「さーて、街に戻りますか!」
フレドリックはのっしのっしと足音を立てて教会に背を向けた。名無しは黙ってその後についていった。
「ふう……」
再びユニオールの中央広場まで戻ってくると、フレドリックは大きく息を吐いた。
「アル、このまま家まで帰るつもりですかな」
「ああ……国境を越えるのは例によって夜中になると思うが」
「ならそれまで食事でもどうです。お礼にもなりませんが奢ります」
「しかし……」
「お互い任務を終えたということで、美味いものでも食べましょう」
フレドリックは名無しの手を引っ張って料理屋に入った。
「さあ、なんでも好きなものを」
「いや、なんでも食べるけど」
「そうですか、じゃあ適当に……すまん、お薦めの料理とワインを!」
「俺は飲まないぞ」
女給を呼び止めて料理と酒を注文したフレドリックに名無しはそう釘を刺した。
「そら……そうですな。まあ私は飲みますけど。しばしの間肩の荷を降ろすのに付き合ってくだされ」
「……まあいいさ」
やがて、パンを添えた豚の肝臓のパテや豆や野菜と煮込まれたほろほろの鶏の煮込みや香草と焼いた川魚などが運ばれてきた。
「では乾杯」
フレドリックはぐっとワインを飲み干した。そしてふーっと深く息を吐くと口元を拭った。
「寂しいなんて思っちゃいけないんでしょうけどね……。これから知らない世界で暮らしていくライアン様の事を思えば」
「あの我が儘坊ちゃん大丈夫かね」
「……ええ、本当に。私は小さい頃から一緒にいたので慣れてますがね」
フレドリックは苦笑しながらまたワインを飲んだ。
「ライアン様の父上……ロドリック殿下とそのお妃様はそれは仲むつまじい夫婦でした。妃殿下が亡くなられてから後添いを断るくらいに。一人息子のライアン様には殿下は厳しい方でした。その分私に甘えていたのだと思いますよ」
「そうか……」
名無しはクロエの事を思い出していた。ライアンに最初に会った時、クロエの方がよほど大人びていると思ったのだが、子供とはそんなものなのかもしれない。クロエはただ年老いた祖父と二人今まで誰にも甘えられずにきたから……そんな風に思った。
「まずは一日も早く、ライアン様があそこにいなくても良いようにしなくては。その為には……まず体勢作りですな。ここユニオールを拠点にこれから動く必要があります」
「あんたも大変だな」
「……私はどうもややこしい政治の世界は苦手でしてな。でもそんな私を信じ慕ってくださったロドリック殿下とライアン様に報いたいのです」
フレドリックはそう言いながらよく食べ、よく飲んだ。最後に皿に残った鶏の煮込みの骨を口から引っ張り出して、ワインを飲み干した。
「……これが最後の酒です。ロドリック殿下を再び王太子に戻し、ライアン様を迎えにいくまで……私は酒を断ちます。アル、付き合ってくれてありがとう」
「いや……かまわないさ」
二人が店の外に出ると、もううっすら外は暗くなっていた。
「では、ここでお別れですな」
「……達者で」
「その……不思議な縁でしたな」
「ああ……エミリアならきっと、神がどうたらとか言いそうだ」
名無しはそう言って夕闇の丘の上に浮かぶ教会本部の白い建物に目をやった。
「では!」
フレドリックは名無しに向かって手を挙げた。名無しも同様に手を挙げて市壁の方へと向かった。
「さ、帰るか」
名無しは来た時と同様に茂みに身を隠して夜を待ち、丁度満月の日で夜も明るかったが問題無く市壁をよじ登って国境を突破した。
「ぶるるる」
「しー」
そして預けていた馬を厩から連れ出すと、その背に乗ってリュッケルンの街を後にした。
「……あ、土産……まいったエミリアの言った通りだ」
街道をしばらく行った所で名無しは気付いて思わず笑ってしまった。エミリアがクロエのお土産にと選んでくれたリボンは胸元にしまってあった。
「まだわからん事が多いな俺は」
名無しは馬の駆けるスピードを上げた。とにかく村に帰る。バードが村で何かしていないか確かめなくてはいけないし、それでもしアーロイスに居所がばれていたら自分がいたら村に迷惑がかかるかもしれない。
「それでも……帰らなくては」
それがクロエとの約束だから。必ず戻るとクロエに言ったから、名無しはハーフェンの村に戻らなくてはいけない。
名無しは一晩中馬を走らせた。朝方になって馬の方が根をあげてバテた所でようやく休息を取る。
「すまん……」
馬に水を飲ませてやり、名無しも水を飲みながら干し肉を囓る。そんな風にしてほとんど寝食を忘れて名無しは村へと向かった。二人で、あるいは四人で辿った聖都への街道はあっという間だった。
「……見えた」
名無しは馬の足を止めた。村の周辺に飢えられたクヌギの木。見覚えのある簡素な柵。この国の辺境の片隅の村、ハーフェン。
「……」
名無しは馬から降りて、そのまま引きながら村に近づいた。通りかかった村人が、名無しの姿を見て手を振った。
「やっぱり、アルだ!」
「やあ」
「おかえり! すぐにクロエを呼んでくるな!」
そう言って駆けていった村人を名無しは見送りながら村の中に入った。するとリックが凄い勢いで駆けつけてきた。
「アル……」
「リック、良かった。無事馬を返せる」
「そんな事はいいんだよ! まったく心配したぞ!」
「……そっか」
「まぁ、あれだ俺は……その、いいんだ」
リックはちょっと照れながら、名無しの背中をバンバン叩いた。
「ちょっと! リックなにしてんの!」
その時軽い足音と、甲高い声が近づいてきた。
「パパ!」
「……クロエ」
クロエは名無しに飛びついた。名無しはそんなクロエを抱き上げた。
「遅くなったな」
「……お帰り、パパ」
クロエは名無しの首にしがみついた。そしてちょっとだけ恥ずかしそうにして呟いた。
「良かった……帰ってきた」
「ああ。約束だからな」
名無しはクロエを抱き上げたまま、ヨハンの家へと向かった。
「おーい、じいさん」
「おう。帰ってきたか。どれデューク……こっちの畑においで」
ヨハンは名無しの姿を認めると、のんびりと立ち上がって名無しとクロエを麦畑に導いた。
「ほれ、よーく見てみぃ」
「……ん?」
「お前さんのおらんうちに穂がつき始めたぞ」
「本当だ」
それは本当に小さな穂だった。名無しはこれが大きくなって自分も知っている麦の姿になるのか、と感心した。
「これから虫がいっぱい湧いたりするから忙しいよ、パパ」
「そりゃ大変だ」
名無しはクロエとヨハンと麦畑を見つめながら、自然と口元に笑みを浮かべていた。
フレドリックはのっしのっしと足音を立てて教会に背を向けた。名無しは黙ってその後についていった。
「ふう……」
再びユニオールの中央広場まで戻ってくると、フレドリックは大きく息を吐いた。
「アル、このまま家まで帰るつもりですかな」
「ああ……国境を越えるのは例によって夜中になると思うが」
「ならそれまで食事でもどうです。お礼にもなりませんが奢ります」
「しかし……」
「お互い任務を終えたということで、美味いものでも食べましょう」
フレドリックは名無しの手を引っ張って料理屋に入った。
「さあ、なんでも好きなものを」
「いや、なんでも食べるけど」
「そうですか、じゃあ適当に……すまん、お薦めの料理とワインを!」
「俺は飲まないぞ」
女給を呼び止めて料理と酒を注文したフレドリックに名無しはそう釘を刺した。
「そら……そうですな。まあ私は飲みますけど。しばしの間肩の荷を降ろすのに付き合ってくだされ」
「……まあいいさ」
やがて、パンを添えた豚の肝臓のパテや豆や野菜と煮込まれたほろほろの鶏の煮込みや香草と焼いた川魚などが運ばれてきた。
「では乾杯」
フレドリックはぐっとワインを飲み干した。そしてふーっと深く息を吐くと口元を拭った。
「寂しいなんて思っちゃいけないんでしょうけどね……。これから知らない世界で暮らしていくライアン様の事を思えば」
「あの我が儘坊ちゃん大丈夫かね」
「……ええ、本当に。私は小さい頃から一緒にいたので慣れてますがね」
フレドリックは苦笑しながらまたワインを飲んだ。
「ライアン様の父上……ロドリック殿下とそのお妃様はそれは仲むつまじい夫婦でした。妃殿下が亡くなられてから後添いを断るくらいに。一人息子のライアン様には殿下は厳しい方でした。その分私に甘えていたのだと思いますよ」
「そうか……」
名無しはクロエの事を思い出していた。ライアンに最初に会った時、クロエの方がよほど大人びていると思ったのだが、子供とはそんなものなのかもしれない。クロエはただ年老いた祖父と二人今まで誰にも甘えられずにきたから……そんな風に思った。
「まずは一日も早く、ライアン様があそこにいなくても良いようにしなくては。その為には……まず体勢作りですな。ここユニオールを拠点にこれから動く必要があります」
「あんたも大変だな」
「……私はどうもややこしい政治の世界は苦手でしてな。でもそんな私を信じ慕ってくださったロドリック殿下とライアン様に報いたいのです」
フレドリックはそう言いながらよく食べ、よく飲んだ。最後に皿に残った鶏の煮込みの骨を口から引っ張り出して、ワインを飲み干した。
「……これが最後の酒です。ロドリック殿下を再び王太子に戻し、ライアン様を迎えにいくまで……私は酒を断ちます。アル、付き合ってくれてありがとう」
「いや……かまわないさ」
二人が店の外に出ると、もううっすら外は暗くなっていた。
「では、ここでお別れですな」
「……達者で」
「その……不思議な縁でしたな」
「ああ……エミリアならきっと、神がどうたらとか言いそうだ」
名無しはそう言って夕闇の丘の上に浮かぶ教会本部の白い建物に目をやった。
「では!」
フレドリックは名無しに向かって手を挙げた。名無しも同様に手を挙げて市壁の方へと向かった。
「さ、帰るか」
名無しは来た時と同様に茂みに身を隠して夜を待ち、丁度満月の日で夜も明るかったが問題無く市壁をよじ登って国境を突破した。
「ぶるるる」
「しー」
そして預けていた馬を厩から連れ出すと、その背に乗ってリュッケルンの街を後にした。
「……あ、土産……まいったエミリアの言った通りだ」
街道をしばらく行った所で名無しは気付いて思わず笑ってしまった。エミリアがクロエのお土産にと選んでくれたリボンは胸元にしまってあった。
「まだわからん事が多いな俺は」
名無しは馬の駆けるスピードを上げた。とにかく村に帰る。バードが村で何かしていないか確かめなくてはいけないし、それでもしアーロイスに居所がばれていたら自分がいたら村に迷惑がかかるかもしれない。
「それでも……帰らなくては」
それがクロエとの約束だから。必ず戻るとクロエに言ったから、名無しはハーフェンの村に戻らなくてはいけない。
名無しは一晩中馬を走らせた。朝方になって馬の方が根をあげてバテた所でようやく休息を取る。
「すまん……」
馬に水を飲ませてやり、名無しも水を飲みながら干し肉を囓る。そんな風にしてほとんど寝食を忘れて名無しは村へと向かった。二人で、あるいは四人で辿った聖都への街道はあっという間だった。
「……見えた」
名無しは馬の足を止めた。村の周辺に飢えられたクヌギの木。見覚えのある簡素な柵。この国の辺境の片隅の村、ハーフェン。
「……」
名無しは馬から降りて、そのまま引きながら村に近づいた。通りかかった村人が、名無しの姿を見て手を振った。
「やっぱり、アルだ!」
「やあ」
「おかえり! すぐにクロエを呼んでくるな!」
そう言って駆けていった村人を名無しは見送りながら村の中に入った。するとリックが凄い勢いで駆けつけてきた。
「アル……」
「リック、良かった。無事馬を返せる」
「そんな事はいいんだよ! まったく心配したぞ!」
「……そっか」
「まぁ、あれだ俺は……その、いいんだ」
リックはちょっと照れながら、名無しの背中をバンバン叩いた。
「ちょっと! リックなにしてんの!」
その時軽い足音と、甲高い声が近づいてきた。
「パパ!」
「……クロエ」
クロエは名無しに飛びついた。名無しはそんなクロエを抱き上げた。
「遅くなったな」
「……お帰り、パパ」
クロエは名無しの首にしがみついた。そしてちょっとだけ恥ずかしそうにして呟いた。
「良かった……帰ってきた」
「ああ。約束だからな」
名無しはクロエを抱き上げたまま、ヨハンの家へと向かった。
「おーい、じいさん」
「おう。帰ってきたか。どれデューク……こっちの畑においで」
ヨハンは名無しの姿を認めると、のんびりと立ち上がって名無しとクロエを麦畑に導いた。
「ほれ、よーく見てみぃ」
「……ん?」
「お前さんのおらんうちに穂がつき始めたぞ」
「本当だ」
それは本当に小さな穂だった。名無しはこれが大きくなって自分も知っている麦の姿になるのか、と感心した。
「これから虫がいっぱい湧いたりするから忙しいよ、パパ」
「そりゃ大変だ」
名無しはクロエとヨハンと麦畑を見つめながら、自然と口元に笑みを浮かべていた。