歌を詠むことは好きだ。
和歌にはいろんな想いを込めることができる。
景色や草花の美しさ。
大自然の雄大さ。
天皇のお言葉を民に広く伝えることも大事な役目だ。
でも、一番多いのは・・・。
「額田王、天皇のお召しである。」
「はっ。」
ときの天皇は斉明女帝。
女官としてお仕えしたが、いまでは和歌を所望されることが多い。
なにより夫の大海人皇子の実の母である。
神事や歌を必要とされる場面にはよくお召しがあった。
「十市皇女は元気か。」
「はい。ずいぶんと重たくなりました。」
「そうか。それは楽しみであるな。」
孫の成長をめでるのは王族も平民も同じである。
「父の鏡王も驚いておりました。成長が早いのでしょうか。」
「そなたも母のつとめがあるが、朝廷にあってもなくてはならぬ存在である。」
「ありがたきお言葉でございます。」
「これからも頼りにしているぞ。」
「承知いたしました。」
いくぶんお年を感じさせるが、その目元には柔和な笑みをたたえられていた。
だが、それからほどなくしてその女帝はお亡くなりになってしまわれた。
友好国であった百済の再興へ向かう途中に病に倒れてしまった。
〈熟田津にきたつに船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉
斉明女帝の命を受けて詠んだ歌である。
長い船旅で疲れた兵士を鼓舞し、九州へ向かった先での急逝であった。
女帝のあとをついだのは長子の中大兄皇子である。
いわゆる義理の兄だ。
国外の敵に備え、国防を固めるなど物々しい空気の中、
天皇の意思を伝えるために和歌が用いられていたことはこれまでとかわりない。
「額田王。そなたの歌は素晴らしい。」
「恐れ多いことでございます。」
以前にもまして朝廷で天皇のそばで仕えることが多くなっていた。
だが、即位して天智天皇となった彼が見染めたのは歌の才能ばかりではなかった。
「そなたをわが妻として迎えたいのだが、どうだろうか。」
大胆な提案ではあるが、天智天皇は弟である大海人皇子に丁寧に申し入れた。
「それは・・・。」
「無理な申し出ということは承知のうえだ。だが、額田王は朝廷にはなくてはならない存在。
民や国政のためにも今までよりいっそう働いてもらいたいのだ。」
「なるほど、おっしゃることはわかります。わが妻は・・・。」
夫はこちらへ優しい眼を向けていた。
「とても優秀で魅力的ですから。」
ああ、そうだ。
夫は「妻」といいながら、「同志」として見てくれている。
いつも見守ってくれて、自由に動けるよう配慮をかかさない。
だがそれが単なる情愛だけでなく、敬意をもって愛してくれているのだ。
「それを国のために用いたい。それはわがままだろうか。」
「ご寵愛をいただけるのでしょうか。」
「それはいうまでもない。生涯をかけて愛することを誓おう。」
同じ母から生まれた兄弟だけに、言葉以上に通じるものがあったであろう。
「額田王がそれでよいというのであれば・・・。」
なんと答えるべきであろうか。
さきの天皇、斉明女帝の優しいお顔がちらりと浮かんだ。
「国のために貢献することができ、さらにはご寵愛もいただけるとはなんとも光栄に存じます。
ただひとつ、わが夫にもご配慮を賜れば幸甚にございます。」
「もちろんだ。大海人皇子にはわたしの4人の娘を嫁がせよう。大事にしてやってくれ。」
「承知いたしました。」
王族というものは因果なものだ。
自分の好みより国家のことを考えなければならない。
いまの3人は共同して国家を守る同志である。
そこには嫉妬など入り込む余地はない。
斉明女帝が望まれた安定して平和な国家を作りたい。
それが共通した願いであった。
天智天皇はすぐれた君主であると同時にたいへん愛情深く、知れば知るほど惹かれていく夫でもあった。
〈君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾すだれ動かし秋の風吹く〉
いつ現れるかと心待ちにするあまり、秋の風が動かす簾にも惑わされるほどである。
前の夫の大海人皇子とは少しちがって先導するタイプであったが、決して押しつけがましいことはなく意見があるときはちゃんと聞いてくれた。
それが国のためになることであればなおさらである。
前の夫だった大海人皇子を含めた3人で、ときには長い時間をかけて議論をしたり、またあるときは母である斉明女帝との思い出話にふけることもあった。娘も嫁ぎ、理解しあえる仲間と自分の楽しみや仕事に没頭できる。それはとても充実して楽しい時間となった。
ある日のこと、天智天皇が主催する狩りが催された。
よくある宮中行事のひとつである。
主な獲物は鹿やイノシシであるが、狩りは軍事訓練も兼ねている。
天智天皇はいささかお年を召しているが、愛馬を駆って走り抜けていく手綱さばきは見事である。
弟の大海人皇子と対をなす凛々しさに集まった人はみな一様に魅了されるのであった。
夜には宴席が設けられた。
昼間の成果を語るもよし、日ごろから研鑽してきた学問について議論するもよし、
舞や楽曲が披露されるなか、人々はなごやかにこの時を楽しんでいた。
ひととおりの演目が終わりに近づいたころ、天智天皇が歌を所望された。
「額田王よ。」
「はい。」
「ひとつ歌を詠んではくれまいか。」
「承知いたしました。」
朝廷では天皇の代理で歌を詠むことも珍しくない。
宴もよい雰囲気になり、行事の成功をしめくくるにふさわしい歌を望んでいるのだろう。
「では・・・。」
〈あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る〉
「ほう・・・。」
天智天皇はにやりと笑った。
紫草の栽培地である紫野は、一般人の入れない「標野」。貴重な染料の野守(番人)が見るかもしれないのに袖を振って昔の妻に愛を伝えようとするなんて・・・。
誰のことかは明白である。
こちらも余裕ありげに申し出る。
「返歌いたしましょう。」
「うむ。」
天智天皇にも劣らぬほど大海人皇子も楽しそうだ。
〈紫草むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも〉
「おおお・・・・・。」
場内は感嘆の声でざわめいた。
紫草のように香れる君がもし憎かったなら いまは兄の妻の君を どうして恋い慕うことがあるものか。
一歩間違えば修羅場になりそうな歌である。
だが、そうはならない。
「見事である。双方さすがだな。」
天智天皇は思惑通りの結果に至極ご満悦である。
昼間の狩場の景色を背景に、繊細な恋を演じるやりとりの雅やかさは貴族の宴にふさわしいものであり、宴は大いに盛り上がってお開きとなった。
歌人の二人と天皇が目くばせあって「してやったり。」と喜んだのは言うまでもない。
この三年ほど後に天智天皇は病により崩御、ほどなく額田王は朝廷を去り、大海人皇子は政権争いを経て天武天皇となる。
ひとの命は短く尽きても、なお語り継がれる歌にそのひとの生きた証は残り続けるのだ。
あなたはひとつの歌からどれほどの生きざまを読み取れるだろうか。
和歌にはいろんな想いを込めることができる。
景色や草花の美しさ。
大自然の雄大さ。
天皇のお言葉を民に広く伝えることも大事な役目だ。
でも、一番多いのは・・・。
「額田王、天皇のお召しである。」
「はっ。」
ときの天皇は斉明女帝。
女官としてお仕えしたが、いまでは和歌を所望されることが多い。
なにより夫の大海人皇子の実の母である。
神事や歌を必要とされる場面にはよくお召しがあった。
「十市皇女は元気か。」
「はい。ずいぶんと重たくなりました。」
「そうか。それは楽しみであるな。」
孫の成長をめでるのは王族も平民も同じである。
「父の鏡王も驚いておりました。成長が早いのでしょうか。」
「そなたも母のつとめがあるが、朝廷にあってもなくてはならぬ存在である。」
「ありがたきお言葉でございます。」
「これからも頼りにしているぞ。」
「承知いたしました。」
いくぶんお年を感じさせるが、その目元には柔和な笑みをたたえられていた。
だが、それからほどなくしてその女帝はお亡くなりになってしまわれた。
友好国であった百済の再興へ向かう途中に病に倒れてしまった。
〈熟田津にきたつに船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな〉
斉明女帝の命を受けて詠んだ歌である。
長い船旅で疲れた兵士を鼓舞し、九州へ向かった先での急逝であった。
女帝のあとをついだのは長子の中大兄皇子である。
いわゆる義理の兄だ。
国外の敵に備え、国防を固めるなど物々しい空気の中、
天皇の意思を伝えるために和歌が用いられていたことはこれまでとかわりない。
「額田王。そなたの歌は素晴らしい。」
「恐れ多いことでございます。」
以前にもまして朝廷で天皇のそばで仕えることが多くなっていた。
だが、即位して天智天皇となった彼が見染めたのは歌の才能ばかりではなかった。
「そなたをわが妻として迎えたいのだが、どうだろうか。」
大胆な提案ではあるが、天智天皇は弟である大海人皇子に丁寧に申し入れた。
「それは・・・。」
「無理な申し出ということは承知のうえだ。だが、額田王は朝廷にはなくてはならない存在。
民や国政のためにも今までよりいっそう働いてもらいたいのだ。」
「なるほど、おっしゃることはわかります。わが妻は・・・。」
夫はこちらへ優しい眼を向けていた。
「とても優秀で魅力的ですから。」
ああ、そうだ。
夫は「妻」といいながら、「同志」として見てくれている。
いつも見守ってくれて、自由に動けるよう配慮をかかさない。
だがそれが単なる情愛だけでなく、敬意をもって愛してくれているのだ。
「それを国のために用いたい。それはわがままだろうか。」
「ご寵愛をいただけるのでしょうか。」
「それはいうまでもない。生涯をかけて愛することを誓おう。」
同じ母から生まれた兄弟だけに、言葉以上に通じるものがあったであろう。
「額田王がそれでよいというのであれば・・・。」
なんと答えるべきであろうか。
さきの天皇、斉明女帝の優しいお顔がちらりと浮かんだ。
「国のために貢献することができ、さらにはご寵愛もいただけるとはなんとも光栄に存じます。
ただひとつ、わが夫にもご配慮を賜れば幸甚にございます。」
「もちろんだ。大海人皇子にはわたしの4人の娘を嫁がせよう。大事にしてやってくれ。」
「承知いたしました。」
王族というものは因果なものだ。
自分の好みより国家のことを考えなければならない。
いまの3人は共同して国家を守る同志である。
そこには嫉妬など入り込む余地はない。
斉明女帝が望まれた安定して平和な国家を作りたい。
それが共通した願いであった。
天智天皇はすぐれた君主であると同時にたいへん愛情深く、知れば知るほど惹かれていく夫でもあった。
〈君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾すだれ動かし秋の風吹く〉
いつ現れるかと心待ちにするあまり、秋の風が動かす簾にも惑わされるほどである。
前の夫の大海人皇子とは少しちがって先導するタイプであったが、決して押しつけがましいことはなく意見があるときはちゃんと聞いてくれた。
それが国のためになることであればなおさらである。
前の夫だった大海人皇子を含めた3人で、ときには長い時間をかけて議論をしたり、またあるときは母である斉明女帝との思い出話にふけることもあった。娘も嫁ぎ、理解しあえる仲間と自分の楽しみや仕事に没頭できる。それはとても充実して楽しい時間となった。
ある日のこと、天智天皇が主催する狩りが催された。
よくある宮中行事のひとつである。
主な獲物は鹿やイノシシであるが、狩りは軍事訓練も兼ねている。
天智天皇はいささかお年を召しているが、愛馬を駆って走り抜けていく手綱さばきは見事である。
弟の大海人皇子と対をなす凛々しさに集まった人はみな一様に魅了されるのであった。
夜には宴席が設けられた。
昼間の成果を語るもよし、日ごろから研鑽してきた学問について議論するもよし、
舞や楽曲が披露されるなか、人々はなごやかにこの時を楽しんでいた。
ひととおりの演目が終わりに近づいたころ、天智天皇が歌を所望された。
「額田王よ。」
「はい。」
「ひとつ歌を詠んではくれまいか。」
「承知いたしました。」
朝廷では天皇の代理で歌を詠むことも珍しくない。
宴もよい雰囲気になり、行事の成功をしめくくるにふさわしい歌を望んでいるのだろう。
「では・・・。」
〈あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る〉
「ほう・・・。」
天智天皇はにやりと笑った。
紫草の栽培地である紫野は、一般人の入れない「標野」。貴重な染料の野守(番人)が見るかもしれないのに袖を振って昔の妻に愛を伝えようとするなんて・・・。
誰のことかは明白である。
こちらも余裕ありげに申し出る。
「返歌いたしましょう。」
「うむ。」
天智天皇にも劣らぬほど大海人皇子も楽しそうだ。
〈紫草むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも〉
「おおお・・・・・。」
場内は感嘆の声でざわめいた。
紫草のように香れる君がもし憎かったなら いまは兄の妻の君を どうして恋い慕うことがあるものか。
一歩間違えば修羅場になりそうな歌である。
だが、そうはならない。
「見事である。双方さすがだな。」
天智天皇は思惑通りの結果に至極ご満悦である。
昼間の狩場の景色を背景に、繊細な恋を演じるやりとりの雅やかさは貴族の宴にふさわしいものであり、宴は大いに盛り上がってお開きとなった。
歌人の二人と天皇が目くばせあって「してやったり。」と喜んだのは言うまでもない。
この三年ほど後に天智天皇は病により崩御、ほどなく額田王は朝廷を去り、大海人皇子は政権争いを経て天武天皇となる。
ひとの命は短く尽きても、なお語り継がれる歌にそのひとの生きた証は残り続けるのだ。
あなたはひとつの歌からどれほどの生きざまを読み取れるだろうか。