名無しは眠ってしまったクロエをベッドに運んだ。そして上掛けを掛けてやり、涙で濡れた顔を拭ってやった。

「爺さん、聞いてたか? そういう訳なんだ」
「なんだいデューク……」

 名無しはふっとため息を吐いた。そして自分のベッドへ行き、自分がなぜクロエに真実を言えなかったのかを考えた。

「……つまりは心地よかった、って事だ」

 デュークと勘違いされたままの方が名無しには都合良かった。――そう、名無しはこの二人に家族として扱って欲しかったのだ。

「クロエ、すまない……俺のせいでつらい思いをさせた……」

 すやすやと眠るクロエに名無しの悔恨の声は届かない。名無しはしばらくクロエの寝顔を眺めていた。



「あっ、寝ちゃった!」

 がばっとクロエが起き上がったのはそれからしばらくである。クロエは起きてすぐ周りを見渡した。

「起きたのか」
「パパ……良かった、居た……」

 クロエは名無しの姿を見つけるとあからさまにほっと胸を撫で降ろした。

「お腹空いただろう」

 名無しはクロエにパンとりんごを渡した。いつもの昼食である。

「うん。今日は安息日だから夕飯はがんばるからね」
「……ああ」

 クロエの精一杯の笑顔に名無しは頷いた。



 翌日、名無し達が畑に出ると、クロエが指を差して叫んだ。

「あっ、芽が出てる!」

 ピョコン、ピョコンと畑一面に小さな緑の芽が土から顔を出している。

「良かったの、この間の種がきちんと芽吹いたようじゃ」

 ヨハン爺さんも嬉しそうに麦の芽を確認した。

「あの種がこんな風になるのか」
「そうだよパパ。これからもっともっと背が高くなって、実がなって、それを粉にしてパンにするんだよ」
「パンが……そうか……」

 名無しの中にまたはじめての感情が芽生える。名無しにとってそれははじめて命を育む、という行為だった。

「おーい、アル!」

 その時、名無しを呼ぶ者があった。リックである。

「どうした」
「村の男衆で相談があるんだ。あんたも来てくれないか」
「ああ、かまわない。クロエ、爺さんちょっと行ってくる」
「ああ、いっておいで」

 名無しはリックに連れられて教会の前に向かった。教会の前の広場には村中の男連中がたむろしていた。

「連れてきたぜ」
「あんた客人なのに悪いな。何しろ困った事が起こってな」

 村人は名無しに申し訳なさそうに言った。名無しはその村人に首を振った。

「リックには世話になった。その時に困った事があれば協力すると約束した」
「そ、そうかい」
「で、どうしたんだ? 敵でも襲ってくるのか」

 名無しは村人の警戒態勢を見てそう言った。

「ああ……そうさ難敵さ。畑に害獣が出たんだ」
「……害獣?」

 ちょっと気の抜けたような名無しの返事に村人はあわてて付け加えた。

「ただの害獣じゃないぞ。足跡をみるにどうも魔獣らしいんだわ」
「ああ、猪かと思ったんだがな。それにしては足跡が大きい」
「国が魔王を倒したと発表してからしばらく出てなかったんだがなぁ……」

 村人は口々に畑を荒らした犯人について名無しに教えてくれた。

「下手をすると死人も出る。デカい罠を仕掛けて皆に見回りを頼もうとなったんだ。あんたも協力してくれると嬉しい」
「……」

 名無しは考えた。魔獣は基本肉を食らう。畑の作物まで節操なく食らうのは魔猪マグヌスースだろう。彼らは群れで行動する。増えればこの村全体が危うい。

「どうした? やはり都合悪いか?」
「いや……協力するのはかまわない。だが一切合切を俺に任せてくれないか」
「あんた一人って……魔物だぞ?」
「俺は王都で護衛の任務をしていた。腕には覚えがある」

 嘘ではない。名無しの任務の中には対象者の護衛も含まれる事もあった。

「アルはえらい身が軽いんだ。多分ホントの事をいってると思うよ」

 さすがに名無し一人に任せるのに気が引けた村人が躊躇していると、リックがそう言いだした。それでも村人はどうしようか……と互いに顔を見合わせている。

「そうだ、リック。ちょっと薪を持って来てくれ」
「薪……? ああ分かった」

 名無しはリックに薪を持って来させると、自分に投げつけるように言った。

「ほ、本当にいいのか?」
「ああ、来い」

 リックは薪を軽く名無しに投げた。名無しは腰の二本の小剣を抜くと、それをバラバラにした。

「リック、もっと思い切り投げつけていい」
「ああもう!!」

 名無しはリックがやけくそで投げた薪もあっという間に木片に変えた。

「こんなもんだ。分かってくれただろうか」
「ほおー!」

 村人の間に思わず拍手が沸いた。

「あんたの実力は分かった。しかし……俺達がなんにもしないっていうのも……」
「それじゃあ頼みがある」
「なんだい?」
「豚を一匹殺してくれ」
「豚を……?」

 村人は不思議そうな顔をしながらも頷いた。名無しはふつふつと、どこかで血の湧き上がるような感覚を覚えていた。――この久々の感覚。

「……」

 それは名無しの中で、本来の姿が蘇ろうとする胎動であった。