春も本番となってきた。太陽の日差しがポカポカと暖かい日が続き、その分名無しが雑草と格闘することが増えた。その上で休耕地の畑の土を掘り返したりと毎日忙しい。
しかしその度に名無しは息を吹き返すような気持ちになった。そして不思議な事にぽろぽろと昔の事を思い出してきたりしたのだ。それは、もちろん全部ではなかったが。
「……頭領の名前は、たしか……」
ある冬の日に、酒臭い息でこっそり教えてくれた誰にも伝えてない名前。それから、名無しに来た殺しの依頼のターゲットの何人か。仕事の合間に身の守り方を名無しに身につけさせてくれた誰か。
「生かされてる……生かされてきた」
突き抜ける青の空を見上げて、名無しは今、エミリアの言葉の意味を理解しつつあった。
「わふふっ」
「おわっ……ラロ」
「わんわん!」
急に突進してきた我が家の毛むくじゃらの衛兵は、尻尾を振りながら何かを訴えている。名無しが顔を上げるとリックが手を振っていた。
「アルー! アーロイスー!」
「アルフレッドだ」
「そ、そうだっけ……?」
「ああ」
名無しは素知らぬ顔でリックの間違いを正して、額の汗を拭った。
「どうしたんだ。借りた馬の調子が悪いか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ」
リックは慌てたように手をパタパタさせた。
「ほら、もうすぐ春節祭だろ」
「……おう」
「その打ち合わせをしろって司祭様が」
「ふーん」
「ふーん、じゃなくてアルも行くの!」
リックは焦れたように足を踏みならした。ラロはその動きに興奮してその周りをぐるぐる回る。
「と、言う訳でいくぞ。ヨハン爺さんにはもう言ってあるから」
「ああ……」
こうして二人は教会に向かった。
「ああ、リック。アルもよくきてくれたね」
「どうも」
「アル、改めてお礼を。それからこれは些少だけれども」
「いや金はいらん。俺は金の為に行ったわけじゃない」
「では、このワインを持って行ってくれ」
「……ありがとう」
名無しは司祭からワインを受け取った。きっと爺さんが喜ぶだろう。
「では今年の聖人劇のテーマから……」
「……おい、リック」
「ん?」
「聖人劇ってなんだ」
「春節祭のメインのひとつだよ。娘達のダンスの他にありがたい昔のエライ人の話を芝居でやるのさ。この村は若い娘はいないからこれが目玉になるかな?」
「へ……へぇ?」
名無しはリックの説明を聞いても半分くらいしか分からなかった。
「王都だとしないのか?」
「あんまり……しない……かな」
実際はやってるのかもしれなかったけれど、それは名無しには知らない事だった。そうこうしているうちに、司祭の聖人の話が始まってしまった。
「昔……弾圧にあった聖人リアンは命からがら逃げた先に娼婦のアリシャに出会います。アリシャに介抱されて一命を取り留めたリアンはアリシャに神と人のあり方を解きます。己の罪を悔いたアリシャは、リアンにこれからは人のために生きると赦しを乞います。やがてリアンの追手が来た時にアリシャは追手の目を逸らすためにおとりになりました。おかげでリアンは南の地に逃れ、そこで新たな教会をひらいたのです」
長々とした司祭の話がやっと終わった。
「……それでアリシャはどうなった」
「崖から落ちて命を失ったと」
「暗くないか、話」
名無しがそう言うと、教会にいた人々の空気が凍った。
「……確かにそうかもしれません。困難を乗り越えた者が聖人と呼ばれるのだからしかたありませんね。それに……どうせ面白おかしくするんでしょう、そこのリックが!」
「へっへへ……だって普通にやってもみんな酒ばっか飲んで見ないでしょう?」
この時のリックは名無しが見た事の無いくらい悪い顔をしていた。
「まぁ、滅私の心が伝われば……細かい事は言いますまい。……言いますまい」
「司祭様、任せておいて!」
それからリックを中心に打ち合わせが始まった。登場人物は四人。主人公の聖人リアンと娼婦のアリシャ、そして追手と南の地の人。
「追手は複数の方がいいか。最後の南の人と兼任にしよう」
リックはメモを取りながら集まったメンバーを確認していた。いるのは村の中で比較的若いアル、こと名無しと三人のおっさんと一人のおかみさんである。
「……アリシャは決まりなんじゃないか?」
名無しがそう言うと、恐る恐るおかみさんが手を挙げた。
「ごめんなさい、うちまた出来ちゃって……下手したら当日生まれちゃうかも」
「まじか! あ、おめでとう何人目だっけ」
「六人」
すごいな、と名無しが内心感心していると、刺すような痛いくらいの視線を感じた。
「なんだ、リック」
「……名案だ。おれは天才かもしれない」
「……ん?」
「娼婦アリシャ……お前がやってくれ。アル」
「……はぁ!?」
名無しは自分でもびっくりするくらいの大声が出た。リックはそんな事お構いなしでうんうんと頷いている。
「いいぞ……アルが女役をやったらみんな目が離せないに違いない」
「おい、おい……やるって言ってないぞ。普通の犯罪者の兄ちゃんのアリシャさんじゃだめなのか」
「駄目駄目。アリシャもまた聖女として祀られてるんだから! あとそれだと絵面がむさ苦しい」
「いや、現状でもむさ苦しいだろ」
名無しは食い下がった。しかしリックは首を振った。
「無いね。やっぱりアリシャは娼婦じゃないと」
すると村のおかみさんが呟いた。
「割と……いけると思うわ」
「だよな……細身だし……」
何を言ってる、そもそも身重で女性役がいないのは誰の所為だ、と名無しは思った。するとリックが追い打ちをかけてきた。
「そうじゃなきゃ次に村で若い女はクロエになるぞ」
「え……」
それを聞いた名無しの動きが止った。クロエが……罪をおかした娼婦の役? と、名無しはぐるぐる考えはじめた。
「どうする……?」
「くそっ、わかったよ……」
ついに名無しは折れた。リック達はこれで祭りが盛り上がると手を叩いて喜んでいた。
「なんでこんな事に……?」
名無しは呆然としながら日の落ち行く教会からの道をとぼとぼと戻っていった。
しかしその度に名無しは息を吹き返すような気持ちになった。そして不思議な事にぽろぽろと昔の事を思い出してきたりしたのだ。それは、もちろん全部ではなかったが。
「……頭領の名前は、たしか……」
ある冬の日に、酒臭い息でこっそり教えてくれた誰にも伝えてない名前。それから、名無しに来た殺しの依頼のターゲットの何人か。仕事の合間に身の守り方を名無しに身につけさせてくれた誰か。
「生かされてる……生かされてきた」
突き抜ける青の空を見上げて、名無しは今、エミリアの言葉の意味を理解しつつあった。
「わふふっ」
「おわっ……ラロ」
「わんわん!」
急に突進してきた我が家の毛むくじゃらの衛兵は、尻尾を振りながら何かを訴えている。名無しが顔を上げるとリックが手を振っていた。
「アルー! アーロイスー!」
「アルフレッドだ」
「そ、そうだっけ……?」
「ああ」
名無しは素知らぬ顔でリックの間違いを正して、額の汗を拭った。
「どうしたんだ。借りた馬の調子が悪いか?」
「いやいや、そんなんじゃないよ」
リックは慌てたように手をパタパタさせた。
「ほら、もうすぐ春節祭だろ」
「……おう」
「その打ち合わせをしろって司祭様が」
「ふーん」
「ふーん、じゃなくてアルも行くの!」
リックは焦れたように足を踏みならした。ラロはその動きに興奮してその周りをぐるぐる回る。
「と、言う訳でいくぞ。ヨハン爺さんにはもう言ってあるから」
「ああ……」
こうして二人は教会に向かった。
「ああ、リック。アルもよくきてくれたね」
「どうも」
「アル、改めてお礼を。それからこれは些少だけれども」
「いや金はいらん。俺は金の為に行ったわけじゃない」
「では、このワインを持って行ってくれ」
「……ありがとう」
名無しは司祭からワインを受け取った。きっと爺さんが喜ぶだろう。
「では今年の聖人劇のテーマから……」
「……おい、リック」
「ん?」
「聖人劇ってなんだ」
「春節祭のメインのひとつだよ。娘達のダンスの他にありがたい昔のエライ人の話を芝居でやるのさ。この村は若い娘はいないからこれが目玉になるかな?」
「へ……へぇ?」
名無しはリックの説明を聞いても半分くらいしか分からなかった。
「王都だとしないのか?」
「あんまり……しない……かな」
実際はやってるのかもしれなかったけれど、それは名無しには知らない事だった。そうこうしているうちに、司祭の聖人の話が始まってしまった。
「昔……弾圧にあった聖人リアンは命からがら逃げた先に娼婦のアリシャに出会います。アリシャに介抱されて一命を取り留めたリアンはアリシャに神と人のあり方を解きます。己の罪を悔いたアリシャは、リアンにこれからは人のために生きると赦しを乞います。やがてリアンの追手が来た時にアリシャは追手の目を逸らすためにおとりになりました。おかげでリアンは南の地に逃れ、そこで新たな教会をひらいたのです」
長々とした司祭の話がやっと終わった。
「……それでアリシャはどうなった」
「崖から落ちて命を失ったと」
「暗くないか、話」
名無しがそう言うと、教会にいた人々の空気が凍った。
「……確かにそうかもしれません。困難を乗り越えた者が聖人と呼ばれるのだからしかたありませんね。それに……どうせ面白おかしくするんでしょう、そこのリックが!」
「へっへへ……だって普通にやってもみんな酒ばっか飲んで見ないでしょう?」
この時のリックは名無しが見た事の無いくらい悪い顔をしていた。
「まぁ、滅私の心が伝われば……細かい事は言いますまい。……言いますまい」
「司祭様、任せておいて!」
それからリックを中心に打ち合わせが始まった。登場人物は四人。主人公の聖人リアンと娼婦のアリシャ、そして追手と南の地の人。
「追手は複数の方がいいか。最後の南の人と兼任にしよう」
リックはメモを取りながら集まったメンバーを確認していた。いるのは村の中で比較的若いアル、こと名無しと三人のおっさんと一人のおかみさんである。
「……アリシャは決まりなんじゃないか?」
名無しがそう言うと、恐る恐るおかみさんが手を挙げた。
「ごめんなさい、うちまた出来ちゃって……下手したら当日生まれちゃうかも」
「まじか! あ、おめでとう何人目だっけ」
「六人」
すごいな、と名無しが内心感心していると、刺すような痛いくらいの視線を感じた。
「なんだ、リック」
「……名案だ。おれは天才かもしれない」
「……ん?」
「娼婦アリシャ……お前がやってくれ。アル」
「……はぁ!?」
名無しは自分でもびっくりするくらいの大声が出た。リックはそんな事お構いなしでうんうんと頷いている。
「いいぞ……アルが女役をやったらみんな目が離せないに違いない」
「おい、おい……やるって言ってないぞ。普通の犯罪者の兄ちゃんのアリシャさんじゃだめなのか」
「駄目駄目。アリシャもまた聖女として祀られてるんだから! あとそれだと絵面がむさ苦しい」
「いや、現状でもむさ苦しいだろ」
名無しは食い下がった。しかしリックは首を振った。
「無いね。やっぱりアリシャは娼婦じゃないと」
すると村のおかみさんが呟いた。
「割と……いけると思うわ」
「だよな……細身だし……」
何を言ってる、そもそも身重で女性役がいないのは誰の所為だ、と名無しは思った。するとリックが追い打ちをかけてきた。
「そうじゃなきゃ次に村で若い女はクロエになるぞ」
「え……」
それを聞いた名無しの動きが止った。クロエが……罪をおかした娼婦の役? と、名無しはぐるぐる考えはじめた。
「どうする……?」
「くそっ、わかったよ……」
ついに名無しは折れた。リック達はこれで祭りが盛り上がると手を叩いて喜んでいた。
「なんでこんな事に……?」
名無しは呆然としながら日の落ち行く教会からの道をとぼとぼと戻っていった。