彼女はほぼ毎日、店頭に立っていた。

「いらっしゃいませー! オールドファッションシリーズ新作発売しましたー!」

あの日彼女を見かけて以来、俺はずっと彼女の声がする方を見ては今日こそは、と足を進めようとして後ずさったりを繰り返している。

何とかきっかけをと思うのだが、一向に掴めない間の悪さ。

というか、俺の要領の悪さ。



とりあえず、並んでみるか。
俺はトレーとトングを持って、オールドファッションシリーズが並ぶショーケースを開けた。

(あまり食べたいわけじゃないけど、彼女が勧めるなら……)

そんな単純な理由で、俺は普段なら絶対食べないドーナツを選び取る。
新作のやつと定番の2つからいってみるか。

「次お待ちの方こちらのレジへどうぞー!」

口髭が印象的な男性定員に促され、俺はレジに向かう。名札を見ると、どうやらこの店の店長らしい。
「店内でお召し上がりですか?」
「あ、は、はい……」
思わず口走って後悔する。

「+50円でこちらのドリンクセットにされますと、かなりお得ですが、お付けしますか?」
「あ、じゃあそれで……」
すっかり店の術中にはめられてしまう。実に情けない。断り下手な性格はマジで損だ。
ここまで来て、やっぱやめますなんて格好悪いことは余計にできない。
その行為を格好悪いことだと思っているからできないのだろうな。

理屈ではわかっていても、つい相手の反応を気にして合わせてしまう癖は子どもの頃から変わらない。
こんな日常の些細な場面ですら、俺は変われない自分を虚しく思う。

「ドリンクは何にされます?」
「じゃあ……アイスコーヒーのМで」
「かしこまりました。オールドファッションとオールドファッション桜、アイスコーヒーのМサイズがお一つ、以上3点で320円です」

()っす。これはかなり経済的だな。
「あ、PoyPoy(ポイポイ)で払います」
「かしこまりました。ではこちらにバーコードかざしてください」

支払いを終え、俺はテーブル席に向かう。初めての店は何かと緊張するもので、心なしかトレーを持つ俺の手が震えている。
(うわ、ダッサ……)
たかがドーナツ食べに来ただけで緊張して震えるとか、マジでダサ過ぎる。トレー越しに感じたアイスコーヒーの入ったグラスが、やけに重く感じて落としそうになった。
(ここはプラ容器じゃないんだな)

1人がけの席は埋まっていたので、二人がけのテーブル席に着いて俺はアイスコーヒーのグラスにストローを入れる。俺はストレートで飲む時も、何故か飲む前にマドラーのようにカラカラとストローを回してしまう癖があり、逸生には「女子かよ」とよく突っ込まれた。ここには逸生もいないし、今は一人だから大して気にする必要もない。
アイスコーヒーを一口啜った後、俺はドーナツを手に取る。
定番のオールドファッション。だいたい想像のつく味だと先入観を持って一口かじった俺は衝撃を受けた。


「うま……」
アイスコーヒーマジックか?もう一口いってみる。
「うま」
夢じゃない。ドーナツって、こんなに美味かったか?
それとも、疲れすぎて味が沁みるのか?

いずれにしても、俺は今美味(うま)いドーナツを食いながら感じたことのない高揚感に浸っている。
あっという間に平らげた。これは次も期待できそうだ。

次は桜風味のオールドファッション。
普段なら絶対食べない味だが、つい彼女のお勧めというだけで選んでしまった。そんな単純さに呆れながらも、たまにはこういうのもありかと思えるくらい――絶品だった。

「やば……」
思わず声に出してしまう。これは勧めたくなるわ。
きっかけは些細なこと。もしかすると、実は今まで食べてきたドーナツと何ら変わりない味なのかもしれない。
だとすれば――ただ恋をするだけで世界が変わって見えるという話は、どうやら単なるお伽噺ではなさそうだ。
「単純だな……」
この日を境に、俺はこの店が行きつけになった。その場所に彼女がいるというだけで、世界が色づいて見えたような気がして。他の味にもチャレンジしようなんて、今まで思ったこともなかったのに。
気がつけば、休日にも足を運ぶようになっていた。更には、テイクアウトして家や大学で食べるようにまでなっていた。



とある日の昼下がり。俺は大学の控室でドーナツをかじりながら作品の下絵を描いていたら、同じゼミ友の松岡慶太(まつおかけいた)森嶋玲央(もりしまれお)が来た。
「よっ」と俺の画材で占拠したテーブル席に着く二人。
「柴ヤン、うまそうなの食うとるやん」と森嶋。松岡からは、「あれ、お前ドーナツ好きだったっけ?」となかなか鋭い突っ込みが。
「ここのは美味いから食ってるだけ」と返すと、「何か心境の変化でもあったか?」と松岡は更に鋭く突っ込むので()せそうになった。
「何や、柴ヤン。図星か?」とからかうように森嶋が言う。咄嗟に「いや、そんなんじゃないし」と返すが、便乗した松岡が「わかった! さては彼女できたな」と容赦なく切り込んでくる。
「え、ほんま?」と森嶋。反応に困ってフリーズする俺。
「そうか、とうとうシバにも春が来たか」と松岡は勝手に話を進める。
「だから違うって」
「いや、絶対そうだ。だってさあ……」
松岡が俺の下絵を指さして言った。
「この子。誰?」
「あ……」
しまった。彼女を思いながらドーナツを食べていたら、つい……創作意欲が湧いて、本心がダダ漏れになっていることに気づかなかった。
「お前、普段景色しか描かないじゃん。人物描くのなんて珍しいなと思って」
「う……だからこれは、次の課題で――」
「課題言うてもなあ。ほぼ自由画やなかったか? テーマは“春”やろ? だいたい、ワシらゼミ同じやし。柴ヤン、これはあからさま過ぎちゃうか?」
クソ、みんなして俺を弄りやがって。そう思うものの、俺は何も言い返せない。
「まあ、僕としてはいい傾向だと思うよ。シバの絵は確かに繊細で美しいタッチが特徴だけど、どこか無機質っていうか。味気ないっていうか。何かが足りないって言われる理由はそこにあると思うんだよな」
「ほんまそれな。柴ヤン、ワシら褒めてんで」
どうだか。
「そうそう。春だねえ」
この先もっと弄られるのは必至だが、俺はこの春にどこか期待しているのも事実だった。今までとは何かが違う、この春に。