「アル、大丈夫か?」

 その時部屋に入ってきたのはライアンだった。眠たそうに目をこすっている。

「ああ。昨夜は心配かけたみたいだな」
「……ふん」
「ライアン様もお茶飲みますか?」
「ああ。エミリアが着替えしてるからこっち来たんだ」

 フレドリックからお茶を受け取ったライアンはふうふうとそれを冷ましながら愚痴りだした。

「まぁそれは丁寧に髪を梳いていた」
「無理もないです。未来の聖女様の凱旋になるのですから。そこの広場から中央教会までみんながエミリアに注目する事になるでしょう。ライアン様も寝癖を直しましょう」
「ん? どこだ?」

 寝癖の場所を探しているライアンとブラシを荷物から取りだそうとしているフレドリックを横目に、名無しは窓の外を見つめた。もう間もなく中央教会からの迎えが来る。そうしたらこの旅は終わる。ほんの数日のはずなのに、名無しはひどく長かった旅に思えた。

「……お待たせしました」
「おう」

 しばらくすると、久し振りに巡礼者のローブを身に纏ったエミリアが部屋に現れた。

「まだ時間はあります。少し何か食べておいた方がいい。部屋に持って来させましょう」
「ええ」

 それから軽い朝食を終えて、四人は一緒の部屋で迎えを待っていた。

「……教会の暮らしはどんなだろう」
「すぐに慣れますよ。この旅を乗り越えてきたライアンなら大丈夫です」

 少し不安そうに呟いたライアンにエミリアは優しく微笑んだ。

「もちろん住居房は別ですが礼拝堂などの共用部分では顔を合わせるかもしれません。何かあったら言ってくださいね」
「うむ」
「フレドリックさんはライアンを送ったらどうするんですか?」
「……しばらくこのユニオールに留まります。ライアン様が落ち着くまでは……」
「そうですか」

 エミリアはそうして名無しに視線を移した。

「これでやっとハーフェンの村に帰れますね」
「……ああ」
「司祭様にお世話になりましたと伝えてください。それからクロエちゃんや村のみんなにも」
「分かった」
「ここまでありがとうございました。結局アルの力を随分借りてしまいました」

 名無しは黙って首を振った。

「あんたは最後まで自分の足で歩いた。俺はちょっと露払いをしただけさ」
「感謝します……心から」

 エミリアがお礼の言葉をのべた時、部屋の扉が叩かれた。

「エミリア殿、ライアン殿お迎えにあがりました」

 扉の奥にいたのは遣いとしてやってきた中央教会の僧侶達であった。

「エミリア殿、よくぞ無事で戻られた」
「それにしてもライアン殿と一緒とは……」
「たまたまです。これも神のお導きでしょう」

 エミリアは僧侶達に笑顔でそう答えると立ち上がった。

「では行きましょう」

 エミリアの顔つきが変わった。ライアンに振り回されていた時や、村の祭りを楽しげに眺めていた時や、名無しの思いを黙って聞いてくれた時とは違う厳しい表情が顔に現れていた。

「……そうだな」

 皆でまとめた荷物を手に宿の外を出るとすでに見物人が何人も待ち構えていた。

「さあ、エミリア殿。教会まであと少し。その偉業を見守ろうと多くの人が集まっています」
「ええ」

 エミリアは一行の先頭に立って歩き始めた。人垣がそれに合わせて移動して行く。その後ろを名無し達は付いていった。

「……エミリアを妨害していた者達もこの光景を見ているのだろうな」
「ライアン様っ」

 薄く笑いながら歩くライアンをフレドリックはたしなめた。民衆の好奇の目に晒されながら丘の上の白い教会に向かう。街を離れ、道には緑が多くなり、とうとう長い階段の前まで来た。見上げるほど巨大な中央教会の本部にはいくつもの尖塔が立っており塀で覆われていた。開け放たれた門には何人もの僧侶と尼僧が待機して、エミリアの到着に歓声と拍手の音をあげた。

「……お付きの方がついてこられるのはここまでです」

 その時くるり、と迎えの僧侶が名無しとフレドリックを振り返って告げた。

「……分かった」

 少し離れてどこか懐かしそうに中央教会の建物を見上げていたエミリアだったが、ライアンの肩にそっと手を添えると名無し達に近寄った。

「ライアン……ここで二人とはお別れです」
「……うん。アル、ここまで協力に感謝する。そして、フレドリック」

 ライアンはフレドリックの大きな体を見上げた。

「常に身を案じ、ここまで導いてくれた事。誠に大義であった」
「ライアン様……」

 フレドリックの目にうっすらと涙がにじんだ。

「とりあえず、この勝負は一旦我々の勝ちだ。しかし……」
「ええ。必ずお迎えに参ります」

 ライアンは無言で頷いた。世俗から切り離された空間に隔離される事となっても自分が生き延びる意味を、ライアンはフレドリックの分厚い手を握りながら噛みしめた。

「フレドリックさんお疲れ様でした。アルも……本当にありがとう」

 エミリアも二人を見つめて頭を下げた。そしてそのまま門の向こうに向かおうとするエミリアの肩越しに名無しは思わず声をかけた。

「エミリア、この先は俺は付いて行ってやれない」
「ええ、大丈夫です。分かってます……この先は私の問題です」
「……ああ」
「私を支えてくれる人の為に、この巡礼で手を差し伸べてくれた人の為に立ち止まる訳にはいきません。その中にはアル……あなたもいます」

 エミリアは少し寂しそうに笑った。この先二度と会うことの無いだろう名無しをしっかりと見つめて。

「最後に良い旅が出来ました。……幸せに、なってくださいね」
「……約束する」

 名無しは言葉少なに答えた。そのままエミリアは未練を振り払うように名無し達に背を向けると、ライアンを連れて門の中へと進んでいった。二人が中に入るとゆっくりと門は閉まっていく。中から聞こえる歓声。そして門はぴったりと閉じて二人の姿は見えなくなった。

「……行ってしまいましたな」
「……だな」
「おかしなもんです。ここを目指してきたはずなのに……」

 フレドリックが横で鼻をすすり上げているのを聞きながら、名無しは教会の厚い木の門を見つめていた。

「さよなら……エミリア、ライアン」

 名無しが小さく呟いた声は木の葉の揺れる音に紛れていった。