……っ」

 あと半月、いや、一週間後にはレイカは候補から外れる予定だったというのに。唇を噛むも、どうしようもなかった。

「仕方ないのさ。そうやってこの村は生きてきたのだからな」

 再び、村長が煙管を二度、カンカンと灰落としの縁に叩きつければ、呻いていた者達の顔が上がる。
 村長は車座の真ん中に、何十人と花御寮候補の名前が記された連判状を広げた。紙に記された名前の多さを目の当たりにすれば、少しは落ち着いたのか、顔役達の表情に少しだけ安堵がおとずれる。
 皆が皆、これだけいるのなら自分の娘には当たることはない、と思っていたのだろう。

「さて、嫁選びを始めるとするか。神事ゆえ、決定後は掟に背くこと、逃げることは許されぬからな」

 固唾を飲んで皆が見守る中、村長は懐から取り出した小刀を脇に置いていた酒で清め、祝詞を唱えると、連判状の上めがけて放り投げた。
 小刀は空中でクルクルと回転しながら連判状へと落ちていき、一人の名前に刃を突き立てた。
 誰だ誰だと、興奮気味に一斉に紙に群がる。
 そして名前を確認すれば、皆、安堵半分申し訳なさ半分といった曖昧な表情で、顔面蒼白になった一人の男を見遣ったのだった。



        ◆



「いやああああああああああっ!」

 その日、古柴家では朝からレイカの喉が裂けんばかりの絶叫が響いていた。

「なんでっ! なんで、あたしが化け物に嫁がなくちゃいけないのよ! あたしはもう対象外になるはずでしょ!?」

 レイカが、新たに立った妖一族の王への花御寮として選ばれたのだ。
 屋敷中に響き渡る拒絶の声に、使用人達も何事だと仕事場を離れ、声のする広間をのぞきに集まってくる。そこではレイカが畳に突っ伏してむせび泣き、同じく叔母も膝を折って叔父の足に縋りついていた。

「そうです、あなた! どうしてうちのレイカなんですか!? どうして、あと半月後にやってくださらなかったんですか!?」
「俺だとて、娘を差し出したくはないに決まっているだろう! だが、仕方なんだよ……っ、神事で決まったものは覆せない。それがこの村の掟なんだ!」
「あの子の母親は掟を破ったんですよ!?」

 叔母は、癇癪的な声を上げながら、使用人の中にまぎれるようにして様子を窺っていた菊を指さした。
 叔母の瞳は、今にも菊を射殺さんばかりに睨み付ける。
 化粧が混ざった黒い涙を流す血走った目は、人とは思えぬそれこそ悪鬼のような恐ろしさがあり、使用人達は火の粉が降り掛からぬようにと皆、菊から距離をとった。
 視線を向けられていた菊も、叔母の凄まじさに息をのみ、身を強張らせる。すると、叔母はドカドカと大股で菊に近づき髪を鷲掴むと、引きずるようにして広間に投げ倒した。
「きゃっ!」と菊のか弱い悲鳴が上がるも、叔母は構わずに菊を足蹴にする。

「なんで忌み子は候補にもならなくて良くて、掟を守っている私達の方がこんな苦しい思いをしなきゃいけない! の! よ!」
「――痛っ! あ……す、みませ……ッ」

 叔母は、着物の裾がはだけるのも気にせず、横たわった菊の細い身体を何度も何度も罵声と一緒に踏みつけた。
 そのたびに菊の口からは痛々しい悲鳴が上がるも、しかし、誰ひとりとして止めようとするものはいなかった。皆、眉をひそめて顔を逸らすばかり。広間には叔母の癇癪な金切り声と、菊のくぐもったうめき声だけが響くばかり。

「お前なんか……っ! 母親にすら捨てられて! 誰にも必要とされてないのよ!! だったらせめて、化け物への供物にでもなって役に立ちなさいよっ!」

 菊を折檻すれば収まるかと思いきや、叔母の怒りはまるで衰えない。使用人達は目を覆いたくなる光景から逃げるように、静かに各々の仕事場へと戻っていった。

 ――ぃ、で……捨て……ない、で……。

 菊は視界に映るたくさんの足が、ひとつ、またひとつと去って行くのを、ただぼんやりと眺めているしかできなかった。視界がかすみ始めれば、次第に意識が遠のいていく。

 ――ひとり……は……いや…………。

 救いを求めるように伸ばそうとした手は、菊の意識が途切れると一緒にパタリと畳に落ち、動かなくなってしまった。




 
 それを見てようやく叔母は怒りを収め、はぁはぁと浅い息をつきながら額に浮かぶ汗を拭う。
 すると、すっかり静かになった広間で、レイカが「そうだ」とぽつりと呟いた。
 レイカはすっくと立ち上がると、先ほどまで泣き伏していたのが嘘のようま機敏な動きで、広間のふすまを次々と閉めていく。
 そうして、外からの目を全て遮断した中で、彼女は笑う。

「ねえ、お父さんお母さん。あたしを化け物に嫁がせたら後悔するわよ……?」
「ど、どうしたんだ、レイカ。それに後悔って……どういう……」

 薄暗い部屋の中、突然様子がおかしくなったレイカに、父親も声を詰まらせる。しかし、レイカはくすくすと笑うばかり。

「後悔したくないでしょ? だからぁ、あたし……いーこと思いついちゃったんだぁ」

 涙で化粧がどろどろに溶けた顔で、瞳を真っ赤にしてニタリと場にそぐわぬ笑みを浮かべる凄絶なレイカに、親である二人ですら背筋を冷たくしていた。



        ◆



 いつもなら皆が寝静まる丑三つ時。
 ただし今夜は、村から裏山の中腹にポツンと佇む鳥居まで、赤い手燭の灯りが列をなしている。
 ただでさえ夜だというのに、木々が乱雑に生い茂っているせいで辺りは恐ろしい程に暗く、まるでそこにあるのが間違いだとばかりに、鳥居の朱色は異様に目立っていた。
 そんな中、鳥居の前にひとり残された、白無垢姿の菊。
 村人や古柴家の者達は、嫁入りの口上を言い終えるとその場に留まるのを嫌がるように、そそくさと山を下りてしまった。

「どうしてこんな事に……っ」

 菊は両手で顔を覆った。



 
『レイカの代わりに花御寮になってもらう』と、菊は目覚めた座敷牢の中で、叔父から聞かされた。
 拒む時間さえ与えてもらえなかった。
 その日から今日までの一週間、古柴家の座敷牢は本来の役目通りの使われ方をすることとなった。牢にはしっかりと鍵が掛けられ、菊は昼夜問わず一切の外出を禁じられた。入れ替わることがばれないよう、使用人にも暇が出され、古柴家はまるで葬式のように暗さに包まれていた。
 しかし、古柴家の変化を村人の誰ひとりとして怪しむ者はいなかった。ひとり娘を妖の嫁に奪われるのだから、と同情的に見守っていた。

 そうして、レイカではなく菊が、絶対に着ることはないだろうと思っていた花嫁衣装に身を包み、生まれて初めて叔母と叔父に手をひかれ、今夜、花御寮として黒王へと嫁入りする。
 レイカと背格好が似ていたということもあり、喋らずに俯いていれば白無垢の綿帽子のおかげで、村人達から入れ替わりがばれることはなかった。もしかしたら、化け物に嫁ぐのを憐れに思って、皆まともに花御寮を見られなかっただけかもしれないが。
 その入れ替わったレイカであるが、彼女は嫁入りのほとぼりが冷めるまで、菊と同じように座敷牢で生活し、その後に村を密かに出るのだと聞かされた。
 そして、恋人である一平という男と村の外で結婚するつもりだと。
 菊が座敷牢から出て行くとき、入れ替わるようにして残ったレイカに、『感謝しなさいよ』と嘲笑と共に言われた。
 どうやら『そんな綺麗な花嫁衣装に身を包んで嫁げることを感謝しろ』ということらしいが、相手は常日頃彼女が『化け物』と謗っている相手ということを考えれば、皮肉だったのだろう。

「黒王の花御寮になるってことは、ひとりぼっちではなくなるっていうこと……なのよね」

 しかし――。

「やっぱり、食べるための花御寮なのかしら」

 黒王がどのようなものなのかは、まったく分からない。
 もしかすると、婚儀を終えた瞬間にくちばしで啄まれるかもしれない。
 それに――。

『いいかい! 死にたくなけりゃ、絶対に身代わりってばれる真似はしないことだよ。さもないと、烏たちのくちばしがお前の肉を啄むからね!』

 それは鳥居の前に菊を残していく時、叔母が菊の耳元で凄んだ言葉だった。

「……怖い……っ」

 身を守るように、菊は皺ひとつない白無垢のあわせをギュッと握りこんだ。

 ――それにもし、身代わりだってばれなかったとしても、この身体のことが知られたら……っ。
 不興を買って惨たらしく殺されるかもしれない。

 恐怖にぶるりと震えた身体を、菊は無意識に抱きしめていた。
 背後を見遣れば、ぼろぼろの石段が、ぽっかりと黒い口を開けた山へと飲み込まれていく。その先にチラチラと見える点のような赤い光は、村人達の手燭だろう。
 もう、どんなに声を上げても誰も気付かない。
 古柴家から菊の存在が消えても、きっと誰も気にしない。
 眼下に見える小さくなった村の家々。彼らには明日も変わらぬ朝がやって来る。
 自分は朝を迎えられるか分からないのに。

「…………っ」

 ――なんのために私は生まれてきたの……っ。

 この生を喜んでくれた者がひとりでもいただろうか。

「仕方ない……私は忌み子だもの……」

 もしかすると、レイカの代わりに贄として食べられるために、生まれてきたのかもしれない。であれば、生まれて初めて誰かの役にたったと、必要とされたと言えるのではないか。
 しかし、無理矢理前向きに思い込もうとするも、やはり怖いものは怖い。

「……このまま、この山を下りたら……」

 逃げられるかも、と甘い誘惑が菊の足進ませようとした時だった。
 チリン――と、鈴のような細く甲高い場違いな音が鳴り響いたのは。
 はっとして振り返った菊が、鳥居の向こうに広がる暗闇へと目を向ければ、宙空からぬるりと人の手だけが現れた。

「ひ……っ!」

 あまりの現実離れした光景に、菊の喉は引きつり勝手に足が退がる。
 しかし、現れた手は逃がさないとばかりに菊の手首を掴み、強引に鳥居の内側へと引き込んだのだ。

「きゃあっ!」

 次の瞬間、菊は正面から何かにぶつかった。しかし、ぶつかったそれは硬くも痛くもなく、むしろ菊の身体を支えるような優しく温かいもの。

「お前が俺の花御寮か」

 しかし、頭上から聞こえた男の低い声は、春先の夜風と同じくヒヤリとしていた。
 菊が顔を上げると同時に、綿帽子がふわりと脱がされる。

「…………ぁ」

 二人の視線が絡み合い、菊は息をのんだ。
 男は先ほど〝俺の〟花御寮と言った。ということは、彼こそが菊が嫁ぐ黒王ということ。

 ――こ、これが……黒王様……っ。

 菊の真っ白な花嫁衣装とは正反対の、漆黒の羽織袴を纏ったうら若き青年。
 菊より頭ふたつ分背が高い黒ずくめの青年は、そこに立っているだけで他者を圧倒するような空気があった。
 彼はどうしてか、切れ長の凜々しい目を大きく見開いていた。

 ――もしかして、ばれたんじゃ……!?

 ニセモノと気付かれたのかもしれない。
 そう思った瞬間、手は震え、思わず手を置いていた青年の羽織をぎゅうと握ってしまう。
 しかし男は、一度瞬きをした後には、元の涼やかな目に戻っていた。
 月明かりの陰が落ちた暗い顔で、冷ややかに菊を見下ろしている。

「俺が、お前の夫となる(からす)一族の長である黒王だ」

 男の綿帽子の脱がせ方は驚くほど丁寧で、髪の毛一本たりとも引っ掛けぬようにとの気遣いが窺えたというのに、向けられる瞳は、冬の池にはった氷のように冷たく、奥が見えないくらいに(くら)かった。

「俺の妻となるか、〝レイカ〟」

 自分ではない名前を自分に向けて呼ばれる。
 それがこれほどに虚しいものだと初めて知った。
 しかし、これが自分の運命。

「……っはい」

 受け入れるしかないのだ。
 男は弱々しく返事をした菊の顎に手をかけると、クッと上向かせ、触れるだけの口づけを落とした。
 彼は自分の夫となる黒王。
 それは同時に、自分が偽り続けなければならない相手。
 触れられた手も唇も温かいというのに、菊の心は凍えそうだった。


 ――私は忌み子で、ひとりぼっちで、偽物で……嘘を吐いている。