がやがやとした宿の食堂。その一角に名無しとエミリアは向かい合って夕食を取っていた。
「ところであんた、教会に行かなくてよかったのか?」
「それですが……この町の教会にはもう手が回っているかもしれないと思いまして」
「なるほどな」
「下手したら今後も……」
エミリアは悲しげに顔をしかめた。
「はーあ、坊さん連中までそんなんか」
「誤解しないでください。全部が全部そういった訳ではありません。きちんと神の教えを守り、熱心な聖職者ももちろんいます」
呆れたようにため息をついた名無しを見て、エミリアは慌ててそう付け足した。
「……だな、あんたとかあの村の司祭とか」
「ええ」
名無しの脳裏にあったのは村の教会の素朴な集会だ。そして教会学校を毎週楽しみにしているクロエの顔。
「教会は……もっと人の苦しみや幸せに寄り添うべきと考えています。内輪の揉め事などしている暇は本来はないはずなのです」
「……メシが冷めるぞ」
放って置けばいつまでも理想を語り続けそうなエミリアに、名無しはそれだけ返した。
翌朝、名無しとエミリアは町を出た。名無しは厩から馬を引いてきながらエミリアに聞いた。
「本当に乗らなくていいのか」
「はい、私は徒歩で行きます。100年前の聖女、フロランスの偉業をなぞるのがこの巡礼の目的です」
「……ふーん」
名無しはそれを聞いて一人、馬に飛び乗った。そして、手を伸ばしてひょいとエミリアの荷物を奪った。
「ちょっと! なにするんですか!?」
「これくらい、いいだろ。徒歩には変わりないんだから」
「でも……」
「あんたの神様はそんなケチくさい事をいうのか」
名無しは返事も聞かずにくるくると紐で鞍にエミリアの荷物を固定してしまった。
「さぁ、次の町は大分先だ。頑張って歩け」
ちらほらと春を告げる道の花の咲く中、二人は歩み始めた。次の町まではかなり距離がある。途中で野営をする必要があるだろう。エミリアは女の背に背負えるこれだけの荷物でこれまでの道のりを時にはそうして進んできたという事だ。
「……」
「……」
一心不乱に進むエミリアに言葉は無い。名無しも黙ってその後ろを馬でゆっくりと付いて行っていた。時々休憩をとりながらも、道行く人が時折エミリアの姿を見つけてありがたそうに拝む以外は特に何の問題もなくその日は終わった。
「……今日はこの辺にして置いた方がいい」
空がうっすらと暗くなって来た頃、名無しは河原を見つけると、エミリアに声をかけた。
「ええ、そうですね」
振り返ったエミリアの額にはうっすらと汗が滲んでいた。もしかしたら馬で追走する自分の所為で無理をさせてしまったのかもしれない、と名無しは思った。
「あんたは座って休んでいろ。あとは俺がやる」
名無しは岩の上にエミリアを座らせて、茂みから枯れ枝を集めて火を熾した。そして荷物の中から小さい鍋を取りだした。
「ここは私が」
エミリアはそう言って鍋に魔法で水を満たした。名無しはそこに干し肉と堅焼きパンを放り込んでパンがゆにする。いくら春が来たと言っても日が落ちればまだまだ寒さは厳しい。温かい食事はこういう時ほど重要である。
「……何してるんだ?」
「ああ、これは魔物と獣除けの魔道具です」
「そんなものがあるのか」
「ええ。古い魔法の産物です。製法も流通も教会が握っていますが……これがあれば旅人も安全に旅できますのにね……」
エミリアは円形のメダルのようなものを四方に配置しながらそう呟いた。その悲しそうな横顔を見て、名無しは口を開いた。
「そんなものが世に出回ったら夜盗もおたずねものも森に潜み放題だ」
エミリアはその言葉を聞いてきょとんとした顔で名無しを見上げた。
「きっと、出回ってないなりの理由があるんだろ」
「……そんな事、思いもよりませんでした。そうですよね……」
エミリアはどこか救われたようなスッキリとした表情で、たき火を見つめた。
「ほら、食べろ」
「はい」
名無しが取り分けたパンがゆを受け取って、エミリアは微笑んだ。
二人は簡素な食事を終えると、固い岩の上に横になる。深くは眠れないだろうが、明るい朝がやってくるまではこうするしているしかない。名無しはマントを、エミリアは毛布を体に巻き付けて朝を待つことにした。
案の定、エミリアは寝付けないようで時折寝返りをうったりため息をついたりしている。名無しはそんなエミリアの息づかいを感じながら時折たき火に火をくべていた。
「……アル。起きてますか?」
「ああ」
寝ていたとしても元々名無しの眠りは浅い。何かあればすぐ目覚めるよう習慣づけられていた。
「ありがとうございます。その……心強いです。アルが居てくれて」
「……」
名無しはしばし考え込んだ。今後の旅の心配では無い。ただ思ったのだ。エミリアは聖都にいったらそこでお別れである。その道中も村でとっさに名乗ったこの名前で呼ばれ続けるのかと。
「あのさ……」
「はい?」
「実はアルって名前は本当は俺の名前じゃない」
「……え?」
エミリアは思いも寄らない言葉に思わず起き上がった。そしてたき火に照らされた名無しの顔を見た。
「じゃあ、本当の名前は?」
「……無い」
「無い……って? 名前が……?」
エミリアは名無しの顔を見て、それが冗談でもなんでもない事を察した。
「そんな事があるんですか? ……不便じゃないですか」
「俺を知るものは『名無し』と」
「……」
名無しがそう言うと、エミリアは絶句した。自分が思っていたよりも、名無しの事情は複雑らしいと感じた。
「あの村でとっさにアーロイスと名乗った。……どうも気に入らないんでな。できれば他の名前で呼んでくれ」
「え……」
「適当にあんたが決めてくれ」
そう言われてエミリアはただただ言葉を失った。
「ところであんた、教会に行かなくてよかったのか?」
「それですが……この町の教会にはもう手が回っているかもしれないと思いまして」
「なるほどな」
「下手したら今後も……」
エミリアは悲しげに顔をしかめた。
「はーあ、坊さん連中までそんなんか」
「誤解しないでください。全部が全部そういった訳ではありません。きちんと神の教えを守り、熱心な聖職者ももちろんいます」
呆れたようにため息をついた名無しを見て、エミリアは慌ててそう付け足した。
「……だな、あんたとかあの村の司祭とか」
「ええ」
名無しの脳裏にあったのは村の教会の素朴な集会だ。そして教会学校を毎週楽しみにしているクロエの顔。
「教会は……もっと人の苦しみや幸せに寄り添うべきと考えています。内輪の揉め事などしている暇は本来はないはずなのです」
「……メシが冷めるぞ」
放って置けばいつまでも理想を語り続けそうなエミリアに、名無しはそれだけ返した。
翌朝、名無しとエミリアは町を出た。名無しは厩から馬を引いてきながらエミリアに聞いた。
「本当に乗らなくていいのか」
「はい、私は徒歩で行きます。100年前の聖女、フロランスの偉業をなぞるのがこの巡礼の目的です」
「……ふーん」
名無しはそれを聞いて一人、馬に飛び乗った。そして、手を伸ばしてひょいとエミリアの荷物を奪った。
「ちょっと! なにするんですか!?」
「これくらい、いいだろ。徒歩には変わりないんだから」
「でも……」
「あんたの神様はそんなケチくさい事をいうのか」
名無しは返事も聞かずにくるくると紐で鞍にエミリアの荷物を固定してしまった。
「さぁ、次の町は大分先だ。頑張って歩け」
ちらほらと春を告げる道の花の咲く中、二人は歩み始めた。次の町まではかなり距離がある。途中で野営をする必要があるだろう。エミリアは女の背に背負えるこれだけの荷物でこれまでの道のりを時にはそうして進んできたという事だ。
「……」
「……」
一心不乱に進むエミリアに言葉は無い。名無しも黙ってその後ろを馬でゆっくりと付いて行っていた。時々休憩をとりながらも、道行く人が時折エミリアの姿を見つけてありがたそうに拝む以外は特に何の問題もなくその日は終わった。
「……今日はこの辺にして置いた方がいい」
空がうっすらと暗くなって来た頃、名無しは河原を見つけると、エミリアに声をかけた。
「ええ、そうですね」
振り返ったエミリアの額にはうっすらと汗が滲んでいた。もしかしたら馬で追走する自分の所為で無理をさせてしまったのかもしれない、と名無しは思った。
「あんたは座って休んでいろ。あとは俺がやる」
名無しは岩の上にエミリアを座らせて、茂みから枯れ枝を集めて火を熾した。そして荷物の中から小さい鍋を取りだした。
「ここは私が」
エミリアはそう言って鍋に魔法で水を満たした。名無しはそこに干し肉と堅焼きパンを放り込んでパンがゆにする。いくら春が来たと言っても日が落ちればまだまだ寒さは厳しい。温かい食事はこういう時ほど重要である。
「……何してるんだ?」
「ああ、これは魔物と獣除けの魔道具です」
「そんなものがあるのか」
「ええ。古い魔法の産物です。製法も流通も教会が握っていますが……これがあれば旅人も安全に旅できますのにね……」
エミリアは円形のメダルのようなものを四方に配置しながらそう呟いた。その悲しそうな横顔を見て、名無しは口を開いた。
「そんなものが世に出回ったら夜盗もおたずねものも森に潜み放題だ」
エミリアはその言葉を聞いてきょとんとした顔で名無しを見上げた。
「きっと、出回ってないなりの理由があるんだろ」
「……そんな事、思いもよりませんでした。そうですよね……」
エミリアはどこか救われたようなスッキリとした表情で、たき火を見つめた。
「ほら、食べろ」
「はい」
名無しが取り分けたパンがゆを受け取って、エミリアは微笑んだ。
二人は簡素な食事を終えると、固い岩の上に横になる。深くは眠れないだろうが、明るい朝がやってくるまではこうするしているしかない。名無しはマントを、エミリアは毛布を体に巻き付けて朝を待つことにした。
案の定、エミリアは寝付けないようで時折寝返りをうったりため息をついたりしている。名無しはそんなエミリアの息づかいを感じながら時折たき火に火をくべていた。
「……アル。起きてますか?」
「ああ」
寝ていたとしても元々名無しの眠りは浅い。何かあればすぐ目覚めるよう習慣づけられていた。
「ありがとうございます。その……心強いです。アルが居てくれて」
「……」
名無しはしばし考え込んだ。今後の旅の心配では無い。ただ思ったのだ。エミリアは聖都にいったらそこでお別れである。その道中も村でとっさに名乗ったこの名前で呼ばれ続けるのかと。
「あのさ……」
「はい?」
「実はアルって名前は本当は俺の名前じゃない」
「……え?」
エミリアは思いも寄らない言葉に思わず起き上がった。そしてたき火に照らされた名無しの顔を見た。
「じゃあ、本当の名前は?」
「……無い」
「無い……って? 名前が……?」
エミリアは名無しの顔を見て、それが冗談でもなんでもない事を察した。
「そんな事があるんですか? ……不便じゃないですか」
「俺を知るものは『名無し』と」
「……」
名無しがそう言うと、エミリアは絶句した。自分が思っていたよりも、名無しの事情は複雑らしいと感じた。
「あの村でとっさにアーロイスと名乗った。……どうも気に入らないんでな。できれば他の名前で呼んでくれ」
「え……」
「適当にあんたが決めてくれ」
そう言われてエミリアはただただ言葉を失った。