「あら、知恵ちゃんこんにちは」
「こんにちは」
「那由多くん中よ。呼ぼうか?」
「あ、大丈夫です多分勝手に気付くんで」
私が通う大学からバスで3駅越えた場所にある市立図書館。
その行きつけの図書館に足を踏み入れて後ろで手を組み、中を歩く。
特別本が好きなわけでもなければ、昔から図書館に思い入れがあるわけでもない。
それでも大人になってから足を踏み入れた図書館の雰囲気は清廉されていて、来る度に私の心を浄化してくれる。と、勝手に思っている。どんな人間もそうなのかもしれない。喧騒の外れ、呼吸、射した光を昇る塵、遠くから届く人の声。
忘れた頃にページを捲る音やそこから想像出来る本の紙のざらつき。それらに耳を澄ませて目を閉じたら、またページを捲る音に、心が洗われる。
本が好きなわけじゃない、それでもこの空気が好き。
そう、空気に身を委ねていたら斜め前の棚でばさばさと何かが落ちる音がした。
分厚めの本数冊、それに「あぁ」と小さく声を漏らした彼は、脚立から降りて来て私の前に顔を出す。
「あ! 知恵ちゃん!」
「那由多、しー」
「あっ、シー」
生まれつきの明るい茶色の髪に、パーツの整ったあどけなくて幼い顔。大きな黒目が瞬いて人差し指を唇の前に突き出してから、くすくすと無邪気に微笑う。
私の幼馴染みで知恵遅れの那由多は、大学に行けない代わりにこの市立図書館でアルバイトをしている。
はじめは私の知り合い伝に流れてきた話でそれは社会経験も兼ねたボランティアだったのだけれど、この図書館の館長さんが「仕事をたくさんしてくれるのにお金を払わないなんてブラックだ」、と名乗り出たことで那由多のボランティアはいつしかアルバイトに昇格した。
同じ理屈で私の顔見知りのおばさんが経営している花屋でも朝と夕方にアルバイトしている那由多の生活は、花屋とこの図書館でその大半を担っている。
「知恵ちゃん、みて。今日、カンチョウさんにもらった」
「なに?」
「カブトムシの幼虫」
「ちょっと!!」
手のひらから現れた得体の知れないものに悲鳴をあげて転げ落ちたら、周りの人が一瞬こっちを見て申し訳なくて頭を下げる。椅子に這い上がりながら腰は無事に抜けたようで、顔に散らかるほつれた髪は左右に振って誤魔化した。
「春になったら、目を覚ましておっきくなるんだって、いまはトウミンしてる」
「…素手で持ってていいの? 土に還してあげなよ」
「知恵ちゃんに見せてあげたかったから」