「それではっ……良き旅路を……」

 翌朝、司祭は青ざめた顔で名無し達を出入り口まで送り出した。

「ありがとうございました! これは些少ですが!」

 フレドリックが青筋を立てながら、司祭に銀貨を渡そうとすると司祭は引き攣った顔で首を大きく振った。

「いえいえ! 旅の方のお力になれただけで十分です……」

 そう言って名無しの方をチラチラと見てくる。その怯えきった司祭の姿を名無しは無表情に見つめていた。

「……行こう」

 名無しは一同を促すと、その村を後にした。村が背中の向こうに遠くなっていくに従って、フレドリックの不機嫌は増していった。

「まーったく、けしからん!」

 とうとう爆発した彼を、ライアンとエミリアは驚いた目で見ていた。

「どうした、じい……お爺さん」
「あの教会は腐れておりました! 我々に一服盛ったのです」
「……本当か?」

 ライアンの目が、名無しを捕らえた。名無しは黙って頷いた。

「あいつら眠り薬を盛って荷物を物色していた」
「なっ……!?」
「それでアルはあんな所にいたのですか?」

 エミリアにそう聞かれて名無しは頷いた。実際の事情は違っていたがライアンに余計な事を伝えない為にも昏睡泥棒に仕立てておこうと名無しは思ったのだ。

「そんな……私、何も知らないで……ありがとう、アル」
「いいさ」
「……」

 なんでもないように答えた名無しをライアンはじっと見つめた。ライアンはフレドリックと名無しの立ち回りを目の前で見ていた。筋骨隆々としたフレドリックと違い、名無しの体型は優れているとは言いがたい。

「でも……」

 名無しは強かった。フレドリックは引退した護衛騎士である。愚直すぎる人柄で大して出世こそしなかったが、その実力は王城に勤める者誰もが知っていた。

「そろそろ昼休憩にしましょう」

 ライアンが馬上で考え込んでいる間に、随分道を進んだようだ。エミリアが休憩を呼びかけ、一行は開けた草地でしばし休む事になった。

「疲れたか」
「え?」

 馬から下ろして貰った名無しにそう聞かれて、ライアンは思わず聞き返してしまった。出会った頃から無表情な名無しからそんな労りの言葉がでるとは思わなかったのだ。

「……まぁ、少し」
「そうか。これをやる」

 名無しは小瓶をライアンに差し出した。それは先の町で買った胡桃の蜂蜜漬けだった。

「なぜ……」
「子供は甘い物が好きじゃないのか」
「いや、嫌いじゃないけど」

 ライアンが戸惑った顔をしているのを見て、名無しは首を傾げた。クロエならすぐにふたを開けて口に放り込むのに、と思いながらライアンに差し出した瓶を引っ込められずにいた。

「やあ、美味しそうじゃないですか」
「フレドリック」

 ライアンの後ろで様子を見ていたフレドリックが明るい声を出した。

「どれ、ひとつ。うん甘い。素朴な味ですな」
「ちょっと、爺さん……」

 突然間に割って入って小瓶から胡桃をつまんだフレドリック。それを見てライアンもおずおずと小瓶に手を伸ばした。

「……おいしい」
「そうか」

 名無しは満足した顔をしてライアンに蜜漬けの瓶を手渡した。

「みなさん、昼食が出来ました!」

 エミリアが切れ目を入れたパンにハムとチーズを挟んで持って来た。一同は薄青に晴れた初春の空の下、それを食べて空腹を満たした。

「……すいませんな」
「ん?」

 ふとそう呟いたフレドリックを名無しは見上げた。

「ライアン様はあんまりああいったものに慣れてなくて」
「ああ。うちのクロエとあんまり一緒にしちゃいけなかったかな」
「クロエ……?」

 その名前にフレドリックは不思議そうに両眉を上げた。名無しはしばし迷った末にこう答えた。

「……うちの娘だ」
「ほう、娘さんがおるのですな」
「ああ」

 名無しはそう言いながら後ろを振り返った。振り返ったところでここから何日もかかるあのハーフェンの村は見えてこないのだが……。

 その頃、そのハーフェンの村にはようやく名無しからの手紙が届いた。最初の町で書いたものである。

「クロエとヨハン爺さんへ……?」

 村の使い走りをだいたい押しつけられるリックがその手紙をヨハンの家に届けた。手紙を受け取ったクロエは中身を開いてじっと見つめた。と、いってもクロエが読めるのは簡単な文字だけである。

「リック、読んで!」
「ええ? 俺が?」

 こんな手紙が来た、という事は……と大体手紙の内容が予想できたリックは少し躊躇した。目の前でクロエに大泣きされるのは勘弁である。

「はやくー!」
「わ、わかったよ。……えーと『数日では済まなくなった。一ヶ月はかかる』」
「ええっ!?」
「待て待て! まだ続きがある! 『麦の収穫を楽しみにしている。クロエ、ラロの躾けを頼む。いい子で』……以上だ」
「……」

 クロエは俯いた。リックはクロエがいつ泣き出すかと身構えた。

「そっか!」
「……そんだけ?」
「だって少なくとも麦の収穫の頃には帰ってくるんでしょ? きっとエミリアさん大変なんだよ」
「そうか、そうだなー」
「だから……だからクロエは、パパの言う通りラロの面倒見る。畑もがんばる」

 クロエはくっと顔を上げた。その目にうっすらと涙をにじませ、唇を引き結んで。

「パパは絶対帰ってくるもん!」

 そう、リックに力強く答えたのだった。